涙の後で
-8-
「戸田、起きろよ、戸田」
「んー…?」
眠そうに唸ったが、慶はまだ目を開けなかった。
俺はもう一度だけ肩を揺すった。
「俺、出掛けるからな?起きないと、食堂閉まっちゃうぞ」
「ん…、そっか…、分かった…」
目を擦りながらそう言うと、慶はだるそうに上半身を起こした。
「隣町へ行くんだっけ?」
「う、うん。それじゃ俺、行くから。ちゃんと起きなよ」
「ああ、ありがと。気をつけてな」
「うん。じゃ…」
まだ目が覚め切らない慶を残し、俺は部屋を出た。
小金井先輩とは寮の外で待ち合わせていた。俺が玄関から外に出ると、先輩は丁度、B寮の方から此方へ向かって歩いて来るところだった。
「先輩」
呼びかけて手を振ると、先輩は軽く手を上げて此方に向かって走って来てくれた。
「おはようございます」
「おはよう。晴れて良かったな」
笑顔でそう言われ俺はすぐに頷いた。
「はい」
天気予報では曇りだったが、空は青い部分の方が多かった。
その空の下を俺たちは並んで歩き出し、バス停へと向かった。
下の町まで降りるのに、ここからだとバスの待ち時間も含めて1時間ぐらいは掛かる。そこからまた電車に乗って30分近く掛かるので、“隣町”へ行くのは本当にちょっとしたイベントだった。
なので、折角なら雨は避けたい。天気が悪くなくて本当に良かった。
それに、小金井先輩の気分にもきっと影響しているのではないだろうか。
落ち込んでいる時に天気が悪いのは、その気分をもっと暗くするような気がする。少なくとも、俺はそうだった。
「高梁も、何か買い物とかあるのか?」
「はい。夏物の服、少し買いたくて…。あんまり持って来てないし、それに…、当分、家に帰る予定もないので」
「そうか。夏休みまで帰らないつもり?高梁の実家は遠いんだっけ?」
「はい。日帰りではちょっときついです。車ならそうでもないけど、ここ、急行とか停まらないし」
「そうなんだよなぁ。ローカル線だからなぁ」
先輩も苦笑いしながらそう言った。
「俺も、夏休みまで帰らないつもりなんだ。週末に、長々と電車に揺られて帰るほどの用事もないしな」
実家に帰るのに時間が掛かる寮生は、余程用事がない限り週末に帰ることは稀だった。
(そう言えば…)
そんな中で、友井先輩は殆ど毎週家に帰っているらしい。
先輩の家はそれ程離れていないのだろうか。それとも、両親が心配して、毎週帰って来るように言われているのかも知れない。
そう思った時、俺は思い出した。
友井先輩と小金井先輩は確か同じ中学だった筈だ。この前、真藤先輩に聞いたばかりだから間違いない。
だったら、家に帰るのが面倒だと言わんばかりの小金井先輩と、友井先輩も同じくらいの時間が掛かるに違いなかった。
親が厳しくて毎週必ず帰る様に言われているのだとしても、高3になる先輩が大人しく言うことを聞いているというのも少し変な気がしないでもなかった。
たまには家に帰らずに友達と出掛けるとか、それに、慶とデートするとかそんな事があってもいい筈だったが、俺の知る限りで、先輩と慶が週末に一緒に出掛けたことは無かったし、先輩からのモーニングコールが慶に掛かって来ることも無かったのだ。
ちょっと不思議な気がして、俺は思わず先輩に訊こうとして口を開いた。
だが、ハッと気付いて慌てて口を噤んだ。幾らなんでも、訊く相手が悪い。小金井先輩相手に友井先輩の話題は絶対に出してはいけないことだった。
その代わり、俺は思い出して今朝の坂上との約束のことを話した。
「え?明日?」
「はい。いいですか?もう、約束しちゃったんですけど」
俺が訊くと、先輩はちょっと苦笑いをした。
「じゃあ、駄目って言えないじゃないか」
「あっ…、ご、ごめんなさい」
俺が慌てて謝ると、今度はプッと吹き出して先輩は笑った。
「ははは…。嘘、嘘。いいってそんな、友達と出掛けるくらいで妬いたりしないよ。そんなの一々俺に断らなくていいからさ」
「あ、はい…」
やっぱり思った通り、先輩は怒らなかった。
それは、先輩の心が広いということでもあっただろうが、もうひとつは、先輩の気持ちが俺に執着していないからだろう。
これがもし、友井先輩相手だったとしたら、先輩はきっと坂上にも焼きもちを妬いたに違いないと思うのだ。
「でも、俺との約束がある時は、俺の方を優先して欲しいな」
言われて俺は、慌てて頷いた。
「は、はい。勿論です」
俺が答えると、先輩はクスッと笑って俺の頭を撫でた。
この優しい笑顔の下に、先輩は今も嵐を押し隠しているのだろうか。
誰にも言えない苦しみを押し殺しているのだろうか。
そう思うと、先輩の笑顔さえ、俺には辛く感じた。
「誰も居ないな。手、繋ごうか……」
照れたようにそう言われ、俺は先輩に手を差し出した。
「はい…」
俺と手を繋いでも、先輩は然程嬉しくないのかも知れない。ただ、“付き合っている”ことになっている俺に対して気を遣ってくれただけだろう。
だが、それでも俺は嬉しかった。
先輩の優しさも、繋いだ手の温かさも、その力強さも…。
誰かと手を繋いで歩くなんて、子供の頃に母としたきりだった。気恥ずかしい思いもあったが、指を絡ませ合ってこうして歩くと、本当に恋人同士になれたような気がして嬉しく思えた。
「いい匂いする…」
嬉しそうな先輩の言葉に俺は顔を上げた。
「え?」
「シャンプー?」
言った後で、先輩はクンッと俺の髪の匂いを嗅いだ。
「そうかも…。コロンとかは付けないんで」
「ふうん…」
「先輩はつけますか?」
「いや、俺はつけないな。そう言えば、拓馬はたまにつけてるな。……それともあれは、自分のじゃなくて誰かの移り香だったりして…」
苦笑いしながら先輩はそう言った。
そう言えば、映画を見た後に抱きしめられた時、真藤先輩からはいい匂いがしたのを思い出した。
あの時は、朝から一緒だったので誰かの移り香だとは考えられない。きっと先輩はフレグランスを愛用しているのだろう。
それにしても、本当に小金井先輩は、真藤先輩のことを誰とでも付き合うような軽い人間だと思っているのだろうか。
それとも、そんな風に見せているだけで、本当は誰よりも信頼しているのだろうか。
何だか俺には、後者のように思えてならなかった。
そうじゃなければ、あんな行為に及ぶ訳が無い。
「拓馬…、高梁に何か言ったか?」
「え…?」
躊躇いがちに言った小金井先輩の言葉に、俺はハッとなって顔を上げた。
「何かって…?何のことですか?」
まさか、真藤先輩が小金井先輩と友井先輩の関係を俺に話したのではないかと疑っているのだろうか。
「いや…、好きだとか言われたのかと思って…」
「えっ?えっ?……そ、そんなこと言われてませんよっ。何でですか…?」
「いや…。ほら、一緒に町へ出たことあったろ?あの後、何だかちょっと高梁の様子が変だったように感じたから…」
好きだとは言われてないがキスはした。
やはりあの時、俺は何時もと違っていたのだろうか。そして、小金井先輩はそれに気付いていたのだ。
「べ、別に何も……。何も無いです」
あの時はまだ、小金井先輩と付き合うと決めていた訳ではなかったから、裏切った訳でも浮気した訳でもないだろう。でも、やはり本当のことはどうしても言えなかった。
「そうか。それならいいんだけど。……でも、拓馬にもし好きだって言われても信じない方がいい」
何だか険しい顔でそう言った先輩を見て俺は思わず唾を飲み込んだ。
「……どうして?」
躊躇いがちに俺が訊くと、先輩はフッと笑って険しかった表情を緩めた。
「いや…。あいつの場合、本当か嘘か分からないトコがあるからさ。八方美人って言うのかな。……いや、ただ、優しいだけなのかも知れないけど…」
「先輩…」
ちらりとだが、初めて小金井先輩は真藤先輩について本音を見せたような気がした。
「先輩は、真藤先輩の本当に好きな人が誰だか知ってるんですか…?」
何となくそんな気がして俺は訊いた。
すると、先輩はまたフッと笑い、そして首を振った。
「さあな。あいつは、あからさまなように見えて本心を見せないから。さっぱり分からないよ、俺には」
先輩の答えに、俺は何も言わなかった。
でも、本当は気が付いているのではないかと思った。
真藤先輩の本当の気持ちを小金井先輩だけは知っているのではないか。そう思えてならなかったのだ。
隣町へ着いて、最初に大きなデパートへ向かった。
そこで、カジュアルなメンズショップなどを廻り、先輩に一緒に選んでもらいながら、俺は夏物の洋服を数枚買った。
先輩はデジカメ用の新しいレンズを買い、それから大きな本屋で目当ての写真集を買った。
昼はお洒落なカフェで先輩にパスタを奢ってもらい、それから、少しまた街を歩いた。
流石に学校の下の町とは違い、随分歩いても繁華街は途切れなかった。
向こうの町にはない珍しい店も沢山あって、それらを覗いて歩くだけでも俺には楽しかった。
「そう言えば、高梁の誕生日は何月なんだ?」
「え?俺は早生まれなんで、1月です」
「そうか。じゃあ、まだまだだな」
「先輩は?何月生まれですか?」
「俺は6月」
「えっ?じゃあ、今月じゃないですか。何日ですか?」
驚いて俺が訊くと、先輩は笑いながら答えた。
「実は明日なんだ」
「えっ…。あ、じゃ、じゃあ、俺、何かプレゼントします。先輩、何か欲しいものないですか?」
「え?いいよ、そんな…。そういうつもりで言ったんじゃないんだから」
「ううん。何かプレゼントしますよ。…って言っても、そんなに高いものは買えないけど…」
「いいって。気持ちだけ貰っとく。あ、そうだ、その先の店、パフェとかケーキとか美味しいってクラスのヤツが言ってたぞ。何か食べようよ」
「えっ、あ…」
手を引かれて、俺は先輩の後に付いて行った。
カフェでまたケーキを奢ってもらい、俺たちは帰途に着いた。
先輩に何か買いたかったのだが、とうとう何も買わせてはもらえなかった。
寮に着くと、誘われるまま俺は先輩の部屋へ付いて行った。
真藤先輩は出掛けているらしく、部屋には居なかった。
小金井先輩は買ってきたレンズを、早速、愛用の一眼レフに取り付けて俺にも覗かせてくれた。
使い方を教わったり、写真を見せてもらったりしながら雑談し、それから、やはり今日買ってきた写真集を見せてもらった。
俺がベッドに腰を下ろして写真集を眺めていると、先輩は淹れてくれたコーヒーを机の上に置いて、俺の隣に腰を下ろした。
「高梁……」
「はい?」
呼ばれて顔を上げると、先輩は一瞬躊躇ったような表情を見せた後で、俺の肩に手を置いた。
「やっぱり、プレゼント貰っていいかな?」
「え?ええ、勿論…。何か欲しい物ありますか?」
「うん…」
頷くと、先輩の顔が近付いて来た。
ハッとして身体が硬くなるのが分かった。
そして、思わず避けようとした俺の顔を追い、先輩の唇が俺の唇に押し付けられた。
急に、ドキドキと鼓動が早まる。
カーッと体中の血が熱くなるのが分かった。
先輩の唇はすぐに離れていったが、俺はまだ目を開けられなかった。
そして、膝の上の写真集が退かされたかと思うと、すぐに先輩の両手が俺の肩を掴み、そして、ゆっくりとベッドの上に押し倒された。
「せ、先輩…ッ」
そう呼んだつもりだった。でも、声は出ていなかった。
開いた俺の唇にまた唇が重なり、あの時、真藤先輩がそうしたように小金井先輩もまた俺の口の中に舌を忍び込ませてきた。
「んっ…」
自然と吐息が漏れる。
顔を振ろうとして、先輩の身体の重みを改めて感じた。
何処にも逃げられない。
そう感じた途端に、少し怖くなった。
(また、キスしてるんだ……)
ぼんやりとそう思った。
何故か不思議と、キスされたことへの驚きは無かった。
先輩の唇は訪れたときよりもずっと、そっと離れていった。
そして、間近で俺の目を見つめるとほんの僅かに吐息を漏らし、先輩は俺の身体に重なるようにして頬を摺り寄せた。
躊躇いながら両腕を持ち上げると、俺は先輩の身体を抱きしめた。
自分よりもずっと大きな逞しい先輩の身体が、何故か頼りなく感じられて、俺は何だか酷く切なかった。