涙の後で


-5-

「千冬が……、もうユキとは付き合えないと思うなら、それは仕方ないと思う。けど、俺がどう思うかなんて関係ないし、気にする必要も無い。俺のことは考えなくていいよ」
先輩の言葉に、俺は首を振った。
「でも、先輩は小金井先輩のこと…っ」
俺の言葉を遮るように、先輩は両手で俺の腕を掴んだ。
「さっきも言ったろ?俺のユキに対する気持ちは恋愛感情とは違う。それに、ユキの方だって俺のことは絶対に選ぶ訳無いんだ」
「どうしてですか?」
訊くと、先輩は俺の腕を離して軽く肩を竦めた。
「俺が、尚也の最初の王子だからさ」
「えっ?」
今日、何度目の驚きだろうか。
本当に、今日の俺は驚くことばかりに遭遇している。
余り親しそうなところも見せなかった真藤先輩が、今の慶のように嘗ては友井先輩の王子だったのだ。
だとしたら、一体、何故別れたのだろう。
やはり、小金井先輩のことが関係あるのだろうか。
「もう、隠していても仕方ないから全部話すけど……」
そう言って、先輩は後ろの本棚に軽く寄り掛かった。
「あの容姿だからな、尚也は入学当初から、それこそ驚くほど大勢の相手から交際を求められた。けど、まさかここがこんな学校だとは知らずに入学してきた尚也は戸惑うだけだったんだろう。誰と付き合うとも決めないまま、その内に、この前千冬がされたみたいに、強引な奴に襲われそうになったんだ」
「友井先輩も…?」
「ああ…。実はその時も、偶然に俺が気付いて助ける形になった。尚也とは同じクラスだったけど、それまでは余り話したことも無かった。けど、そのことがきっかけで俺たちは仲良くなった」
「そうなんだ…。小金井先輩とも同じクラスだったんですよね?」
俺が訊くと、先輩は頷いた。
「ああ。でも、なんだか尚也はいつもユキを避けてるように見えた。事情は知らなかったが、俺はそのことには最初から気付いてたんだ。……まあ、俺には関係ないことだし、そのことにわざわざ触れたりはしなかったけどな。……尚也の方は襲われたことで怖くなってしまったらしく、独りになるのを極端に嫌がるようになった。放っても置けないし、俺は何時も尚也と行動を共にするようになったんだ。そうなると、俺たちが付き合っているらしいと噂されるようになってな。俺も別に構わなかったし、尚也も都合がいいって言うんで、俺たちは噂を否定しなかった」
「じゃあ、本当に付き合っていた訳じゃなかったんですね?」
「ああ、まあな。けど、周りはそうは思ってなかったし、それから……、ユキもそうは思わなかった」
そう言うと、真藤先輩は少し辛そうな顔になった。
「ユキは、俺とのことが噂になると、何で自分じゃ駄目なんだって尚也に詰め寄ったらしい。……でも、尚也はユキの気持ちを知っているだけに、ユキだけは選べなかったんだよ。選ぶにはユキの想いは真剣過ぎたんだ」
それを聞いて、俺はただ黙って頷いた。
「2学期の終わりまで、俺と尚也は恋人のふりを続けていた。けど、やっぱり本物じゃないってことは何処か分かるもんなんだろう。疑っている奴も居たらしい。その内に、尚也は今年の3月まで付き合ってた先輩に告られて付き合うことにしたんだ」
「その先輩とは、勿論カモフラージュじゃなかったんですよね?」
俺が訊くと、真藤先輩はちょっと笑った。
「さあな。本当のところは俺も知らない。けど、その先輩と居る尚也は俺と居る時とは明らかに違ってたし、キスしてるのを見たって奴もいたからな。擬似恋愛だったのかも知れないが、それなりに真剣だったんじゃないかな」
「そうですか……」
その先輩と友井先輩は3月の卒業と同時に別れたのだと前にも聞いた。
幾らこの学校に居る間には本当の恋人同士のように見えても、どちらかが卒業してまで付き合うことは珍しいとも聞いている。
それが、この学校の特殊性だと思うし、擬似恋愛と言われる所以なんだろうとも思う。
だが、キスまでした相手と3月に別れたばかりだというのに、もう慶ともキスをしている。
友井先輩が不誠実だとは思わない。そんなことを言ったら、自分はどうなのかと言われるだろう。
でも、慶に恋している俺からすれば、素直に受け入れられないことでもあったのだ。
「ユキには最初、随分嫌われたし、恨まれたよ」
言いながら真藤先輩は苦笑した。
「俺は二人とは違う中学だったから知らなかったが、ユキは尚也とは幼馴染で、初恋だったらしい。ずっと、尚也が好きで、家庭の事情で尚也が寮のあるこの学校に進学を決めると、ユキも追いかけて受験した。……傍から見れば俺が身を引く形になり、尚也が先輩と付き合うと知った時、ユキは物凄く怒って俺に詰め寄った。何で簡単に尚也を譲るんだって……」
小金井先輩にしてみれば、どうやっても手に入れられない友井先輩を、簡単に手に入れながらすぐに手放してしまった真藤先輩が憎くて堪らなかったのかも知れない。
そして、真藤先輩は、そんな小金井先輩に同情してしまったのだろうか。
「俺は、ユキに本当の事を言う訳にはいかなかった。そんなことをしたら、余計にユキが傷つくだろうと思ったしな…。だから、ユキには尚也との付き合いに飽きたんだって嘘をついて、俺はすぐに他に相手を見つけて付き合い始めた。お陰で軽い奴だってレッテルを貼られて、ユキにはすっかり軽蔑されちまったよ」
だから最初、小金井先輩は俺に真藤先輩のことをあんな風に言ったのだ。もしかすると、真藤先輩が友井先輩を振ったのだと思っているのかも知れない。
でも、だとしたら、良く思っていない筈の真藤先輩に、何故抱かれているのだろうか。
「俺とユキは2年から同室になった。最初、それこそユキは口も利いてくれなかったよ。……俺と同室になってからも、ユキは何度か尚也に気持ちを伝え、そして、その度ごとに傷ついた。俺は適当に遊んで発散してたが、ユキはそうじゃない。部屋で独りになった時、多分、尚也を思いながら自分を慰めてたんだろう」
俺はなんだか見ていられなくなって、先輩から目を逸らした。
真藤先輩は小金井先輩に恋愛感情を持ってはいないのかも知れない。でも、心底同情しているように見える。
そして、本当に辛そうに見えたのだ。
「ユキは尚也を抱きたかったんだろう。でも、それは叶わない望みだった。あの晩…、俺が眠っていると思ってたらしい。……夜中に気配がして……、何をしてるのか勿論分かった。だが、様子が普通じゃなく酷く辛そうで、俺は躊躇ったが声を掛けた。ユキは驚いたようだった。そして…、泣き出したんだ。……押し込めていた思いを何処にも吐き出せないまま、ユキはいつも明るく振舞っていた。それは、随分無理をしていたんだろうな。本当はもう、ぎりぎりのところまで来てたんだと思う」
しっかりしていて、明るくて、頼りになって、誰からも慕われる、そんな小金井先輩しか知らなかった。
その先輩が、人知れず泣くほどに友井先輩を想っていたのかと思うと、俺は他人事ながら鼻の奥が熱くなってきた。
「最初、俺はユキを抱くつもりなんか無かった。けど、ユキは多分、もっと辛い目に合いたかったんだと思う。心の痛みに押し潰されない為に、他の痛みが欲しかったんだと思うんだ……」
だから、真藤先輩は小金井先輩に乞われるままに彼を抱いたのだ。
それを知って、俺はまた辛い気持ちになった。
もし、真藤先輩が本当は小金井先輩のことを好きなのだとしたら、求められているのが自分じゃないと知りながら、その相手を抱くことが辛くない訳はない。
真藤先輩もまた、痛みに耐えながら小金井先輩を抱いているのだろう。
二人の心が切なくて、俺は涙を堪え切れなかった。
「千冬……」
俺が泣いているのに気づき、先輩は手を伸ばすと俺の頭の上に載せた。
「優しいな、千冬は……」
慶と同じことを言われ、俺はまた首を振った。
俺は、優しくなんかない。
優しいのは俺以外のみんなの方だ。 みんな優しい。
坂上も、小金井先輩も、真藤先輩も、慶も……。
そんな人たちに囲まれて、俺一人が醜かった。



部屋に戻ると、慶は一人だった。
もう食堂が開いている時間だったし、もしかすると友井先輩と二人で夕食をとりに行っているのではないかと思っていたが、先輩は一旦部屋に帰ったらしかった。
「さっき、廊下で坂上に会ったよ。怪我してるから、早目に部活切り上げたって」
パソコンの画面から振り向かず、慶は淡々とした調子でそう言った。
「……そう」
もう、嘘を言っても仕方が無い。俺が小さな声で答えると、慶はやっと俺の方を振り返った。
「悪かったな。もう、尚也さんを部屋に入れたりしないよ。千冬に気を遣わせたくないと思ってるのに、いつも失敗しちまう。…ごめんな?」
「そ、そんなこと…、そんなつもりじゃないよ。友井先輩を部屋に入れたからって何とも思わないし、それに、それに……、気を遣ってるのは戸田の方だ」
声を落とし、慶から目を逸らすと俺は最後にそう言った。
「何でそんなに俺を気遣ってくれるの?……義父に振られた俺が惨めで可哀想だから?楠田たちに嫌がらせされても撥ねつけられないくらい弱いから?それとも……、妹さんの代わり?……でも俺、戸田に守ってもらうような、そんな価値なんかないよ。俺のことなんて、放っておいてくれればいいんだ」
疲れた声で言うと、俺はベッドに腰を下ろし、そのまま横になった。
今日1日で、何日分もの時を過ごしたような気がする。
色んなことがあり過ぎて、身体も心も疲れ切ってしまった。それなのに、自分の部屋でさえ俺は寛ぐことが出来なかった。
慶の存在を、何時も心の隅から消せない。そして、彼を意識して、気持ちを安らげることが出来ないのだ。
「……悪かった。もう、お節介なことは言わないし、しない」
自分から望んだことなのに、その言葉に突き放されたように感じて、また泣きたくなった。
もうこれで、慶は俺に話し掛けてもくれなくなるかも知れない。
でも、いいのだ。
その方がいい。
馬鹿な俺は、どんなに希望が無いと分かっていても優しくされれば期待してしまう。
慶にはそんなつもりはなくても、“もしかして”と思ってしまう。
だから、冷たくされた方がいい。
突き放された方がいいのだ。
「俺が邪魔だったら、いつでも言って?部屋、空けるから」
枕に顔を押し付けたまま、俺はくぐもった声でそう言った。
慶は答えなかった。
きっと、呆れたのだろう。
いじけた俺の言葉に呆れて、言葉を掛ける気にもならなかったのだ。
ブレザーも脱がず、俺はベッドの上で寝返りを打った。
明日の朝、小金井先輩は食堂へ現れるのだろうか。
先輩の顔を見た時、俺は普通に振舞えるだろうか。
今日、真藤先輩から聞いたことは胸の中へ仕舞っておくつもりだった。そうした上で、知らない振りをしたまま、小金井先輩と今まで通りに付き合うつもりだった。
真藤先輩は俺に対して、どうしろとも言わなかったが、俺が態度を変えない事が1番小金井先輩を傷つけずに済むような気がしたのだ。
思えば俺は、今まで小金井先輩に助けてもらっていた。先輩のお陰で、随分気持ちが楽になったのは確かだった。
だからもし、俺が少しでも先輩の気持ちを楽にしてあげられるなら、知らない振りをして今まで通り傍に居ようと思ったのだ。
友井先輩の代わりには、とてもなれないと分かっている。
それでも俺を選んでくれた先輩の為に、少しは何かしたいと思った。
慶が立ち上がる気配がして、食堂へ行くのだと分かった。
いつもなら、必ず俺に声を掛けてくれるのだが、さすがに今日は黙って出て行ってしまった。
きっともう、2度と声を掛けてくれないだろう。
でも、それでいいのだ。
そうして少しずつ距離を置いて、そうして、忘れたい。
こんな些細なことで、泣きたくなってしまうほど好きな、この想いを忘れたいのだ。
のろのろと起き上がると、俺はブレザーを脱いでネクタイを外した。
立ち上がってハンガーにそれらを掛け、バスルームのドアを開けて灯りを点けた。
鏡の中の顔は、滑稽なほど醜かった。
冷水を出して両手で掬うと、俺は何度も顔を洗った。
真っ赤に染まった目の淵を、少しでも冷やしたかった。
タオルを出して冷水で絞ると、俺はそれを持ってベッドへ戻った。
目の上にタオルを載せて横になる。
息を吐くと、両手の指を組んで腹の上に載せた。
この学校へ来なければ、慶にも先輩たちにも会うことは無かった。こんなに辛い思いをすることもなかったのだろうか。
だが、家に居ても、きっと俺は正孝さんのことでうじうじ悩んでいただろう。
だったら、何処にいても同じだ。
いや、幾ら辛くても、俺はこの学校に来たことを後悔してはいなかった。
来なければ、慶への片想いに悩むことは無かった。
でも、来なければ会えなかった。
好きになってはもらえなくても、このまま嫌われてしまっても、ほんの少しでも慶の傍に居られる今が、俺には大切だったのだ。
タオルを外すと、俺は起き上がった。
今夜は食事をする気力さえ起きなかった。食堂へ行って、誰かに話しかけられるのも面倒に思えた。
このまま部屋に居ようと決め、俺はまたタオルを載せると横になった。
だが、ノックの音がして、俺はすぐにまた起き上がった。
「はい、どうぞ」
返事をすると、入って来たのは楠田だった。
「楠田君…」
「あ、ごめん。寝てた?具合でも悪いの?」
ベッドの上に座ったままの俺を見て少々眉を顰めながら、楠田はそう言ってドアを閉めた。
「ううん。ちょっと疲れて……」
何の用があって来たのかはすぐに察しがついた。きっと、今朝のことで何か言うつもりなのだろう。
何時もの楠田からすれば、あんな場面を見ておきながら、今日1日、何も言ってこなかったのが不思議なくらいだった。
「今朝のことだけど、あれは別になんでもないから。小金井先輩が食堂に来なかったから心配になって部屋に行っただけで……」
先回りして俺が言うと、楠田は何も答えずに肩を竦め、珍しそうに部屋の中を見て回った。
やがて、気の済むまで部屋の中を見回ると、楠田は俺の前に立った。
「今朝さ、高梁君、真藤先輩と抱き合ってたよね?あれで、何でもないなんて言えるかなぁ…。それにさ、知ってんのかなぁ?……小金井先輩は」
その言葉に、俺は驚いて楠田を凝視した。
楠田は俺をじっと見下ろしながら、僅かに唇の端を持ち上げて笑っていた。