涙の後で
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気持ちを落ち着かせると、俺は慶の身体から離れた。
幾ら離れ難くても、このまま慶の胸に縋っている訳にはいかない。
俺は、しっかりしろと自分に言い聞かせて慶の顔を見上げた。
「俺…、大丈夫だから。け…、戸田も真藤先輩も大袈裟だよ。そりゃ、ちょっとは嫌がらせみたいなこともされてるけど、でも、大したことじゃないし、俺は一人で何とか出来る。か弱いと思われてるのかも知れないけど、これでも俺、男なんだよ」
何とか震えずにそう言うと、俺は精一杯笑って見せた。
「それは、勿論分かってるよ。高梁をか弱いと思ってる訳でもない。…でも、あんまり一人で抱え込むのは良くないと思う。兎に角、明日からは俺が出来るだけ傍に居るから」
「でも……」
慶の傍にはいつも友井先輩が居るのだ。俺が傍に居たら邪魔に決まっている。
俺が断ろうとすると、また、慶は俺の腕を掴んだ。
「また、余計な気を回そうとしてる。朝だってそうだ。俺と尚也さんに遠慮して、わざと食堂へ行く時間をずらしてるだろ?毎朝、一番に来て一人で食べていくって、食堂のおばちゃんたちが心配してたぞ」
「そっ……」
まさか、おばちゃんたちが慶にそんな話をしていたなんて知らなかった。きっと、一緒に朝食をとる相手もいないのかと、おばちゃんたちにまで同情されていたのだろう。
そう思うと恥ずかしくて顔が熱くなった。
「別に俺、そんなつもりじゃ…」
情けなかった。
俺が精一杯虚勢を張っていることを、慶はきっと気付いているのだと思うと、情けなくて堪らなかった。
「高梁、…いや、千冬は…」
言い直されて、俺は驚いて顔を上げた。
“千冬”と、まさか慶が俺を名前で呼んでくれるなんて思いもしなかった。
感動するのと同時に妙にどぎまぎしてしまい、俺はまたすぐに目を伏せた。
「千冬はいつも誰かに遠慮してるように見える。いつも、自分は一歩引いて、他人に気を遣ってる。なあ、もっと、楽にしろよ。少なくとも、俺には気を遣う必要なんて無い」
なんと答えていいのか分からなかった。
慶がそんな風に思っていてくれたなんて、とても嬉しい。
だが、そうじゃないのだ。
俺はただ、捻くれていじけた心で、慶を手に入れた友井先輩に醜く嫉妬しているだけだ。
そんな自分を知られたくなくて、避けているだけのことなのだ。
ただの臆病者でしかない。
俺に比べたら、自分の意思をはっきり示しているだけでも楠田の方が余程立派に違いなかった。
「そんなんじゃない…」
下を向いたままで、俺はぼそぼそと答えた。
「気を遣ってる訳じゃないよ。ただ、ラブラブの二人と一緒に食事するのなんか嫌なだけだ。……俺は、失恋したばっかりで辛くて堪らないのに、そんな時に幸せ一杯なカップルとなんか一緒に居たくない。……それだけだよ」
「千冬…」
俺の腕から、慶の手が去って行った。
それが無性に悲しくて、また泣きたくなる。
だが、俺は涙を堪えて顔を上げた。
「ありがとう。…でも俺、本当に一人で大丈夫だから。気に掛けてくれて嬉しかった。ホントに…、ありがと……」
それだけを言うと、俺は急いで部屋を出た。
そうしなければ、泣くのを見られてしまうからだ。
優しくされるのは嬉しい。凄く嬉しい。それこそ、泣きたいほどに嬉しいのだ。
でも、その後で酷く惨めになるのが耐えられない。
自分のものではない慶に、気を遣われるのが堪らない。
同情されているのだと分かるから、その優しささえ憎くなってしまう。
(嫌だッ。なんて俺は、醜いんだろう……)
その事実を思い知らされる。
そして、また俺は自分のことが堪らなく嫌いになった。
走って行った勢いのまま談話室へ飛び込むと、小金井先輩はまだ楠田と一緒にそこに居た。
「高梁?どうした…?」
ドアの開いた音に気付いて、先輩は振り返って俺を見ると、普通ではない俺の様子に気付いたらしく、すぐに席を立って傍へ来ようとした。
目の前にある何かに、俺は縋りたかった。
だから、先輩に駆け寄るとそのまま彼の身体に抱きついた。
「高梁……」
先輩は驚いた様子だったが、すぐに俺の身体を抱きしめてくれた。
「ヒューッ」
そこに居た誰かの口から口笛の音が聞こえ、その途端に、部屋の中に居た全員が歓声を上げた。
自分の意思とは裏腹に、俺はみんなの前で先輩に告白したことになったのだと、後になって気付いた。
だが、その時は、自分の遣る瀬無い気持ちに耐えられず、慰めてくれるような暖かい先輩の腕に縋るのを止められなかったのだ。
「行こう。高梁…」
囃し立てられる声に辟易し、先輩は俺の耳元でそう言うと、背中をぽんぽんと叩いた。
「悪いけど、後で俺の部屋にカメラ持ってきてくれ」
近くに居た友達にそう言うと、先輩は俺を促して部屋を出た。
「す、すみません。場所も考えずに、俺…ッ」
やっと状況を理解して、俺は焦った。
思わずしてしまった行動だったが、間違いなく先輩に迷惑を掛けてしまったと知ったからだ。
逃げ込む場所が他に思いつかなかった。
先輩の顔を見た途端に、助けを求めようとしてしまったのだ。
「いいよ。てか、嬉しかったけど?」
「あ…」
照れくさそうにそう言われ、俺は頬に血を上らせた。
「OKと思っていいんだよな?」
先輩の言葉に、改めて俺はうろたえた。
俺と付き合いたいと言ってくれた人に、俺はみんなの目の前で抱きついたのだ。
これはもう、今更、言い訳しようが無い。OKしたのだと言われても、当たり前のことだった。
「は…、はい……」
俺は頷いた。
小金井先輩は優しい。
きっと、先輩の傍に居れば慶のことも忘れられる。
先輩と付き合えば、慶に余計な気遣いもさせなくて済むのだ。
「先輩が、……ホントに俺でいいなら」
俺が答えると、小金井先輩は嬉しそうな顔で頷いた。
「いいに決まってるだろ?付き合って欲しいって言ったのは俺の方なんだぞ」
「はい…」
「嬉しいよ。拓馬じゃなく、俺を選んでくれて。初デートも掻っ攫われたし、ホントは、もう駄目かなとか思ってたんだ」
「そんな…。あの時、真藤先輩は俺が落ち込んでたから、町へ連れ出してくれただけです」
「そうなのか?……拓馬は優しいからな…」
皮肉で言ったのかと思えば、そうでもなさそうだった。
初めて小金井先輩が真藤先輩のことを褒めるのを聞いて、俺はまた二人の関係が良く分からなくなった。
「けど、もう誘われても行かないで欲しいな…」
言いながら、先輩の手が俺の髪を撫でた。
恥ずかしくなって、俺は俯きながら頷いた。
「はい…」
小金井先輩と付き合うということは、真藤先輩としたように、何れはキスしたりするのだろうかと突然気付いた。
まるで、慶から逃げる為に先輩との付き合いを決めてしまったことを、急に後悔し始める。
だが、もう遅すぎる事だった。
(キスくらい、平気だ…)
小金井先輩のことは好きだし、キスされたってきっと嫌じゃない。
それに、先輩はきっと、キス以上のことは求めて来ないだろうと思えた。
「今から部屋に来いよ。まだ、帰らなくてもいいだろ?」
「はい…」
出来れば今は、慶と二人きりで部屋に居たくなかった。だから、先輩の誘いは嬉しかった。
小金井先輩の部屋には真藤先輩は居なかった。
また、沢山いる友達の誰かの部屋に遊びに行っているのだろう。
「座れよ。お茶飲むか?」
「あ…、はい。ありがとうございます」
俺が緊張気味に立ち竦んでいると、先輩は優しく声を掛けてベッドの上に俺を座らせた。
「明日、きっとみんなに責められるな。古賀なんか、高梁からのメールを毎日待ってたみたいだったし…」
先輩は笑いながらそう言って、ティーパックの紅茶を淹れると、カップをふたつ持って俺の隣に座った。
「古賀先輩にも、メルアドをくれた他の先輩にも、俺…、全然返事出さなくて…。失礼なことしちゃいました」
俺が答えると、先輩はカップを渡してくれながらまた笑った。
「いいんだよ、それで。返事なんかしたら変に期待させるからな。気が無い時は無視すればいい」
俺は頷くと、淹れてもらった紅茶に口を付けた。
さっき淹れたコーヒーを、慶の机の上に置いたままにして来てしまった。
俺の飲みかけのコーヒーカップが自分の机の上に置かれていたことを、慶は不快に思わなかっただろうか。
(好き……)
慶の胸に抱きしめられたことを不意に思い出す。
だが、その切なさにまた胸が苦しくなった。
(けど、忘れなきゃ…。もう、いいんだ。もう俺は、決めたんだから…)
「チョコあるけど、食べるか?昨日、後輩から貰ったんだ」
先輩に声を掛けられ、俺はハッとして顔を上げた。
そうだ……。
もう俺は、先輩と付き合うと決めたのだ。
彼を好きになると決めたのだ。
「はい。ありがとうございます」
そう答えて、俺は笑った。