涙の後で
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新入生は親との対面の後、また講堂に戻って各部の説明や紹介を受けることになっていた。
だが、俺はそのまま寮へ逃げ帰ってしまった。
もう、今日は誰とも顔を合わせたくなかった。
立ち直れないほどの衝撃に続け様に襲われ、俺は半ばパニック状態だったのかも知れない。
自分がどんなに泣いているのか、どれほど息を切らしているのかさえ分かっていなかった。
部屋に着いて、自分のベッドに崩れるように横たわると、俺は泣きながら咳き込んでしまい、暫くの間は息が出来なかった。
咳が静まっても、苦しいのと悔しいのと、そして情けなさで涙は止まらなかった。
隠し通すと決めていた筈の俺の気持ちを、正孝さんは疾うに知っていたのだ。
そして、知っていながら母と結婚した。
一体、どんな気持ちで俺の事を見ていたのだろう。
哀れなヤツと思っていたのだろうか。
もしかしたら、少しは嫌悪感があったのかも知れない。
それでも、母の為に我慢していたのかも知れない。
そう思うと、益々情けなくて涙が溢れた。
俺のことを“自分に恋しているホモの少年”だと知りながら、それでも正孝さんは俺に笑いかけてくれていたのだ。優しくしてくれていたのだ。
それが、同情からなのか、それとも仕方なくなのかは知らない。
でも、その事実が立ち直れないほど俺を惨めにしていた。
嫌われた方が、無視された方がましだった。
いっそ、はっきりと拒絶してくれた方がどんなに良かったか。
苦しくて、苦しくて、俺はいつの間にか両手で胸を掴んでいた。
そして、今度は慶の言葉が更に追い討ちをかけるようにして、俺の中に蘇った。
不毛……。
そんなことは、自分自身が一番良く分かっているのだ。
自分の感情の行き場など無いことも。
この想いを抱え続けたところで、どうにもならないことも。
全て最初から分かっていた。
でも、だからと言って、すぐに忘れることなど出来ない。
だからこそ、こんなにも苦しいのだ。
慶のことを、酷いと思った訳ではない。
責めようとも思わない。
ただ、慶に呆れられたのかと思うと、それが悲しかったのだ。
嫌われていた訳ではなかったのだと、やっと思うことが出来たのに、それも今日までのことになってしまった。
例え今まではそうでなくても、今度こそ本当に慶は俺に嫌悪感を持っただろう。
自分の母の再婚相手に恋をしているなんて、誰が考えたって気持ちが悪いに決まっている。
正孝さんから逃げてここへ来たのに、もうこの場所も俺にとっては安息の地ではなくなってしまったのだ。
胸を押さえながら、俺はヒクッ、ヒクッと喉を鳴らして泣き続けた。
そして、突然ドアが開いても、泣くのを止められなかった。
「千冬ッ……」
入って来たのは、息を切らした真藤先輩だった。
一瞬驚いて顔を上げたが、俺はまたすぐにベッドの上に顔を伏せた。こんな見っとも無い自分を誰にも見られたくなかったのだ。
すると、ベッドの脇に膝を突いて、先輩は俺の髪に手を当てた。
「どうした…?」
俺が泣きながら走っているのを、何処かで見ていて追いかけて来てくれたのだろう。先輩は心配そうな声でそう言うと、俺の顔を覗き込むようにして屈んだ。
「な…、なんでも……」
やっとそう答えると、俺は泣き止もうとして両手で瞼を擦った。
「なんでもないことあるか。こんなに泣いてるくせに…」
言葉の後に、先輩の両腕が俺の身体を包むのが分かった。
そしてそのまま、俺は先輩の温かい腕に抱きしめられていた。
「先輩……」
俺が起き上がろうとすると、先輩の腕が緩められるのが分かった。
一瞬、彼の目を見上げその同情の篭った眼差しに気づくと、俺は何も考えずに、また彼の胸に飛び込んでいた。
ギュッと、再びその腕が俺を抱きしめてくれた。
自己嫌悪と酷い孤独感で絶望的になっていた俺の心が、無意識にその温もりに縋る。
そしてまた、涙が溢れてくるのが分かった。
「千冬……」
驚くほど耳の傍で、囁くように俺を呼ぶ先輩の声がした。
そしてその時、またドアが開いた。
「高梁っ…」
それは、慶だった。
まさか、慶が俺を追って来るなんて思わなかった。
だが、驚くよりも先に顔を見られるのが嫌で、俺は先輩の陰に隠れるようにして縮こまってしまった。
「あ…、ごめんッ」
何か誤解したのかも知れない。
慶はそう言うと、すぐにドアを閉めてしまった。
でも、その時の俺にはそれを気にするような余裕など無かった。
「戸田と何かあったのか?」
真藤先輩に訊かれて、俺は首を振った。
「……違います。戸田は…、関係ないです」
俺の答えを聞いて、先輩はフッと溜め息を漏らした。多分、俺の嘘に気づいたからだろう。
「喧嘩じゃなさそうだけど…」
そう呟くように言うと、先輩はまた黙って俺の身体を抱きしめてくれた。
「先輩?行かなくていいんですか?説明会は……?」
気が付いて心配になり、俺は身体を離すと先輩を見上げた。
「ああ、俺みたいな不真面目な部員が居なくたって、写真部はユキと部長の箕川が居れば平気さ。ユキの人気で部員も集まるだろうし」
そう言って笑うと、真藤先輩は俺の頬から涙を拭い取ってくれた。
俺は急に恥ずかしくなって彼から離れると、自分の手でごしごしと顔を拭った。
なんて見っとも無いところを見せてしまったのだろう。
こんな醜態を、碌に知りもしない相手に晒してしまうなんて信じられなかった。幾ら優しくされたからって、縋り付いてしまうなんて……。
「す、済みません…。俺、もう大丈夫だし、先輩は説明会に行ってください」
「俺が行ったら、また独りで泣くつもりだろ?それで忘れられることならいいけど、そうじゃないなら、独りにならない方がいい時だってあるぞ」
確かに、幾ら泣いたからといっても、すぐに忘れられることではなかった。
泣いて忘れられるくらいなら、もうとっくに正孝さんのことを過去に出来ていた筈だった。
母と付き合っていることを知らされた時、そして、二人が結婚すると知った時、それこそ俺は眼が腫れ上がるほど泣いたのだから。
だが、今日のことは、それらと比べても俺を打ちのめすには十分過ぎた。いや、惨めさと言う点では今日の出来事が一番だったろう。
もう、何もかもぶちまけてしまいたい。もう十分に恥ずかしい姿を晒しているのだ。今更、格好をつけた所で始まらないだろう。
だったら、何もかもぶちまけて、少しでも心を軽くしたい。この時、俺はそう思った。
「俺…、この学校に逃げてきたんです」
「え……?」
俺の言葉に、先輩は目を見開いた。
だが、すぐに表情を戻すと、ゆっくりと俺の手を取って握ってくれた。
話した方がいいと、無言でそう言われているような気がして、俺はなんだかとても励まされたような気になった。
「ずっと……、3年間ずっと片思いしてた塾の先生が、俺の母と結婚したんです」
「え……?」
驚愕の表情がまた先輩の顔に表れた。それを見て、俺はフッと笑うと少しだけ首を振って先を続けた。
「初恋でした。……それまでは、自分が異常だなんて思わなかったし、男の人に惹かれたことも無かったけど…。でも、正孝先生を好きになって、自分が普通じゃないんだって初めて分かった……」
「千冬……」
先輩の手が力強く俺の手を掴んだ。
その暖かさに励まされ、俺は話を続けた。
「自分で自分が気持ち悪くて、受け入れられなくて悩んで、そして……、こんな気持ちを知られて先生に軽蔑されるのが怖くて……、必死で隠し通してきたつもりだった。……母と付き合ってるって知った時も、死にたいほど辛かったけど、自分の本心を悟られないように必死に平静を装ったつもりだった。なのに……、なのにッ」
またさっきの感情が込み上げ、俺は言葉に詰まった。
先輩の片手が肩に乗り、そのままゆっくりと背中を撫でる。嗚咽を噛み殺し、俺はやっと言葉を繰り出した。
「全部知ってたなんて……。知ってて黙ってたなんて……。言って欲しくなかった。……知りたくなかったッ」
先輩の手が俺の項に掛かり、そのまま自分の方へ引き寄せた。俺は、逆らわずに先輩に身を預けた。
「辛かったな……?」
先輩はぼそりとした口調でひと言だけそう言った。
その後は何も訊かず、そして何も言わずに、ただ黙って俺が泣き止むのを待っていてくれた。
そして、その優しさに縋り、俺は気が済むまで泣き続けた。
真藤先輩が帰り、俺はぼうっとした頭でふと慶のことを思い出した。
彼はあの後、講堂へ戻ったのだろうか。
真藤先輩にしがみ付いていた俺を見て、なんと思ったのだろう。
多分、いやきっと、益々俺のことを軽蔑したのではないだろうか。
そう思ったが、もう俺には彼が自分をどんな風に見ているかなんて、どうでもよくなってしまった。
どうせ最初から好かれてなどいない。
ただ、偶然に同室になっただけの、それだけの存在として彼は俺を認識していたのだ。
だったら、今更、軽蔑されようが嫌われようが関係ない。
時計を見ると、昼近くなっていた。
もう、部の説明会も終わった頃だろう。
今はシンとしているこの寮も、午後になれば1年生が帰って来て、また賑やかになるに違いなかった。
今日は体調を崩して休んでいる生徒以外は、全員、昼食を学食の方でとる筈だった。
だから、昼過ぎまでは静けさは保たれる。
寮の食堂には此方で昼食をとると申請した生徒の分しか用意されていない筈だし、この時間では購買も開いていない。だから、学校の学食へ行かない限り、俺は昼食を食べられなかった。
だが、どうせ食欲などなかったし、今は、誰の顔も見たくない。
同じ新入生たちの、期待に胸膨らんだ顔や、楽しげに笑い合う顔を思い、俺は情けなくなった。
同じ学び舎に居て、何故これほど違うのだろう。
俺だけが、何故、絶望を抱えていなければならないのだろうか。
上着を脱いでネクタイを外すと、俺は倒れるようにベッドに横になった。
沢山泣いた所為で、目の縁が少しひりひりする。それを指先で押さえながら、携帯を出してメールを打ち始めた。
正孝さん、今日は来てくれて有難うございました。
それなのに、逃げるようなことをしてしまってごめんなさい。
でも俺は、暫くの間、母さんにも正孝さんにも会えません。休みになっても家には帰らないつもりです。
でも、心配しないで下さい。
正孝さんと母さんが結婚したことを悪く思ってる訳じゃありません。
ただ、少しだけ俺に時間を下さい。
ではまた、今度は家に電話します。母さんによろしく。
送信を押して、俺はそのまま携帯を枕の脇に放り投げた。
暫くすると、返信がきたのを知らせる着信音がしたが、手を伸ばさなかった。
その代わりに、目を閉じて寝返りを打つと携帯電話に背を向けた。
いつになったら、家に帰る気持ちになれるだろうか。
正孝さんの顔を、何の後ろめたさも、切なさもなく、正面から見られる日が来るのだろうか。
もしかしたら、この学校を卒業するまで帰れないかも知れない。
だが、きっと時が解決してくれる。
どんな傷だって、きっといつかは忘れられる。
今はこの切なさが永遠に続くように思えても、きっと少しずつ薄れていくに違いないのだ。
山の上にある所為か、こうして一人きりの部屋に居るとまだ少し肌寒い。でも、起き上がって暖房のスイッチを入れる気にもなれなかった。
傍にあった上着を引き寄せ、肩からすっぽりと自分の身体を覆った。
そうして縮こまって温もりを求めると、さっき、真藤先輩の腕がとても温かかったことを思い出した。
真藤先輩は優しい。
彼と付き合ったら、きっと楽しいに違いなかった。
軽い恋愛をしてくれると言っていたが、本当だろうか。
そう考えて、俺は首を振った。
自分がまた、逃げようとしていることに気づいたからだ。
こんな理由で誰かと付き合うなんて、決してしてはいけない事だ。
例え、先輩が許してくれても、きっと俺は自分を許せないに違いない。だから、正孝さんを忘れる為に、誰かを頼ったりしてはいけないのだ。
どんなにゆっくりでも、時が忘れさせてくれるのを待つしかない。
辛くても、それが唯一の方法なのだ。
軽い頭痛を覚え、俺は両方のこめかみを指で揉んだ。
ドアが開く気配がして驚いて振り返ると、そこには慶が立っていた。
「戸田……」
半分だけ起き上がり、俺は身体を捻って彼の方を向いた。
「さっきは、本当にごめん…」
ぼそり、とそう言うと慶は俺に近付いて来てベッドの上にサンドイッチの袋とコーヒー飲料を置いた。
それを見て俺が驚いて見上げると、慶はそれを指差して言った。
「食えよ。昼、まだ食ってないんだろ?」
「あ、ありがと……」
寮の食堂が使えないことを思い出して、わざわざ学校の購買で買ってきてくれたのだろう。慶の思いがけない行動に驚きもしたが、俺は彼が気を使ってくれたことが素直に嬉しかった。
俺のことを不快に思っているのかも知れなかったが、それでも拒絶しようとは思っていないのだと分かったからだ。
「座っていいか?」
「あ…、うん」
俺が起き上がると、慶はベッドの端に腰を下ろした。
「本当に悪かった。でもあれは、高梁のことを責めた訳でも、勿論、馬鹿にして言った訳でもないんだ」
コーヒー飲料に手を伸ばして、俺はセロファンの袋からストローを取り出して、穴に差し込んだ。
「いいよ…。だって、本当の事だし…。母の再婚相手に恋してるなんて、誰が考えたって不毛だよ。それに……、異常なことだ」
「いや…。相手を選んで好きになる訳じゃないし、俺は異常だなんて思わない。けど…、あの時は、ある人を思い出して、つい あんなことを言っちまった…」
「ある人……?」
聞き返すと、慶はちょっと苦笑した。だが、その先は何も言わなかった。
その代わり、俺の方に手を伸ばすと、赤くなった目の縁にそっと指を置いた。
「辛かったんだろうな……」
その言葉は俺に言っているように見えて、本当は慶の頭の中に居る他の誰かに言っているのかも知れないと、なんとなくだが、俺はそう感じていた。