涙の後で
-6-
在校生は始業式があるので、学校へ行く準備で忙しそうだった。あまり早い時間だと、登校する生徒で食堂は込み合っているだろう。
まだ入寮を済ませていない新入生もいて、その連中は今日の午後に入寮する筈だった。そうなると、午後はまた、随分賑やかになるだろう。
昨日、日が暮れてから部屋に帰ると、慶は本を読んでいた。
それは、まだ借りられない筈の図書館の本だった。
訊かなかったが、多分、友井先輩に借りて貰ったのだろう。ほんの数時間で、二人はもうそこまで親しくなったのだ。
(王子様…か…)
本を読む慶の横顔を眺めて、俺は心の中で呟いた。
桜並木の中を歩いて来る二人は、確かに絵に描いたように綺麗だった。
「写真部、入るのか?」
本に目を落としたまま、俺の方も見ずに慶が言った。
「あ、あ…、うん。入部する事にしたんだ。面白そうだし…」
急に話し掛けられてどぎまぎした俺だったが、慶は俺の返事にただ頷いただけで、会話は終わってしまった。
興味が有る訳ではないのだろう。訊いたのはただ、同室の相手への社交辞令に過ぎないのだ。
俺とは、必要以上の口を利かないが、きっと友井先輩とは色々な話をしたのだろう。自分の事も、少しは話したのだろうか。
夕食にも一緒に食堂へ行ったが、慶との間に会話らしい会話は殆どなかった。
帰り際に小金井先輩達に会ったが、他にもたくさんの生徒がいたし、挨拶をしただけで部屋へ帰って来てしまった。
重苦しい気分を払拭出来ないまま朝を迎え、俺はまた、時間になっても起きない慶を揺り起こした。
「ああ、悪い。また、アラーム止めて寝ちまった…」
目を擦りながら起き上がった慶に俺は言った。
「家でも、誰かに起こしてもらってたのか?」
「ああ、妹が…」
「ふうん。妹がいるんだ。いいなぁ…」
俺の言葉に、慶は顔を上げた。
「高梁は?兄弟、いないのか?」
「うん、俺は独り。俺が2歳で父さんが死んだから」
「そうなのか。じゃあ、一昨日の電話は?」
「あ、うん。あれは正孝さん…、母の再婚相手。新婚だから、邪魔したくないと思って。ここ、寮があるから」
珍しく会話が続いた所為か、訊かれもしないのに俺は余計な事まで喋ってしまった。そして、すぐに後悔した。
「ふうん…。けど、そういう気の遣い方って、却って迷惑なんじゃ?」
慶の言葉に、俺は黙った。
そんな事は分かっているのだ。だが、正孝さんと母の傍に居る事は出来なかった。
「…ごめん。余計なこと言った」
下を向いたまま黙り込んだ俺を見て、慶は済まなそうにそう言った。
「いや…。先に飯、行ってる」
そう言って俺が出て行こうとすると、その背中を追うようにして慶が言った。
「起こしてくれてありがとう」
俺は振り向かずに、ただ頷いてドアを開けた。
こういう所が嫌われるのかも知れないと思った。多分、今の俺は物凄く陰気な奴に見えるだろう。
さっきの慶の言葉だって、黙っていないで反論するとか、余計なお世話だと笑い飛ばしてしまえば良かったのかも知れない。
だが、自分でも分かっているだけに、言葉を返す事が出来なかった。
本当は、こうして寮なんかに逃げ込んでしまう事が、正孝さんに余計な心配をさせるのだと分かっているのだ。
一昨日の電話でも、俺に嫌われているのかと気にしていた。勿論俺だって、平気な顔して二人の傍で笑っていられるのなら、こんな風に逃げて来たりはしなかった。
下を向いたまま食堂まで行き、パンを頼むと、トレイを持って空いていた窓際へ腰を下ろした。
「おい、千冬、こっち来いよ」
呼ばれて初めて、俺は真藤先輩が後ろの席に居た事に気付いた。
「あっ…、お早うございます」
驚いて俺が思わず立ち上がって挨拶すると、真藤先輩は笑いながら手招きをした。
入学前なのに先輩に親しげに話し掛けられているのが珍しいのか、近くに居た新入生 たちがチラチラと此方を見ていた。
俺は、トレイを持って真藤先輩の隣へ行くと腰を下ろした。
「独りですか?」
訊いてはみたが、在校生は、もう殆ど食事を終えて食堂に居なかったので、先輩は随分のんびりしているなと俺は思った。
「ああ。ユキはもう食って行っちゃったよ。あいつは生徒会の役員もしてるから、始業式に仕事があんだろ」
「ああ、そうなんですか…」
「なんか、元気ないな?何かあったか?」
「い、いいえ、別に…。元気ですよ」
俺は答えると、箸を持って朝食を食べ始めた。
「じゃあ、小金井先輩は明日の入学式も忙しいですね」
まだ俺の顔を見ている先輩に、話題を変えたくて俺は言った。
「ああ。そうだろうな。明日は?千冬の親も来るんだろ?」
「あ、はい。二人で来てくれるって電話がありました。……いいって言ったんですけどね」
「そうは言っても、入学式だからなぁ。大抵の親は来るよ。俺んちもオヤジが来たし」
そう言った顔は少々迷惑気だった。
「まあ、親が来ない方が珍しいだろ。普通の高校と違って、此処に入ったら長期休みになるまで帰って来ないことも多いからな。何しろ、町へ降りるだけだって大変なんだから」
「そうですよね。バスも滅多に来ないみたいだし、バスに乗ってからも遠いもんなぁ」
俺が笑いながら言うと、先輩も笑って頷いた。
「けど、さすがに土日はみんな町へ降りるよ。寮に燻ってたって仕方ねえもんな。……あ、そうだ千冬、週末暇だったら俺を誘ってくれよ。ちっちゃい町だけど、案内するぜ」
「え、ホントですか?ありがとうございます」
俺が喜んでそう言うと、先輩はニヤリと笑った。
「約束だぞ?後からユキが言ってきても、俺が先だからな?」
「あ……。そんな、小金井先輩が誘ってくれるとは限らないですよ」
「いいや。見てな?週末が近付いたらきっと言ってくるから」
真藤先輩の言葉に、俺は曖昧に笑って見せた。
時間が来て、真藤先輩が学校へ行く為に出て行ったのとすれ違いに、食堂へ慶が姿を見せた。
俺はまだ食べ終わってなかったが、慶と一緒になるのが気まずくて席を立とうかと思った。だが、すぐ近くで食事していた新入生に声を掛けられて、その機会を逸してしまった。
「君、高梁くん…だっけ?」
小柄で華奢な、中性的な感じの生徒だったが、声もまるで変声期前のような高い声だった。
「あ、うん。そうだけど…」
初対面だったが、同学年なので敬語は使わなかった。
「昨日の朝も、3年生の先輩と朝食食べてたよね?今も、あの人って3年の真藤先輩だろ?」
今日は兎も角、昨日も見ていたのかと少し驚いたが、それよりも驚いたのは、彼が真藤先輩の名前を知っていたことだった。
「そうだけど…。それが、何か?君、真藤先輩を知ってるの?」
俺が聞くと、彼はちょっと肩を竦めるようにした。
「そりゃ、真藤先輩はカッコいいもん。チェック済みだよ」
「え…?」
意味が分からず俺が眉を顰めると、彼は苦笑しながらトレイを持って俺の隣へ移って来た。
「あ、俺、楠田光一、宜しく…」
「ああ…、宜しく」
軽く頭を下げられて、俺も釣られてぺこりとお辞儀した。すると、楠田はマジマジと俺の顔を見て言った。
「それにしても、やるよねえ…、高梁くん。昨日は、生徒会副会長の小金井先輩、今朝は真藤先輩。おまけに、あの戸田慶と同室なんだろ?凄いよなぁ」
その、“凄い”の意味が分からず、俺は余程怪訝そうな顔をしていたらしい。すると、楠田は両方の眉をグッと上げた。
「あれ?もしかして、君って天然ちゃん?」
「はぁ?」
また意味が分からない。俺は奇妙な生き物を見るような目で楠田を見つめた。
すると、俺たちの前に慶が立った。
「いいか?」
訊かれて俺はすぐに頷いた。
「あ、うん。勿論……」
俺の事を好きじゃなくても、やはり同室だから慶なりに気を使うのだろう。他の席が空いていても、俺の所へ来てくれるのだ。
俺の返事を聞くと、慶はトレイを置いて前に座った。
すると、隣で黙って慶を見つめていた楠田が目を輝かせて身を乗り出した。
「あ、あの…、戸田慶くんだよね?俺、楠田光一っていいます。宜しく」
さっき、俺に話し掛けてきた時とは明らかに態度が違う。それに、俺にはしなかったくせに楠田は慶に右手を差し出した。
「あ?ああ…、宜しく…」
慶は面倒臭そうに箸を置いて右手を出すと、楠田の手を一瞬握った。
「俺、前から戸田くんと話してみたいって思ってたんだぁ。嬉しいな…」
なんだろう、これは…。本当に楠田は、まるで、さっきとは別人のようだ。
俺は楠田の態度に畏怖を感じた。
「あ、俺…、もう部屋に行くわ」
気味が悪くなって立ち上がろうとすると、驚いた事に慶が俺の手をサッと掴んだ。
「すぐ食い終わるから待っててくれよ。起こしてくれた礼にプリン奢るし」
「えっ…?」
まさか引き止められるとは思いもせず、俺は吃驚して慶を見た。しかも、プリンを奢るって…。
(意外に、義理堅いのかな?)
プリンと慶という余りに不釣合いな二つに、俺は思わず口元を弛めてしまった。
「プリン?なんでプリン?」
「ここのプリン、手作りで旨いって昨日聞いたんだ。嫌いか?甘いもん」
誰に聞いたのかは訊かなかった。それは多分、友井先輩だろうと思ったからだ。
「そうなんだ。…じゃあ、昼に奢ってよ。甘いのは好きだけど朝からはちょっとね」
俺の言葉に慶が頷くと、口を挟みたくてうずうずしていたらしい楠田が脇から言った。
「戸田くん、プリン好きなの?俺もさー、甘い物結構好き。そっか、此処のプリン旨いのかぁ。俺も後で食ってみよう」
「いや。俺は甘いもんは苦手だけど」
素っ気無くそう言うと、慶は楠田の方を見ようともせずに黙々と食事を続けた。
嫌われているとばかり思っていたし、俺を引き止めるなんて思いもしなかった。だが、それは、もしかすると慶は楠田と二人にされるのが嫌なだけなのかも知れないと感じた。
「あのさ、戸田くんは中学は何処?俺は隣の市から来たんだ」
慶の素っ気無い態度にもめげず、楠田がまた話し掛けてきた。
余程、慶と親しくなりたいらしい。俺は内心で苦笑しながらそう思った。
「俺は他県だから、言っても知らないだろ」
俺も、此処から離れた市から来た。
寮があるし、此処の学校に来る連中は大抵家が離れているが、それにしても他県というのも珍しいだろう。
初めて知った俺は慶の顔を見た。
相変わらず、目も上げず、箸を動かす事に余念がない。早く食べて此処から去りたい一心なのかも知れない。
だが、そんな慶の様子を見ても楠田の方はお構い無しだった。
「そうなんだ?なんで、この学校に入ったの?やっぱり、大学があるから?」
また身を乗り出し気味に話し掛けてきた楠田を気にする様子もなく、慶は箸を止めずに首を振った。
「いや。俺は此処の大学には入る気ない」
「ええ?じゃあ、受験する気?なら、なんでこんなトコ来た訳?大学目当てじゃなかったら意味なくない?」
楠田の言葉に、慶は初めて顔を上げ正面から彼を見据えた。
「それ、おまえに説明する必要あるか?」
その迫力に、俺は思わずコクッと喉を鳴らした。
余程訊かれたくない事を訊かれたのか、慶の口調は何時にも増して無愛想だった。
「あ、ご、ごめん…」
さすがの楠田も怯んだらしく、慌てて謝った。
すると、慶はまた箸を持って目線を落とした。
「いや…」
そう言うと、慶は食事の残りを平らげ、俺を促して席を立った。
「あ、あのさ、良かったら二人で部屋に来ない?ゲームもあるし…」
楠田も慌てて立ち上がってそう言ったが慶はすぐに首を振った。
「いや、悪いけど、俺たち用があるから。それじゃ、な」
素っ気無くそう言うなり、慶は片手に食べ終わったトレイを載せ、もう一方の手で俺の腕を掴んだ。
俺は黙って慶に腕を引かれるまま付いて行くと、返却口にトレイを戻してそのまま食堂を出た。
外に出たら離すと思ったのに、何故か慶は俺の腕を離さなかった。
「あの…、戸田?」
俺が呼びかけると、慶はやっと気付いたらしく手を離した。
「あ…。悪い……」
「いや、別にいいけど。…アイツ、嫌だったのか?」
訊くと、苦笑しながら頷いた。
「ああいうの、苦手で…。あんなタイプの女子が中学の時も結構居たけど、面倒臭くてな。けどまさか、男子校に来てまであの手のヤツが居るとは思わなかったよ」
その言葉から、俺は慶が中学の時もかなりモテたらしいと気付いた。
いや、この容姿からすればそれは当たり前かも知れない。だが、どうやら慶はその手の事には興味が薄いらしい。
やはり彼は、何処と無く孤高の存在のように俺には感じられた。
その慶が、友井先輩とは親しくなったのだ。
少なくとも、図書館の本を借りてもらい、食堂のプリンが美味しいと教えてもらう程には…。
同室で寝起きを共にし、何度も一緒に食事をしても俺は慶の事を殆ど知らない。
部活に入るつもりが無い事と、妹がいること、それから他県から来た事。知っているのは、その三つだけだった。
(もっとも、あっちだって俺の事を知らないもんな……)
知り合うほどの会話など、俺たちの間にはまだ無かった。