涙の後で


-5-

借りたカメラを持って寮に戻ろうとすると、丁度、B寮を出た所で戻って来た真藤先輩に会った。
「千冬…」
さっき会ったばかりなのに、気安く下の名前を呼ばれて俺は少し驚いた。だが、人懐っこい笑みに釣られて俺も思わず笑ってしまった。
「あ、ユキめ…」
俺の手にデジカメがあるのを見て、真藤先輩は苦笑した。
「俺が貸すって言ったのが気に食わなかったんだな。よっぽど千冬のこと、気に入ったらしいな…」
クスクス笑いながらそう言うと、ポンと俺の肩に手を置いた。
俺が答えに困っていると、真藤先輩はそのまま俺を促してA寮の方へ歩き始めた。
「んで?もう告られたか?」
「えっ?……あ、あのっ…」
真っ赤になった俺を見て先輩は笑った。
「なるほど。ユキのヤツ、やっぱり先手を打ったか……」
「せ、先手って?」
まさか、真藤先輩も俺を気に入ったと言うんだろうか。俺は、驚いて先輩の顔を見上げた。
「まさか、もう付き合うって言っちゃったのか?」
「い、いえ…、ま、まだですけど…」
「じゃあ、俺にもチャンスあるじゃん。な?」
「先輩……。ほ、本気ですか?」
「ああ。声を掛けたのはユキの方が先かも知れないけどな、俺だって千冬のことはチェックしてたんだぜ」
サラッと言われて俺はどぎまぎして先輩を見た。
「お、俺……、こういうの良く分からないし…。兎に角、なにがなんだか……」
俺の答えに先輩は笑った。
「そりゃそうだよな。まあ、それが当たり前だよ。此処は特殊な世界だ。普通なら、体験しないだろうしな、こんなこと」
そう言った後で、先輩は俺の背中をポンポンと叩いた。
「俺の勘だけど、千冬にはもう好きな人が居るんじゃないか?」
「えっ…」
言い当てられて俺は驚いた。
見ると、今までずっとふざけた感じに見えた先輩が、初めて真面目な顔をしていた。
「なんとなくだけど、そう思ったんだ。違うか?」
「……は、はい。居ます……」
俺が答えると先輩は頷いた。
「それは、片想いなんだな?」
何故か、隠しておいても仕方無いと思えて、俺は正直に頷いた。
「だったら…、悪い事は言わない。ユキは止めておけよ」
「え……?」
俺はまた驚いて顔を上げた。
小金井先輩は真藤先輩を、そして、真藤先輩は小金井先輩を、お互いに止めろと言う。なんだかそこには、深い訳がありそうな気がして俺は戸惑った。
「ユキには軽い恋愛なんか出来ない。雁字搦めにされるのが落ちだぜ」
悪口を言っているように見えるが、そうではないのだと俺には思えた。真藤先輩の口調は、何処か小金井先輩を哀れんでいるように感じられたのだ。
「だったら…、真藤先輩は軽い恋愛をしてくれるんですか?例え、俺に他に好きな人が居ても……?」
俺が訊くと、先輩は肩を竦めた。
「俺は、諦めるのが得意だからさ」
その言葉の意味は俺には分からなかった。
そのまま取っていいのか、それとも別の意味があるのか分からなかったのだ。
ただ、小金井先輩が言ったように、俺には真藤先輩が危険な男だとは思えなかった。
「適当に誰かと付き合った方がいいって小金井先輩が言ってましたけど、それって本当なんですか?」
俺が訊くと、真藤先輩は頷いた。
「ああ。マジで彼氏がいた方が安全だぜ。中には強引にモノにしようなんて考える危険なヤツもいるからな。まあ、そういうのは稀だけど…」
「それって…、あの、やっぱり強姦とか、そういう?」
さっき小金井先輩には訊けなかったが、今度は思いきって訊いてみた。
すると、先輩は苦笑しながら頷いた。
「まあ、それほど過激じゃねえだろうけど……。学校側にバレない程度にはヤバいこともあるって訳だ。だから、マジで割りきれる相手を見つけて付き合った方がいい。千冬は非力そうだし、守って貰える相手がいた方がいいぜ」
「そ…、そうですか…」
俺はちょっと怖くなって、首を竦めるようにした。
すると、真藤先輩の手が俺の肩に乗った。
「まあ、付き合う付き合わないは別として、俺は出来る限り千冬の身辺は見ててやるよ。おまえの事、マジで気に入ったし」
「あ、ありがとうございます…」
ニッと笑ってそう言われ、俺は思わず頭を下げた。
やはり、小金井先輩が言うようには、真藤先輩を悪い人間とは思えない。その人懐っこい笑みを見て、俺はそう思った。



部屋に帰ると、まだ慶は戻っていなかった。
借りてきたカメラを持ってもう一度外に出ようかとも思ったが、なんだかそんな気分にもなれず、俺は独りの部屋でぽつんとベッドに腰を下ろして、無人の慶のスペースを眺めた。
もしかして、本当に慶は図書館で友井先輩と出会ったのではないだろうか。
さすがの慶も、友井先輩を見たらきっと驚くだろう。
友井先輩の方はどうだろうか。
小金井先輩が噂を聞いたように、慶は本当に彼のハートを射止めるのだろうか。
なんだか、嫌な気分だった。
慶はそんな事とは無縁でいて欲しいと俺は思っていた。こんな馬鹿げた恋愛ごっこは慶には似合わないと思ったのだ。
俺は携帯を出して、また正孝さんの写真を見た。

もう、決して適わない恋。

だが、まだ諦める事も出来ずにいる。
こんな自分が、先輩達の言うように、例え擬似恋愛でも誰かと付き合ったり出来るのだろうか。
それとも、そうした方が早く正孝さんを忘れられるのかも知れない。
(だったら……)
どちらでもいい。
正孝さんを忘れさせてくれるのなら、先輩達のどちらでもいいから付き合ってしまおうかと俺は思った。
「でも…、そんなの先輩達に失礼だ」
そう呟いて、俺は携帯を閉じた。
真藤先輩は割り切って付き合ってくれると言った。だが、本当にそれに甘えていい筈がない。
幾ら、この学校に居る間の擬似恋愛だとしても、誰かを忘れる為に他の誰かを利用するような真似をしていい訳がなかった。
俺は携帯をポケットに仕舞うと、借りたカメラを持って部屋を出た。
寮から校舎へ行くまでの間に桜並木がある。まだ、満開ではなかったが試しに撮ってみようかと思ったのだ。
コンパクトタイプのデジカメは家にあったので何度か撮った事がある。機種は違うが、使い方はそう変わらないだろう。
そう思って、俺はまた外に出た。
桜だけでなく、目に付いた景色にレンズを向けながら、俺は学校に向かって歩き始めた。
道端のタンポポひとつでも、こうしてカメラを向けると何だか新鮮に見えた。
こうしていると、さっきの重たい気分を少しは忘れる事が出来た。
写真部に入ったのは正解だったかも知れない。花や風景を眺めているのは、確かに気持ちを穏やかにさせた。
そんな事を思いながら足を進めると、桜並木に着いた。
カメラを構えて液晶画面に桜の花を捉えると、俺は何度かシャッターを切った。
まだ、ありふれた構図でしか撮れなかったが、それでも、少しでも綺麗に撮ろうとして俺は夢中になった。
そして、学校の方へカメラを向けた時、やっとその人影に気付いた。
ハッとして、俺はカメラを下ろした。
向こうから歩いて来たのは、間違いなく慶だった。そして、その隣には友井先輩の姿があったのだ。
何を話しているのか勿論俺には聞こえなかった。
だが、俺がショックだったのは、慶が笑っていた事だった。
たった2日だが、一緒に寝起きを共にしたのに、俺はこの時まで1度も慶の笑顔を見た事がなかった。
何だか急に泣きたい気持ちになって、俺は踵を返すと寮に向かって走り出した。
(やっぱり、嫌われてんだ…、俺……)
今まで意識して他人に好かれたいと思ったことはなかった。でも、特別に嫌われていると感じた事もなかったのだ。
なのに、これから1年間、ずっと一緒に部屋を共有する人間に嫌われているなんて悲しかった。
多分、以前はこんなに他人に対して敏感ではなかった筈だった。
だが、正孝さんの事で傷ついていた所為か、俺の心は少しの事で簡単に落ち込むようになっていたのだ。
やっぱり慶は、友井先輩に心を奪われたのだろうか。だから、あんなに楽しそうに笑っていたのだろうか。
それとも、俺以外の他の人間には惜しげもなく笑って見せるのだろうか。
その、どちらだとしても嫌だった。
部屋に帰りたくなくて、俺は寮の裏手から山へ続く道へ足を向けた。
運動部などがランニングコースに使っているらしく、道は開けていた。
俺は、ただ黙々と歩き続け、学校を見下ろせる崖の上まで登った。
こうして上から見ると、学校の敷地はかなり広かった。
校舎と運動場。その他にも陸上部用のトラックやテニスコートが2面。それと、サッカーと野球部用のグラウンド。その向こうには50メートルの室内プールがあった。
そして、今朝行ったレンガ造りの図書館と講堂。
俺は目を移して、今度は寮の敷地の方を眺めた。
A寮とB寮の間には中庭があって、食堂の前にはカフェテリア風の場所もある。至れり尽くせりの環境だった。
学校の敷地としては格段に広いに違いない。だが、それでもやはり、ここは小さな閉鎖的な世界だった。
草の上に腰を下ろし、俺は膝の上に顎を乗せて寮を眺めた。
もう、中へ入ってしまったのか、慶と友井先輩らしき人影は見えなかった。
そうなりたくて、この学校へ来る事を選んだ筈だったが、今の俺にはこの孤独感が酷く辛かった。
正孝さんから離れて、新しい友達と新しい生活をして、そして健全な自分を取り戻したいと思っていた。だが、此処でそれが叶うとは思えなくなってしまった。
慶に嫌われているらしいというだけで、何だか俺は酷く絶望的な気分になってしまっていたのだ。
明後日は、入学式だ。
母と一緒に正孝さんも来る。
二人並んだ姿を見るのは嫌だった。
「逃げるわけにもいかないよな…」
夕方になって、風が肌寒かった。
ギュッと膝を抱えると、俺は小さく丸くなって目を閉じた。