涙の後で


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野菜とひき肉を炒めた物が入った鍋を慶に運んでもらい、続きは母屋で作ることにした。
慶にサラダを用意してもらい、カレーの他にジャガイモのミルク煮とスープも用意することにした。
「そんなに沢山、悪いよ。カレーだけで十分なのに。千冬のカレー旨いもんな」
「大丈夫ですよ。助手もいますし」
「ふうん?その助手よりは俺の方が役に立ちそうだけどな。まあ、今回は花を持たすか」
先輩に言われて慶は苦笑したが、サラダとドレッシングは全部ひとりで作ってくれた。
左手の握力が弱いので、実は根菜の皮を剥くのは俺には結構大変だった。
店で使う玉ねぎなどは、仕入れ先に頼んで、下処理してあるものを仕入れることもあったが、慶が来てからは手伝ってくれるようになったので随分助かっていた。
今日も、ミルク煮に使うジャガイモの皮は慶が剥いてくれた。
それを見ていて、先輩は感心したようだった。
「へえ。コンビニ飯ばっかり食ってた戸田も、変われば変わるもんだ」
「まあ、少しは」
慶が答えると、先輩は俺を見て言った。
「もう、何も心配ないな?千冬」
「はい…」
俺が返事をすると、先輩は何時もの優しい笑顔で俺を見つめた。

先輩に大学の話や、弟さんの話などを聞きながら、そして、俺たちの近況を話しながら、俺たちは昼食をとった。
「そう言えば、楠田に彼女が出来たらしいぞ」
「か、彼女ッ?」
驚いて俺が訊き返すと、同じく驚いた慶が言った。
「彼氏じゃなくて?」
先輩は笑うと、頷いて言った。
「ああ。同じゼミの院生で美人らしい。しっかり手綱握られてるって話だけどな」
「へえ…。でもまあ、楠田の彼女が年上って、なんか頷けるかも」
甘え上手で我が儘な楠田には、しっかりした年上の彼女がいいのかも知れない。
「あいつも、あいつなりにおまえらのこと心配してるぞ。落ち着いたら連絡してやれよ」
「はい、そのつもりです」
話は尽きなかったが、先輩が帰る時間になり、慶に片づけを任せて俺はバス停まで送って行った。
さっきの話は聞かなかったことにして、自分の胸に収めておこうと思った。
それが、先輩の望みでもあるような気がしたからだ。
本心が分かったからと言って、俺に出来ることは何もない。
もう俺は、慶と離れることなど出来ないのだから。
先輩には俺なんかよりずっと素敵な人が現れる筈だ。それを祈って、見送ろうと思った。
「本当に良かったな、千冬。言うだけ言って帰っちまって、拗れたんじゃないかって少し心配だった。まあ、おまえたちの気持ちはお互いに向いてるって分かってはいたけどな」
「はい。ほんとに心配ばかりかけて済みません」
「いや…。もう千冬が泣いてないなら、俺はいいんだよ」
何時でも俺の味方だと、先輩は何度も言ってくれた。だからこそ、何時でも俺は立ち直ることが出来たのだ。
「……見送りに行っちゃ駄目ですか?」
駄目なのは分かっていたが、俺は訊いてみたかった。
「だーめ。絶対泣くから」
笑ってそう言った先輩の腕に、俺は自分の腕を絡めた。
変に構えない方がいいと思った。いつもの自分ならこうする筈だ。素直に先輩に甘える筈だ。
「ん?」
見下ろした先輩の眼を見上げて俺は言った。
「いいでしょ?寂しいんだから、少し位くっつきたい…」
「たった2年くらいだぞ?」
「それでも寂しいんです」
「……うん、そうだな。俺も寂しいよ」
もう、泣いてもいいだろうか。
我慢しなくてもいいだろうか。
俺は先輩の腕に頬を押し付けた。
「絶対、帰って来るって言って?絶対、絶対、帰って来るって…」
すると、先輩の手が俺の頭に乗って、くしゃくしゃと髪を撫でた。
「帰って来るよ。当たり前だろ?」
その言葉が、嘘かなのか本当なのか俺には分からなかった。
だが俺は、これが最後だとはどうしても思いたくなかった。
何も返せない俺が唯一出来ることは、もう、先輩に心配を掛けない事だと思った。
俺が幸せになることだと思った。
涙を拭いて顔を上げると、俺は先輩を見て笑顔を作った。
「見送りは駄目でも、迎えには行ってもいいでしょ?帰国が決まったら、絶対教えてくださいね」
「ははっ…。そうだなぁ、出迎えのキスしてくれるんなら、来てもいいぞ」
「いいですよ。お父さんと弟さんが卒倒するぐらい熱いのしますから」
「うわ…。楽しみだな、そりゃ」
そう言って笑った先輩に、俺も精いっぱいの笑顔を見せた。
「だから、絶対…。約束……」
「ああ。約束な…」
バスが来て、先輩は俺に手を振って乗り込んだ。
そのバスが見えなくなるまで、俺は先輩に手を振り続けた。



帰ると、片づけを終えて、慶は書斎として使い始めた6畳間に居た。
「ただいま」
声を掛けると、パソコンを広げた座り机の前から慶は振り向いた。その後ろに座り、俺は彼の身体に腕を回した。
俺が背中に頬を付けると、慶はまた前を向いた。
そして両手が俺の腕を包んだ。
「また会えるよ、絶対。大丈夫だ」
「うん…」
「真藤さんの分まで俺が守るって約束したから」
「うん…」
「こっち、来いよ」
腕を引っ張られて俺が動くと、慶は俺を膝の上に乗せた。
「寂しいか?」
「うん…」
答えた俺の項に手を伸ばすと、慶は自分の方へ引き寄せた。
唇を合わせ、俺は慶の首に腕を回した。
他の男との別れをこんなに寂しがっている俺を、慶は怒らなかった。
それは、真藤先輩の気持ちを確かめたからだろうか。それとも、俺にとって真藤先輩が特別な人だと知っているからだろうか。
その夜、慶が来るようになってからは抱き枕の役目を終え、店の1番奥に座ってマスコットの役割をしていたクマを、俺は久し振りに母屋に連れて来た。
「今日はクマと寝たい」
そう言った俺の我が儘を、慶は許してくれた。
ベッドの下に布団を敷き、慶が横になると、俺はクマを抱いてベッドに入った。
そうして、真藤先輩が俺にくれた言葉を次々と思い出した。
俺と付き合えと言ったのも、縁りを戻そうと言ったのも、最初から冗談だと決めてかかっていた。
先輩は何度も言葉をくれたのに、俺は信じようとしなかった。
何時でも俺を抱けたのに、俺のことを思って決して抱かなかった。
俺のファーストキスの相手だった。
俺のことを”最後の男”だと言ってくれた。
それを思い出すと、胸が熱くなった。
そして、あんな素敵な人にずっと想われていた自分を、俺はやっと少しだけ好きになれそうな気がした。
(俺、誇りに思います。ありがとう、拓馬さん…)
顔を押し付けると、俺はクマに涙を吸わせた。



週末になると、母たちが様子を見にやってきた。
気を遣ってランチが終わった時間に来たのだが、まだ数組のお客が店に居た。
ギャルソン風のエプロンに白シャツの慶を見て”カッコいい”と褒め千切ると、母は何時もの様にカウンターに座った。
「どう?戸田くん。少しは慣れた?」
「はあ、まあ、ぼちぼちです」
言いながら慶は、正孝さんの腕から万秋を抱き上げた。
万秋も大分しっかりしてきて抱いてもふにゃふにゃしない。そして慶は、どうやら案外、子供が好きらしかった。
「戸田くんって他人行儀かなぁ。慶くんって呼ぼう」
勝手にそう決めてニコニコ笑った母に慶も笑みを見せて頷いた。
ケーキが売り切れてしまったと聞くと、母は残念そうだった。
客足が良くなったのだと説明すると、母はまた慶を見てにやにや笑った、
「イケメン効果か、凄いわね」
「いや、当然ですが、みんな千冬のファンですよ。日替わりのプレートも、限定数を増やして欲しいって言われますし」
「んー、どうなの?千冬」
「いや、プレートは今の数でやっとかなぁ。質を落とすのは嫌だしね。それより最近は、お茶だけのお客さんも増えて来て、ケーキが出るんだよね。ランチにもプラス200円でケーキ付けられるようにしたし、もっと数を増やしたいんだけど、今の所は保留かなぁ」
「なるほど…。まあ、無理するのは止しなさい。続かなくなったら困るし」
「うん、俺もそう思う」
夜は正孝さんが、あの寿司屋でご馳走してくれるというので、客が引けたら今日は早めに店を閉めることにした。
慶は初めてだったが、落ち着く店だったので気に入ったようだった。
何時ものお任せのコースで鮮魚を堪能し、話題は両方の家族の顔合わせの話になった。
慶が院長に電話して確かめると、瑠衣子ちゃんが3月初めに退院出来るらしいと分かった。
「ほんと?良かった……」
俺が感激していると、母が脇から言った。
「それなら、瑠衣子さんが退院してから、みんなで来てもらいましょうよ。私たちは戸田さんに予定合わせるわ。正孝さんも日曜ならいつでも大丈夫だしね」
慶がそれを伝えると、それなら3月の最初の日曜日にしようと話が決まった。
やっと瑠衣子ちゃんに会える。
そう思うと胸が弾んだ。