涙の後で
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幾らコンビニで接客していたとはいえ、カフェとなると、もっとお客さんとも近いし、勝手が違うのだろう。最初、慶は随分緊張しているようだった。
だが、3日もすると大分慣れてきて、動きも良くなってきた。
俺の方も、ホールを全部慶がやってくれるし、洗い物なども手伝ってくれるので、作る方だけに専念出来た。
だが、慶のことが、近くの会社の女性社員たちの間で噂になったらしく、数日の間で急にお客が増えた。
ランチの他にも、会社帰りにお茶を飲みに来てくれるようになり、夕方から夜に掛けても忙しくなった。
そうなると、限定のプレートもケーキも、早い時間に売り切れてしまうことが多くなり、作る個数を増やすべきかと悩んだ。
だが、折角慶と暮らせるようになったのに、二人きりの時間が減ってしまうのは嫌だった。
それでなくとも、慶には小説を書く時間も必要なのだ。店の手伝いも、出来れば忙しいランチの間だけにして、後は自分の時間として使ってもらいたかった。
だから、仕込みを増やすのは、もう少しペースが掴めてから考えることにした。
慶が越して来て、最初の店の定休日に来客があった。
母屋の方の玄関を開けると、立っていたのは真藤先輩だった。
「拓馬さん…」
俺が絶句すると、先輩は変わらぬ笑顔で少し頷いた。
「元気だったか?」
「はい…」
「戸田がコンビニ辞めたって聞いて…」
そこまで言うと、真藤先輩は俺の後ろに視線を移した。
「ああ、やっぱり…」
出た来た慶を見てニヤッと笑うと、真藤先輩は俺の頭に手を乗せた。
「良かったな?千冬」
「拓馬さんッ…」
思わず抱き付いた俺の身体を、先輩は何時もの様に抱きしめてくれた。
ずっと、気になっていた。
あの時、先輩は俺に腹を立ててしまったのだと思っていた。
何時までも本心を言えない俺に呆れて、見限ったのだと思っていた。
謝って、そして、お礼を言いたいとずっと思っていたのだ。
だが、勇気が出なかった。
「ごめんなさいッ。俺…」
見上げた俺を先輩は優しい眼で見つめた。
「何で謝る?それに、何時までも俺に抱き付いてると、後ろの男が怖い顔して見てるぞ」
俺が振り返ると、慶は苦笑していた。
「ご心配なく。今更、真藤さんに嫉妬なんかしませんよ」
慶が言うと、先輩は俺の身体を抱く腕に力を込めた。
「うわあ、余裕だってか?腹立つ…」
先輩が言うと、慶はまた笑った。
「いいから、何時までも玄関でイチャイチャしてないで、上がってください」
慶の言葉に先輩も笑うと、俺の身体を離して靴を脱いだ。
「お茶がいいです?コーヒー?」
「コーヒーがいいなぁ。千冬のコーヒー飲みたい」
「分かりました。ちょっと待っててくださいね。拓馬さんが来てくれるなら、なんかお菓子も焼いとけばよかった…」
「そんなのいいよ。急に来たんだし…」
言いながら俺と一緒にキッチンへ入って来ると、先輩はダイニングの椅子に腰を下ろした。
「1月いっぱいはコンビニに居たって楠田が言ってたけど、まだ越して来て間もないのか?」
続いて入って来て隣に腰を下ろした慶に先輩は言った。
「はい。2月に入ってすぐです」
「そうか。それで?店は手伝ってるのか?」
「はい。まだ、慣れなくてあんまり役に立ってないですけど…」
言いながら、慶は少し表情を引き締めた。
「真藤さん、あの時はありがとうございました。真藤さんが背中を押してくれなかったら、今でも俺は千冬を悲しませていた。感謝してます」
頭を下げた慶を見て、俺も先輩に頭を下げた。
「わ、止めて欲しいなぁ。あの時は、何時までもまごまごしてるおまえらに少々腹が立って、余計なこと言っちまった。けど、俺が言わなくたって戸田はちゃんと気付いた筈だ。もうずっと、おまえらは想い合っていたんだからな」
「でも、やっぱり真藤さんのお陰です。あの時、言ってもらわなかったら、俺はまだまごまごしてたかも知れない」
慶が言うと、先輩は少し複雑な表情を浮かべた。
「まあ…、もういいって。納まる所に納まって、俺もホッとしたよ」
コーヒーが入り、慶が並べてくれたカップに注ぐと、先輩の前に置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
すぐに口を付け熱いコーヒーを啜ると、先輩は笑みを見せた。
「うん、旨い。千冬のコーヒー飲みたかった」
そう言うと、俺と慶の前に置かれたカップを見て少し眉を上げた。
「ペアとか、新婚って感じだわ」
その言葉に俺が赤くなると、慶が言った。
「この前の千冬の誕生日に俺が買ったんです。記念なんで」
すると、先輩は少し驚いたように眼を見張った。
「戸田って、そういうキャラだっけ?」
「さあ…。なんか今までの自分とは違うってのは思います。千冬には何でもしてやりたくて」
「ふうん。まいったね、こりゃ」
そう言って苦笑すると、先輩はまたカップを口に運んだ。
先輩が帰ってからのことを、俺たちは全部話した。
慶の言うように、俺たちがこうなれたのは先輩のお陰だ。だから、俺たちは全てを先輩に話したかった。
「そうかご両親にも話せたのか。本当に良かったな。……お前たちの幸せそうな顔見れて、俺も心置きなく旅立てるよ」
先輩の言葉で俺は思い出した。先輩は弟さんと一緒に、渡米するのだ。
「拓馬さん、じゃあ、いよいよ?」
「ああ。俺も卒業するし切りがいいんで、弟が春休みになったら行くことにした。向こうは学期の途中になるけど、弟は編入出来ることになったし。俺はアルバイトでも見つけるよ。まあ、帰って来てから就活だから、それを思うと、ちょっと不安だけどな」
「そうなんですか…」
「もしかすると、向こうで何某かの学校に通うかも知れないけど、今のところは未定」
そう言うと、先輩はコーヒーのお替りを欲しいと言ってカップを差し出した。
俺はコーヒーを淹れ直し、また熱い液体を先輩のカップに注いだ。
丁度、昼前だったので先輩と一緒に昼食を食べようと、俺は店の方へ足りない材料を探しに行った。
戻って来てキッチンへ入ろうとすると、二人の会話が聞こえて、俺はなんとなく足を止めた。
「真藤さん、訊くべきじゃないのは分かってます。それに、俺には関係ないって言われればそれまでなんで。でも、真藤さんがこのタイミングで来た意味を知るために敢えて訊きます」
慶の低い声が聞こえ、俺は何だか緊張してギュッと手を握った。
「真藤さんは、千冬の事が好きなんですよね?」
何で今更、慶が先輩にそんなことを訊くのか分からなかった。
勿論俺は、先輩に嫌われてはいないだろう。今までずっと、誰よりも俺の味方で居てくれた人なのだ。
だが、慶が訊いた”好き”の意味を俺は分かっていなかった。
「ははっ。まさかおまえに悟られるなんてなぁ。自分の気持ちにさえ気付かなかったヤツに」
「それは、俺が同じだからですよ」
「そうだな…。ああ、好きだよ。初めて千冬と話した時からずっと。……一目惚れだった」
先輩の声は少しもふざけていなかった。
(え……?)
困惑し、俺は息を呑んだ。
「その後は、もう話す度に可愛くて可愛くて、どんどん好きになった。千冬が傷付くんじゃないかって心配なのも確かにあった。けど、ユキと付き合うなって言ったのは、本心では俺のものにしたかったからだ。…けど、千冬の心には最初は正孝さん、そして次にはおまえ。正孝さんの時は、多分千冬はまだ子供で、本気の恋じゃない気がした。だから、希望もあったんだよ」
辛そうな先輩の声が俺の心を抉った。
まさか、先輩がこんな気持ちでいたなんて、少しも、疑いさえしなかったのだ。
「けどなぁ、おまえに対する想いを知った時には俺も相当落ち込んだよ。……でも、それでも諦め切れなかった」
「なんで…、言わなかったんです?千冬に…。真藤さんなら、きっと千冬に選ばれた筈だ」
慶の言葉に、先輩がフッと息を吐くのが聞こえた。
「俺の卒業間近に、別れが辛くて、千冬は抱いて欲しいって言った。あの時抱いてたら、もしかして俺のものになったのかもって思うよ。けど…、出来なかった。俺のものになったら、結局千冬は傷付く。おまえを忘れられなくて、俺に対して罪悪感を抱くだろう。……俺は、千冬の1番近くで守りたかった。1番信頼してもらえる先輩のままで、永遠に傍に居たかったんだよ。…けどもうお役御免だろ?俺の腕はとうとう必要なくなっちまった…」
「だから日本を離れるんですか?諦めるために?」
ハーッと先輩の溜め息が聞こえた。
「いや…。今度の渡米は純粋に家の都合だ。まあ、いいタイミングではあったけどな。……あっちで頭冷やすよ。俺だって、前に進まなきゃな…」
涙が溢れて我慢出来ず、俺は音を立てないように店へ戻った。
「う…ッ」
厨房の中にしゃがみ込むと、俺は泣いた。
少しも気付かなかった。
先輩が俺になんか本気になる筈ないと、最初から疑いもしなかった。
まさか、先輩の片想いの相手が自分だなんて、露ほども思わなかったのだ。
今までの先輩の気持ちを想うと、涙が止まらなかった。
本当に俺の1番傍で、ずっとずっと守っていてくれた。
誰よりも俺の気持ちを分かってくれた。
辛い時には、何時だって先輩が助けてくれたのだ。
こんなにも深い愛を、俺は無償でずっと与えられていたのだ。
「ごめんなさい…。拓馬さん…ッ」
申し訳なくて、どうしていいのか分からなかった。
どうやったら償えるのだろう。
どうやったら、返せるのだろう。
どうやったら、幸せになってもらえるのだろう。
何ひとつ、俺には術がないのだ。
立ち上がると、涙を拭い、俺はフードプロセッサーを出した。
今は先輩に、美味しい物を食べさせたい。
俺に出来ることは、それぐらいしかないのだ。
玉ねぎを大量に切り、フードプロセッサーに入れるとみじん切りを作った。
眼が赤いのを玉ねぎの所為にしたかったからだ。
「うわ、凄いな玉ねぎ臭…」
母屋から厨房の中へ入って来て慶が言った。
「こっちで作ってんのか?」
言いながら俺の顔を見ると、慶は少し眉を寄せた。
「ああ、酷いな。眼が真っ赤…。俺も染みてきたよ」
眼をしばしばさせて慶が言った。
「仕込み時間が無いから、煮込まなくていいキーマカレーにしようと思って。炒めるのだけ、こっちでやっちゃおうかと」
「なんか手伝うことあるか?」
「あっちの冷蔵庫にサラダ用の野菜あるから、洗っておいて」
「分かった。……千冬…」
「うん?」
「寂しいか?」
それは勿論、先輩が日本を離れることを言ったのだろう。
「うん…」
俺は頷いたが、慶を見上げて笑って見せた。
「でも、永遠の別れじゃないから」
「……そうだな」