にんじんのお星さま
第1話 失恋とうさぎのパン
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「おお、いい匂い…。ほんとに“うさぎ”だなぁ」
オーブンの天板の上に並んだ狐色のパンを見て椎名は感動したようだった。
「凄いなぁ、彪芽くん。パンまで焼いてるの?」
目を丸くして自分を見た椎名に、彪芽は首を振った。
「まだ2回目なんです。岳斗のママがお嫁に来た時、パンを作る機械を持って来たんです。食パン以外でも、一次発酵まで勝手にやってくれるから後は以外と簡単で…」
「でも、凄いよ。2回目でこんなに旨そうに出来るなんて…。それに形もいい」
パンのうさぎは長い耳とレーズンで出来た目と鼻をしていた。くまの方は耳が丸い。
それをひとつずつ皿に乗せ、彪芽は岳斗と椎名の前に置いた。
「食べていけなんて偉そうに言っても、あとは何にも無いんです。いま、急いでサラダだけでも作りますから…」
彪芽が恥ずかしそうにそう言って、バターの容器とジャムの瓶を並べると、椎名は首を振った。
「いいよ、いいよ。これで充分。焼きたてのパンなんて、それも手作りなんて初めて食べるんだから、最高のご馳走だよ」
言いながら椎名は、隣に座った岳斗の顔を覗き込んだ。
「岳斗、何処から食べる?」
「おみみー」
答えた岳斗に彪芽は慌てて言った。
「まだ熱いよ。ふーふーしてからな」
頷いてフウフウとパンを吹く岳斗の姿を見て微笑むと、椎名は自分のパンを手に取った。
やっぱり耳から齧りつき、忽ち顔を綻ばせた。
「うん。香ばしくて旨い。焼き立てって、こんなに旨いんだなぁ…」
彪芽は笑って頷くと、彼の前にコーヒーのカップを置いた。
さっきの相手が、椎名とどんな関係なのか気になって仕方が無い。躊躇ったが、どうしても好奇心に勝てなかった。
「さっきの…、弟さん?」
そうではないと分かっていたが、彪芽はわざと訊いた。兄弟なら彼を苗字で呼ぶ訳が無い。
椎名は苦く笑うと、彪芽を見つめた。
「いや、恋人だよ。いや違うか、だった…だな」
そう言うと椎名はまた苦笑した。
「驚いただろ?気持ち悪い?」
「いいえ」
彪芽は目を逸らさずに答えた。
「そんな事ありません」
「そう…」
カップを口に運びコーヒーを飲む椎名の顔から彪芽は視線を外さなかった。
やはり思った通りだった。彼はさっき、恋人に別れを告げられたのだ。
そして、恋人は男だった。
自分と同じ様に…。
テーブルの上に頬杖を付き、椎名は視線を窓の外に向けた。
「3年付き合った…。あいつが脱サラしてデザインの専門学校に行ってる頃から。…卒業して、グラフィックデザイナーとして広告の会社に就職したんだけど、アメリカでやりたいって夢を持ってたんだ。その事は前から知ってたんだけどな…」
「行くんですか?アメリカに」
椎名は体を起して頷いた。
「来週、発つんだそうだ」
「そうですか…」
「去年、結構大きな賞を取ってね。それで、あっちの会社から引抜があったらしい。…凄いよ、ほんと…夢を手にしたんだもんなぁ、あいつ…。物凄く頑張ってたのを、俺が1番良く知ってるんだ。だから……、とても引き止めるなんて出来なかった…」
「でも…、だからって何も、別れなくても…」
すると、椎名は諦めたように笑った。
「これから、どんどん忙しくなるだろ。……遠過ぎるよ、余りにもな……」
言い終わると、椎名はまた、ウサギの耳を噛んだ。
パリッ、といい音がして長い耳が片方、その姿を消した。
「あれ…?」
隣に座っていた岳斗を見て椎名は笑った。
「寝ちゃった…」
うさぎの耳を口に入れたまま、岳斗はテーブルに頬を付けて眠っていた。
「子供ってほんと、突然眠るよなぁ…」
そう呟いた椎名の目が何だか妙に寂しそうだった。
岳斗を2階の布団に寝かせて階下に降りると、そこにはもう椎名の姿は無かった。
彪芽は一人きりになったダイニングのテーブルに腰を下ろし、うさぎの耳を齧った。
椎名はとても辛そうだった。
いつも笑っている椎名しか彪芽は知らない。あんな彼の顔を初めて見た。
「好きだったんだ、本当に…」
そう呟くとキュッと胸が痛んだ。
あの剛という人は、きっと、椎名の色んな表情を知っているのだろう。
自分の何倍も、何十倍も椎名のことを知っているのだ。
椎名の別れた相手に嫉妬している自分を知り、彪芽は益々辛くなった。
相手が男だった事が何故かとてもショックだった。
多分、望みは無いのだと思っていた時の方が気持ちはずっと楽だったのだろう。
彪芽はテーブルの上に両腕を組んで、その上に頬を乗せた。
「顔…、見たかった…」
剛がどんな顔をしているのか知りたかった。
椎名に愛されている男の顔を見てみたかった。
いや、見なくて良かったのかも知れない。
「俺じゃ、駄目ですか…?俺ならずっと傍に居るのに…」
呟くと余計に切なさが込み上げた。
そして、間違いなく自分は、椎名に恋をしているのだと思った。
月曜日の朝、彪芽は家を出る時間をずらした。
何と無く椎名の顔を見たくない。見ると、また辛くなるような気がした。
彼が自分と同じ種類の人間だと知ってしまった事が、却ってその存在を遠くしてしまったような気がする。
それは、彼に対して余計な期待を抱いてしまう所為だろう。
自分の心が彼を求めている事を隠しておく自信が彪芽には無かった。もう、以前の様に何でも無い顔をして彼に会うことは出来そうもない。
あの笑顔を見るのが辛い。大好きだからこそ辛かった。
いつもより10分遅く玄関を出ると、彪芽は岳斗の手を引いて歩き出した。
アパートの前を通り過ぎた時、後ろから走って来た椎名に声を掛けられた。
「おはよっ。昨日はご馳走さん」
「あ…、いえ」
なんで今日に限って彼も遅く出て来るのだろう。折角の作戦が失敗し、彪芽は顔を覆いたくなった。
「今日、ちょっと遅かったな?階段の上で、出て来るの待ってたんだけど…」
「え…?あ、ちょ、ちょっと…岳斗の仕度が…」
まさか、彼が自分を待っていたなどとは思わず、彪芽は嘘を言って誤魔化した。
「昨日もその前もご馳走になったから、今日は俺が奢るよ」
突然の申し出に、彪芽は驚いて椎名を見た。
どうやら、そのことを言いたくて待っていてくれたらしい。
「ええ?いいですよ、そんな…。昨日は兎も角、その前は俺が迷惑掛けたからと思って…」
「いいじゃんか、なあ岳斗。3人でファミレスでも行こうよ」
「うん、行くー」
素直に頷く岳斗に彪芽は慌てた。
今はなるべく避けたい相手と食事をするのは辛い。
「いいですって。そんな気を遣わないで下さい」
「いや、今1人になるのって結構応えたりして…。俺の為でも有るからさ…」
「椎名さん…」
言葉を失った彪芽に椎名はいつもの笑顔を向けた。
「じゃ、また後で。バイバイ、岳斗」
「バイバーイ」
無邪気に手を振る岳斗の隣で、彪芽は複雑な気持ちで椎名の後ろ姿を見送った。
大学に行っても何だか1日中ソワソワしていた。
帰る途中で岳斗を保育園に迎えに行き、家に帰って来ても何だか落ち着かない。
彪芽は自分がまるで初めてのデートをするような気持ちになっている事に気がついた。
(馬鹿みたいだ、俺…。あっちは失恋したばっかりで、ただ寂しさを紛らわしたいだけなのに…)
こんな気持ちになってしまう事が辛いから避けていようと思っていたのだ。
椎名が剛をどんなに愛していたか、彼の表情で彪芽にも分かっていた。だから、妙な期待をしても無駄だということも知っている。
馬鹿な事は考えまいと心に決め、彪芽は岳斗と早めに風呂に入った。
6時半に迎えに来た椎名と、彪芽達は近くのファミリーレストランへ出掛けた。
平日なのでそれほど混んでも居ない。3人はウェートレスに案内されて窓際の席に座った。
他人から見ると、自分達は一体どういう関係に映るのだろうと、ふと、彪芽はそう思った。
歳の離れた3兄弟。
いや、それは無いだろう。
多分、1番有り得るのは椎名と自分が兄弟で、岳斗が椎名の子供と言う所だろうか。
その時、彪芽の思いが別の方へと移り始めた。
椎名は、剛とは一体どんな場所に出掛けたのだろうか。
まさか、ファミレスと言うことはあるまい。大人同士だし、結構ロマンティックな店で酒を飲んだりした事もあったのだろうか。
多分、自分とは絶対に行かないような場所へ、剛と出掛けていたのだろう。
どんな所へ…?
ベッドのある場所へも…?
(駄目だ…、俺…)
まるで筋違いな嫉妬を、もう居ない人に対してしている。
分かっていても、抑えることは出来なかった。
「彪芽君、そんなに深刻な顔でメニューを見なくても…。何でも好きなもの食べていいよ」
眉間に皺を寄せた彪芽の顔を見て、椎名が可笑しそうに言った。
「あ…、いや…」
指摘されて恥ずかしくなり、彪芽は頬を染めた。
「岳斗は何にする?」
誤魔化す様に、お子様メニューを見ていた岳斗に慌てて振った。
「ミドリ、いいでしゅ」
指差したのはクリームソーダだった。
大好きな緑色に惹かれたのだろう。お子様ランチよりも魅力的だったらしい。
「ミドリはごはんじゃないよ。ごはんが先」
「ミドリ、いいでしゅ。ミドリッ」
岳斗はクリームソーダを指差して譲らない。
彪芽が溜め息を吐くと椎名が笑いながら言った。
「分かった、分かった。じゃあ、岳斗はミドリとお子様ランチな?」
「済みません…」
彪芽が謝ると椎名はまた笑った。
「いいよ。彪芽君も好きなもの頼んで」
「はい…」
注文を終えると、テーブルに置いてあったペーバータオルを取って、彪芽はそれを器用に割き、紙縒りを作ってそれを輪に繋げると岳斗に小さな輪投げを作ってやった。
「ほら、岳斗…。こうやって…」
伝票を差し込むプラスティックのホルダーを立てて、それに紙縒りの輪を投げる。スポリと入ると、岳斗は喜んで手を叩いた。
渡してやると、今度は真剣な顔になって輪を投げて遊び始めた。
「器用だなぁ…」
黙って楽しそうに彪芽の手付きを見ていた椎名が感心して言った。
「それに、綺麗な指してるんだな、彪芽君」
「えっ…?そうですか?」
彪芽は驚いて自分の指を見た。
今まで、誰からもそんなことを言われた覚えは無かった。
椎名は笑いながら彪芽の手を取った。
「綺麗だよ。指が長くて真っ直ぐで、爪の形も長くて格好がいい。俺とは大違いだなぁ…」
(でも、俺は、貴方の手が好きです…)
そう心の中で言い、彪芽は触れた指先で椎名の手の温もりを味わった。
引こうとした椎名の手を掴みそうになり、慌てて離す。その途端に、悲しくて堪らなくなった。
「はいんないー…」
岳斗が不満そうに言うと、椎名は紙縒りの輪を彼から受取った。
「どれ、俺がやってみるからな?」
「うんー。がんばれー」
「おう」
狙いを定める為に目を細めた椎名の顔を彪芽はじっと見つめた。
昨日の傷は、まだ勿論、癒えてはいない筈なのに、それでも笑っている椎名が、彪芽には辛くて堪らなかった。
食べるのが遅い岳斗に合わせて、食事が終わったのは一時間以上経ってからだった。
それでも、余り残さずにいつもより沢山食べた岳斗を彪芽は誉めてやった。やはり、たまに環境の違う所で食べると気分も変わるのだろう。
帰り道は、岳斗におんぶをせがまれ、彼を背負ったまま椎名と肩を並べて歩いたが、何を話していいのか分からず、彪芽は黙ったままだった。
椎名も同じなのか、口を開こうとしなかった。
ただ、彪芽の背中で歌う、良く意味の分からない岳斗の歌を聴いて2人で笑った。
やがて歌が途切れ、ぽつりと椎名が呟いた。
「寝ちゃった…」
「やばいと思って、先に風呂に入れておいて正解でした」
「はは…、偉い」
顔を見るのが辛いから、暫く避けていようと思った彪芽だったが、やはりこうして一緒に居るのは嬉しい。
会えば、離れ難いような気持ちになってしまう。
アパートの前まで来た時、彪芽は思い切って椎名を誘った。
「あの…、ちょっと飲んでいきませんか?」
椎名は一瞬躊躇いを見せたが、すぐに頷いた。
「そうだね…。じゃあ、ちょっとだけ」
玄関の鍵を開けて灯りを点けると、後について上がって来た椎名を居間に通した。
岳斗を2階に寝かせると、彪芽は居間に缶ビールとポテトチップの袋を運んだ。
「そう言えば、彪芽君も失恋したんだったな?じゃあ、振られた者同士だ」
缶のプルトップを起しながら椎名が笑った。
彪芽も頷いてビールに口を付けた。
「美人だった?彼女?」
彪芽は缶から口を離して首を振った。
そして、椎名の顔に視線を注いだ。
「いいえ。美人とは言えません…、それに、彼女でもありませんし」
「え…?」
「孝彰って言うんです。俺の別れた相手」
「じゃあ…」
目を見開いた椎名に彪芽は頷いた。
「は…、ははは…、そうか…」
椎名が笑い出すと、彪芽はビールをぐっと煽った。
本当は言うつもりは無かったのだ。
自分と椎名が同じだと知られたくはなかったのだ。
一気に半分ほどを飲み干して息を吐くと、彪芽は缶をテーブルに置いた。
「今になって思うと、向こうから告られて、いい感じだって程度で付き合ったんです。勿論、嫌いじゃなかったし、好きだったけど……」
だが多分、本当の意味で欲しかったのは椎名だったのだと気が付いた。
だから、椎名とは失ったものの意味が違うのだ。
「それに、あの時は別れようって言われた事より、その理由の方がショックで…」
「岳斗の事?」
彪芽は頷いた。
「結局は岳斗が居るから別れたいって言われたのと一緒だった。ここに来ると、結構可愛がってくれてたんだけど…」
「彼は君と同じ大学生?」
「はい」
「じゃあ、仕方ないか…。楽しみたい歳だよな。恋愛も、遊びも」
「コブ付きじゃあ振られますよね?」
軽い調子でそう言い、肩を竦めて見せると椎名も笑った。
その笑顔を見て、彪芽は笑いを引っ込めた。
急に切ないものが胸に込み上げる。
本当は、辛いに違いない。
1人になると、どんな顔をしているのだろうか。
無理して笑わなくてもいい。
(見せてくれないだろうか……)
自分にも、もっと本当の顔を見せて欲しいと思った。
「俺、本当は毎朝、椎名さんに会いたくて時間を合わせてたんです…」
「え…?」
驚いて見つめ返した椎名の顔から、彪芽はふっと視線を外した。
「椎名さんが引っ越して来た時、俺、部屋の窓からその様子を見てた…。最初は、どんな人が越してきたのかって、その程度の興味だったんだけど…」
彪芽はビールの缶を取って残りを飲み干した。
「椎名さん、荷物を運んでる間、ずっと楽しそうで…。それを見てたら、何だか俺も凄く楽しくなった…。いい笑顔だなって、そう思った…」
目を上げると椎名と視線が合った。
「毎朝、ただ“おはよう”って笑い掛けてもらえるのが嬉しくて、それだけで、結構元気とか貰ってたんです、あなたに…」
「彪芽君……」
彪芽は言うつもりの無かった自分の気持ちを、思わず言ってしまった事に狼狽え、目を伏せた。