にんじんのお星さま

第1話 失恋とうさぎのパン


-3-

テレビの音だけが響く中、彪芽は暫くの間、その場にぼんやりと座っていた。

これから、どうなるのだろう。
自分の将来は一体どうなっていくのだろう。

そう思うと不安で堪らなくなった。
岳斗はまだ3歳になったばかりだ。これから、まだまだ手が掛かる。
就職しても、会社と両立して岳斗の世話をしなければならない。そして多分、それが出来る会社を自分は選ばなければならないだろう。
“好きな仕事”を選ぶのではなく、“自由の利く会社”を選ばなければならないのだ。
そんな生活の中で、“自分”は、一体、何処に存在するのだろうか。
突然、彪芽は立ち上がると自分の部屋に行き服を着替えた。
携帯を出して、昼間誘ってくれた友人の携帯に電話する。
「もしもし?…うん。今、何処にいる?やっぱ、俺も行くよ。…大丈夫、眠ってるし…」
岳斗の事を訊かれ、彪芽は振り返って彼の眠る部屋を見ながら言った。
友達に居場所を聞き、彪芽はそっと襖を開けて岳斗の寝顔を確かめると家を出た。
何だか無性に嫌になった。
こんな風に岳斗の犠牲になっている自分が堪らなかった。

遊びに行って何が悪いのだ。
彼の世話なら十分にしている。
たまに飲みに行くくらいしたっていい筈だ。
俺にだって俺の生活が有る。
大体あいつは元はと言えば他人じゃないか。

駅までの道を歩きながら、彪芽の胸の中はそんな思いでいっぱいになっていた。



久し振りに参加した彪芽を友人達はみんなで歓迎してくれ、もう大分酒が進んでいた為、すぐに場所を変えてカラオケに流れる事になった。
だが、当の彪芽は、仲間と飲んでも、歌っても、少しも楽しくはならなかった。
やはり、残してきた岳斗の事が気に掛かって時計ばかり見てしまうのだ。

起き出して自分を探しているのではないだろうか。
泣いていたらどうしよう。
時々、夢を見て起きる事もあったっけ。

そんな事ばかり考えていたので、隣に座った友人に話し掛けられても気付きもしなかった。
「彪芽、どうした?」
肩を揺すられて、ハッとすると彪芽は言った。
「ごめん、やっぱ俺、帰るよ」
「えっ?もう?」
友人は驚いて彼を見た。
その彼に自分の分の勘定を急いで押し付け、彪芽はカラオケボックスを飛び出した。
通りに出て、急いでタクシーを拾う。
運良く、すぐに空車が通り掛り彪芽はそれに乗り込むと、家のある場所を運転手に告げた。
心が急いて仕方が無い。
やっぱり来るのではなかったと、後悔ばかりが先に立って、タクシーの進むスピードがやけに遅く感じた。
家の前までタクシーを乗りつけ、急いで料金を払って降りる。
玄関の鍵を開け、2階に駆け昇って岳斗が眠っている筈の部屋に飛び込むようにして入った。
岳斗が寝ている筈の布団に四つん這いになって近付くと、その身体を確かめようとして手を伸ばして探った。

布団が冷たい。

ハッとして立ち上がり、彪芽は急いで明かりを付けた。
居ない…。
岳斗の姿がない…。
布団の中は蛻の殻だった。
「岳斗っ」
彪芽は思わず叫んでいた。
心配していた事が現実になった。
岳斗は目を覚ましたのだ。
「岳斗…、岳斗っ…」
叫びながら、彪芽は青くなって家中を捜した。
一体、何処に行ったのか。
まさか、誤って風呂桶にでも落ちてしまったのではないか。
恐怖が彪芽を襲い、手足が無闇に震えた。
押入れから戸棚、洗濯機の中まで必死で捜した。
だが、岳斗の姿は家の中の何処にも見えなかった。
(なんで?まさか、誘拐…?)
玄関の鍵は掛かっていた。
岳斗はまだ、1人で玄関の鍵を開けられない。
じゃあ、何処から……?
その時、庭に通じるサッシが開いているのに気がついた。
岳斗はそこから出て行ったのだ。
「岳斗…」
彪芽は裸足のままで家を飛び出した。
きっと岳斗は、目を覚まして誰も居ない事に気が付き、自分を探して外に出たのだ。
一体、いつ目を覚ましたのだろう。
それから、どれ程の時間が経っているのだろう。
一体、岳斗は何処へ行ったのだろう?
悪い奴にでも掴まっていたらどうしよう。
事故にでも遭っていたらどうしよう。
自分の馬鹿さ加減に腹が立ち、彪芽の瞳に涙が滲んだ。
門を出て、岳斗と良く遊びに行く近くの公園を見に行こうと走り出した時、背後から呼ぶ声がした。
「彪芽くーん」
振り返ると、椎名が立っていた。
「椎名さ…」
その背中に気付いて彪芽はハッとした。
彼の背には岳斗が背負われていたのだ。
「岳斗…」
その姿を目にした途端、安堵感がどっと心に広がった。
「岳斗っ」
「あーたん」
走り寄ると、すぐに椎名の背中から岳斗が小さな両手を差し出した。
「あーたん、まっくろ、まっくろでした」
“真っ暗”の事を彼は“まっくろ”と言う。
起きたら彪芽が居なくて、家の中が真っ暗だったと言いたいのだろう。
真っ暗な家の中にたった1人残されて、どれ程心細かったか。それを思うと、彪芽は申し訳無い気持ちで一杯になった。
「ごめんな、ごめん…」
小さな体をぎゅっと抱きしめ、彪芽は何度もそう言った。
無事で良かった。
岳斗まで失わなくて良かった。
1人にならなくて良かった……。
「驚いたよ。帰って来たら、道路で泣いてたからさ…。家の中に君は居ないし、取り敢えずウチに居たんだけど、君が帰って来たかと思って見に来たんだ」
目を上げて椎名の顔を見た時、彪芽は何故か自分の心が本当の意味で安心するのが分かった。そして、込み上げてきそうになった涙を隠す為に岳斗の小さな肩に瞼を押し付けた。
「済みません、済みませんでした…」
「いや、俺はいいけど…。岳斗、ずっと君の事ばかり呼んでたよ。俺を引っ張って、あーたん、行こうって、そればっかりでさ…」
「岳斗…。ほんとにごめんな、岳斗…」
小さな肩が温かい。
その温もりに、彪芽は必死でしがみ付いていた。



岳斗をやっと寝かしつけて階下に降りると、彪芽は居間で待ってくれていた椎名に、もう1度謝り礼を言った。
「遊びに行きたい時だってあるよな。まだ、大学生だもんなぁ…」
椎名はさっきから1度も彪芽を咎めなかった。
本当なら小言のひとつも言われて然るべきだったろう。
だが、彪芽が自分のした事をどれほど後悔しているのか椎名には分かっていたのだろう。何も言わなくても、彼が十分反省し自分を責めている事をその様子から察していたのだ。
そんな椎名に、彪芽は今夜の言い訳を聞いてもらいたくなった。
「今日…、1年以上付き合っていた相手に別れ話をされて……。前みたいに、普通に付き合えなくなった事が嫌だって…」
すると、椎名はゆっくりと頷いた。
「…そうか…」
「岳斗が居る限り、俺には自由が無いんだなって、そう思ったら急に嫌になった。いつも、いつも、岳斗の事ばかり考えている自分に気がついたら怖くなった…。そしたら、俺って何だろうって…、そう思って…」
彪芽はぎゅっと自分の膝を握り締めた。
「岳斗が眠ってる間ぐらい遊びに行ったっていい筈だって…。少し自棄になってたんです」
「でも、やっぱり心配で帰って来たんだろ?」
彪芽は俯いたままコクリと頷いた。
「仲間と騒いでても全然のれなくて、時間ばっかり気になって、岳斗が目を覚ましてたらどうしようって…、そう思ったら、もう、そこに居られなかった…」
不意に、温かい掌が彪芽の頭の上に乗った。
両親の通夜の時と同じ、温かい椎名の手だった。
自分よりも体の小さなこの人が、何でこんなに大きく感じるのだろうか。
自分を包んでくれそうな気がするのだろうか。
無性に彼に甘えてしまいたい欲求が彪芽の心の中に沸いた。
「たった1人で色んな事を抱えているんだもんな…。悩んだり、たまには自棄になったりもするさ」
目を上げると、そこにはいつもの笑顔があった。
それを見た時、彪芽の瞳から不意に涙が零れ落ちた。
ハッとしてそれを拭い取る。
すると、椎名が静かに言った。
「泣いてもいいと思うよ、俺は…」
それを聞いた途端、目が熱くなった。
椎名の優しい言葉に彪芽の涙が躊躇う事を止めた。
「う……」
思わずその胸に縋ってしまった彪芽を、椎名は抱き止めてくれた。
「泣いた方がいいと思うよ。…ずっと、我慢してきたんだから…」
両親が死んだ時にも流さなかった涙が、椎名の胸に吸われていく。
いつまでも背中を撫でてくれるその手の温かさが彪芽の苦しみを和らげてくれる様だった。


「あの…、飯、食いに来ませんか?明日、明日の晩」
帰ろうとする椎名を玄関まで送り、彪芽は急いでそう言った。
「ほんと?いいの?」
嬉しそうに笑う椎名に、彪芽は勢い込んで頷いた。
「もちろん。…あ、でも俺の料理だから大した事無いけど」
「とんでもない、嬉しいよ。いつも外食かコンビニが多いから」
6時半頃来てくれるように椎名に言うと、彼は了解して帰って行った。
今夜、こうして彼に甘えさせてもらった事が彪芽の気持ちを随分楽にしてくれた。
本当は、これからも、時々でいいから胸の内を聞いてもらいたいと思った。
いつも傍に居て、あの手で包んで貰えたらと思う。そしたらどんなに心強いだろう。
彪芽は自分の心が、思っていたよりもずっと彼に惹かれている事に気がついた。
(ちょっとくらい優しくしてもらったからって、図々しいな、まったく…)
溜め息をつき、彪芽は2階に昇って岳斗の部屋に入った。
ネコさんを退けて自分がその隙間に入る。
そして、眠っている岳斗の長い睫を見つめた。
(もう絶対、1人ぼっちにしないからな…)
彪芽は岳斗の額に自分の額を押し付けて目を瞑った。