にんじんのお星さま
第1話 失恋とうさぎのパン
「岳斗、早くおいでー」
玄関で靴を履きながら家の中に向かって彪芽が呼び掛けると、すぐにパタパタと可愛い足音が聞こえてきた。
上がり框に座っていた彪芽が振り向くと、ニコニコと嬉しそうな笑顔がそこにあった。
「あれ?それ、どうするの?」
岳斗の両手に抱かれている物を見て彪芽は少し眉を寄せた。
「あのね、ネコさんも行くって」
それは、黄色いタオル地で出来た猫の抱き枕だった。
彼の眠る時の必需品で実にふわふわとして抱き心地がいい。3歳になったばかりの岳斗が抱くと引き摺ってしまうほどの大きさだった。
それを両手いっぱいに抱え、岳人は、その陰から顔を覗かせるようにして立っていた。
「駄目だよ。ネコさんは保育園には行けないよ。いつもお家で待ってるだろ?」
言い聞かせる様に話し掛けると、岳斗は不思議そうな顔をした。
「ネコさん、ねんねするって」
ああ、そうか、と彪芽は思った。
つまり、保育園のお昼寝の時間にネコさんが必要だと弟は言いたいのだ。
言葉を話し始めるのが平均より少し遅かった岳斗の話を、最近ではやっと理解出来るようになってきた。
まだ、良く口が回らず、言葉の種類も少ないし、自分で勝手に作り上げてしまった言葉も混じる。それだけに、彪芽には理解不能なことも度々で、通じないと言っては岳斗が癇癪を起す事もあった。
そんな時、母親だったらすぐに分かるのだろうかと、彪芽は落ち込んでしまうのだった。
母が死んで六年目、再婚すると言い出した父の相手には小さな息子が居た。
いきなり若い母親と小さな弟が出来る事に最初は面食らいもし、正直、照れくさかったが、彪芽は反対しなかった。
自分も、もう大学2年だったし、卒業後の就職の都合によっては、いつまでも父の傍に居られるとは限らない。自分が家を離れた後、父の面倒を見てくれる人が傍にいるのはいい事だと思った。
それに、父が初めて家に連れてきた時から、彪芽は2人に好感を持った。
義母は穏やかな優しい人だったし、岳斗は回らない口で自分を“あーたん”と呼び、すぐに懐いてくれた。
母親似の黒目勝ちの大きな目で、上の唇の真中がちょっと前に突き出た、可愛いらしい口をした弟を彪芽は素直に家族として受け入れられそうだと思った。
新婚旅行には行かなくていいと言った義母を、それでも記念だからと、父は車で温泉に連れて行く事にした。
岳斗も伴って行く予定だったが、出掛ける前日から、風邪を引いたらしく鼻水が出ていた。
慣れない土地へ連れて行って抉らせても拙いだろうと、彪芽が引き受けて2人で留守番する事にしたのだ。
彪芽に悪いと何度も遠慮する義母を、無理やりの様に父と車に乗せ岳斗と手を振って送り出したが、まさか、それが2人の姿を見る最後になるとは思いもしなかった。
ハイウェイで、居眠り運転のトラックが起した事故に巻き込まれ、2人はあっさりと帰らぬ人になってしまったのだ。
そして、小さな岳斗にとっては血の繋がらない義兄だけが唯一の家族になってしまった。
だがそれは、彪芽にとっても同じだった。
両親とも一人っ子で祖父母も死に絶え、彪芽にも岳斗にも親戚らしい親戚は居なかった。だから、これから先は彪芽が親代わりとなって幼い弟を育てなくてはならなくなった。
勿論、彪芽も最初は途方に暮れた。
何も理解出来ずに無邪気な顔を自分に向ける岳斗を、どうしていいか分からなかった。
気が付くと岳斗は帰って来ない母親を玄関まで迎えに行き、ずっとそこ座っている。死んだと言っても分かる訳は無く、もう帰って来ないという事も理解出来なかった。
ただ、子供特有の順応の早さで、家には彪芽と自分しか居ないと言う事を案外すんなりと受け入れてくれた。
そうなると、もう彪芽から離れない。
彪芽もそんな岳斗に対して自然に愛情が深まっていくのを感じた。
幸い両親は、十分な額の蓄えとかなり高額の生命保険を残してくれた。だから、彪芽が大学を辞めて働く必要は無かった。
自分が学校に行っている間、彪芽は岳斗を保育園に預ける為に毎朝送って行く。
それも、もう、5ヶ月になろうとしていた。
「ネコさんは夜だけねんねだよ。だから、お留守番してもらおうね」
抱き枕を手から取り上げようとすると、岳斗はそれを引っ張った。
どうしても猫と一緒に登園したいらしい。
「あ、そうだ。じゃあ、保育園までおんぶしてってあげる」
背中を向けて手を出しながら言うと、岳斗はすぐに喜んで猫を床に置いた。
「うん。おんぶ、いい。ネコさん、行ってくるまぁーしゅ」
こう言う所は実に現金なものである。彪芽は苦笑しながら弟を背負って立ち上がった。
玄関に鍵を掛けて前の通りに出ると、隣のアパートの入り口から2階に住むサラリーマンの椎名が出て来た。
「あ、おはようございます」
「おはよう。岳斗も、おはよう。いいなぁ、おんぶか」
いつものようににっこり笑って、椎名は岳斗の頭を撫でた。
岳斗もウンと勢い良く返事を返す。
彼がアパートを出て駅に行く時間と、彪芽が岳斗を保育園に送って行く時間はいつも同じで、こうして毎朝ここで顔を合わせる。
椎名は顔を合わせると、いつでも笑顔を見せてくれる。
実は、その顔が見たくて、彪芽は業と彼に会えるように時間を調整しているのだ。
「しかし、大変だよなあ。彪芽君、ほんとよくやってるよ」
「そうでもないですよ。朝から夕方まで保育園だし、俺は夜から朝までだから」
「それだって大変だよ。毎日だもんな…。遊びにだって行けないだろ?」
「まあ、それはそうですね…」
岳斗の面倒を見るようになってから、友達と遊ぶ事など殆ど無くなった。
一緒に連れて来いと言ってくれる友達もいたが、それでも酒が出るような場所に岳斗を連れて行くのは無理だし、そうなると自然と誘いも少なくなってくる。
「彼女とデートもままならないよな…」
呟いた椎名の顔を見て彪芽は苦笑した。
幸いと言うか、彪芽に彼女は必要ではない。
(あなたの事、結構好みなんですけど…。なんて言ったら、相当引かれるだろうな…)
椎名はもう30は超えているだろう。独り者で、去年の春に隣の2階へ越して来た。
その引越しの様子を、彪芽は2階の自室の窓から見ていた。
運送屋に混じって荷物を運んでいた椎名は、実に楽しそうに働いていて、その姿がとても印象的だったのだ。
日に焼けた肌に白い歯が目立って、運送屋の若者に何か声を掛けながら威勢良く動いている。まるで、どちらが本職か分からないくらいだった。
ただ荷物を運ぶだけなのに、なんていい顔をしているのかと、彪芽はその姿を見ている内に何だか清々しい気持ちになっていた。
つい、目が離せなくなり、彪芽はとうとう彼の引越しを最後まで見届けてしまった。
その後、椎名は律儀にも彪芽の家にまで引越しの挨拶に来た。
玄関でタオルを受け取った彪芽は、彼を間近で見て、やっぱり、“いいな”と思った。
特別ハンサムと言う訳でもないが、人柄の滲み出ているような温かな目をしていて、笑うと白い歯が零れる口元も感じが良かった。
背は余り高くは無いが、体つきは機敏そうで無駄がない。筋肉もほどほどについている感じだった。
隣に住んでいると言っても一軒家ではないし、それほど親しい付き合いが始まった訳でもない。ただ、近所で会えば挨拶をする程度の間柄だった。
それなのに、椎名は彪芽達の両親が死んだ時、通夜にも告別式にも顔を出してくれた。
隣のアパートの住人で葬式に来てくれたのは彼1人だけだった。
通夜の時、喪主の席で岳斗を抱き焼香の礼をした彪芽のその頭を、椎名は黙って撫でた。
その手がとても温かかったのを彪芽は良く覚えていた。
どんな励ましの言葉より、強く心に残っていたのだ。
「あ、じゃあな」
いつもの別れ道に差し掛かり、椎名は彪芽達に軽く手を上げた。
「はい、行ってらっしゃい」
真っ直ぐ駅に向う椎名と別れ、彪芽は保育園に続く道へ入って行った。
そこから、10分ほど歩いた先に、岳斗の通っている“タンポポ保育園”がある。
いつもの様に担任の酒井先生に岳斗の事を頼み、彪芽は一旦家に帰った。
大学に行くまでの間に、掃除と洗濯を済ませなければならない。
椎名には何でも無い事のように言ったが、本当は時々逃げ出したくなる。
岳斗の事は心から可愛いと思っているし、彼の世話をするのは大変でも苦ではない。
岳斗は案外聞き分けがいいし、尻の世話も掛からない。手が掛かるのは眠くなってぐずった時と、具合の悪い時ぐらいだ。
それよりも大変なのは、家事の方かも知れない。
母が死んでからは彪芽もある程度の家事をこなしてはきたが、それでも父と協力してやっていた事だった。今の様に全部が全部、彼の肩に掛かっていた訳ではない。
それに、問題は岳斗の食事だった。
やはり子供だけに好き嫌いがあるし、特に野菜を食べない。それを食べさせる為に色々と考えなければならなかった。
そして、何よりも辛いのは岳斗が母親を思い出す時だった。
夜、眠る時など思い出して泣かれると、もう、どうしてやったらいいのか分からない。
抱きしめても腕を突っ張り、
「ママ、いいでしゅ。あーたん、いや。ママ、いいでしゅ」
そう言っては泣き叫ぶ。
叱っても言い聞かせても、泣き止もうとはしない。
そんな時は岳斗を抱いたまま、彪芽まで一緒に泣きたくなってしまうのだ。
亡くなってすぐの頃は、母を捜して家の中を歩き回った事も1度や2度ではなかった。
眠くなって擦り寄って来た岳斗が、一生懸命、ある筈の無い乳房を探した時も、彪芽はぐっと胸が締めつけられる様だった。
しかし、日が経つに連れ岳斗がママを呼ぶ事も少なくなってきた。
抱き枕のネコさんが居れば、1人の布団で眠れるようにもなった。
家に帰って来た彪芽は玄関からそのネコさんを拾い上げ、2階の寝室に戻した。