にんじんのお星さま
第1話 失恋とうさぎのパン
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「今日、コンパ…は無理だよな」
家事を終え大学へ行くと、教室で顔を合わせた友達が、そう言って知り窄みに言葉を飲み込んだのに笑って頷き、彪芽は謝った。
「ごめんな。他のヤツ誘って」
「いいって、こっちこそごめん。あ、そうだ。今度さ、ディ〇ニー・シーに行こうって話があるんだ。それは参加しろよ。岳斗も喜ぶぜ、きっと」
「うん、そうだな。ありがと、考えとく」
こうして誘ってくれるのは嬉しい。
テーマパークなら岳斗も連れて行けるかも知れない。友達との付き合いをなるべく減らさない為にも、彪芽は厚意に甘えようと思った。
幾ら岳斗を育てなければならないとは言え、彪芽だって遊びたい盛りの年頃だし、友人との付き合いだって本当は減らしたくない。
だから、誘いを断る時がとても辛かったし、不安だった。
このまま、誰にも声を掛けられなくなってしまうのでは無いかと、心の片隅ではいつもそう思っていたからだ。
その彪芽の背中を後ろの席から孝彰が突ついた。
「今日、おまえんち行く。ちょっと、話があるんだ…」
「うん、分かった。飯、どうする?」
孝彰は来ると大抵夕食を食べていくので、彪芽はそう訊いた。
「いいよ。岳斗が寝た頃に行くから」
「そうか、分かった」
なんだろうか。
改まって話があるなどと言うのは少しおかしい。彪芽は気になった。
孝彰とは、もう1年以上付き合っている。
彼の方から告白され、彪芽も好きなタイプだったので付き合いが始まった。
サッパリとした性格で、岳斗の事も可愛がってくれていたし、結構上手くいっていた。
両親が死んでからは、彪芽に暇が無くなった為にデートも出来なくなってしまったが、それでも週に1度は彪芽の家に来て、岳斗と3人で食事をし、泊まる事も有った。
だから、岳斗が寝てから行くなどと言ったのは、これが初めてだった。
何か、深刻な話なのだろうか。
訊いて見ようかと思ったが、その時、講師が教室に入って来た。
彪芽は諦めて彼から視線を外すと前を向いた。
大学の帰りに保育園へ寄って彪芽は岳斗を連れて帰る。
早く迎えに行けた時は、岳斗はとても嬉しそうだった。
反対に、用事が出来たりしてお迎えが遅くなると、不安げに何度も教室の外へ様子を見に出て来るらしい。
やはり、母親が帰って来なくなったことが、心の何処かで恐怖となって残っているのだろう。もし、彪芽が来なかったらと思うと、心配になってしまうのかも知れなかった。
それを知ってから、彪芽は余程の用事が無い限り、なるべく早く岳斗を迎えに行ってやるようになった。
だが、そのことが少しずつ、彪芽の負担にもなっていた。学校帰りに友達とお茶をする時間さえもなくなってしまったからだ。
たまには息抜きしたい、と思う反面、岳斗の不安げな顔を思い出すと、罪悪感に苛まれる。
その板挟みで、彪芽のストレスはかなり限界に近くなっていたのかも知れなかった。
「あーたーんっ…」
だが、こうして迎えに来ると、顔を輝かせて自分に向かって走って来る。岳斗のそんな姿を見ると、とても辛い思いはさせられないと思ってしまうのだ。
「ただいま、岳斗」
「おかえりぃー…」
ドスンッ、と体当たりをするように両手を広げたまま彪芽の胸に飛び込んで来ると、岳斗はすぐに手に持っていた箱を見せた。
「めいろー」
「うん?迷路?…ふーん、なるほどねえ…」
箱の中に厚紙で幾つも仕切りを作り、テープで止めてある。彪芽が感心してみせると、岳斗は嬉しそうな顔になった。
「あぁのちゃんが、つくったよ」
「あぁのちゃん?ああ、綾乃ちゃんか」
岳斗が作ったにしては巧過ぎるし、大体、迷路なんていう発想はまだ無理だろうとは思った。やはりこれの製作者は年長組の綾乃ちゃんらしい。
「綾乃ちゃんに貰ったんだよね?」
酒井先生が口を添えると岳斗は勢いよく頷いた。
「この頃、よく遊んでくれるんですよ、綾乃ちゃん」
「そうですか…」
岳斗は案外、年上のお姉さん達に好かれるらしく、保育園の中でも面倒を見てくれる女の子が多かった。
(ふうん…、やるじゃん、岳斗…)
心の中で少し笑い、彪芽は無邪気に自分を見上げる岳斗の頭をくしゃくしゃと撫でた。
途中で夕飯の買い物を済ませ、家に帰ると岳斗と少し遊んでやり、その後は夕食の用意をするのが彪芽の毎日だ。
食べるのが遅い岳斗だったから、6時に夕食を用意しても終わるのは7時を回った頃で、その後すぐに風呂に入れ、遅くても8時半には寝床に着かせる。
そして、いつものように眠るまで一緒の布団に横になると、彪芽は彼が自分のペースで話をするのを聞いてやった。
岳斗なりに一生懸命、保育園の出来事などを報告してくれるのだが、分かるのはまだ3分の2程度だった。
「あーたん、ネコさんねんねしないって」
今まで、お友達の話をしていたくせに、岳斗の話はいつも突然、別の方へ移っていく。
「ねんねしてるよ。おやすみって言ってたよ」
「ねんねしてないよ、ネコさんはね…」
そう言いながら暖まった小さな手が、彪芽の首や頬をするすると撫でる。
これが、眠くなった時の岳斗の癖で、これが始まると間も無く眠ってしまうのだ。
話が止まったかと思うと岳斗の寝息が聞こえ始め、彪芽はそっと布団を抜け出して階下に降りた。
居間に入ると、勝手に入って待っていた孝彰がテレビから視線を外して彪芽を振り仰いだ。
「眠った?」
「うん。…ビール飲むか?」
「うん…、いや、いいよ」
彪芽は何だか不安になった。
やっぱり、彼の様子がいつもと違う気がする。話というのは一体なんだろう。
「彪芽…、俺達、別れない?」
彪芽が腰を下ろすとすぐ、まるで決心が鈍るのを恐れるかの様に孝彰は切り出した。
「え…?」
余りにも突然の話だった。
今まで、彼は少しもそんな素振りを見せなかったではないか。昨日まで、ごく普通に接していたではないか。
「な…に…?」
言ったきり、彪芽は言葉を失った。
何故突然、こんなことを言い出すのだろう。
一体、自分が何をしたのだろうか。
すると、孝彰は彪芽の心中の言葉を否定するかのように首を振った。
「あのな…、誤解すんなよ?おまえの事嫌いになったとかじゃないんだ」
だったら、何が理由なのだろう。
他に誰か、相手が出来たのだろうか。
「…じゃあ、なんで?」
「うん…」
孝彰は少し言い辛そうに口篭もったが、顔を上げて彪芽の視線を正面から捉えた。
「このまま付き合っててもさ、こんな風におまえの家で会うのが精一杯だろ?会って話して飯食って、それからエッチして…。そんなただのセフレみたいな関係、俺、苦痛なんだ…」
「孝彰…」
ショックだった。
今まで一度だって、自分達の付き合い方について不満を漏らしたことなど無かったではないか。
そのことを言おうと彪芽が口を開きかけると、その前に孝彰が言葉を繋いだ。
「一緒に遊びに行ったり、たまには外で会ったり、女みたいだって言われるかも知れないけど、俺はそういう普通の付き合いがしたい。そういう事の出来る相手と付き合いたいんだ。彪芽にそれを望むのは無理だろう?だから……」
もう、彼を詰る気持ちは彪芽の中から消え失せていた。
そうかも知れないと思った。
恋人同士なら、そういう付き合いを望んで当然だろう。それは我侭だと、孝彰に言う事は彪芽には出来なかった。
彼の言葉通りだ。
自分はもう、普通に恋愛するのは無理なのだ。
岳斗が居る限り、2人きりで会うなんて事は出来無い。会ったとしても、岳斗が保育園に居る間の限られた時間の中でだけだ。
「俺達みたいな関係はさ、男女みたいに所構わずイチャイチャする訳にはいかない。だからこそ、2人の時間は楽しみたい。楽しめる付き合いがしたいんだよ…。分かって、もらえないかな…?」
彪芽は首を振った。
「いや…、分かるよ、おまえの言いたい事は…。うん、そうだよな。おまえの気持ち考えてやれなくて、悪かったよ…。ごめんな…」
彪芽の言葉を聞いて、孝彰は罪悪感を浮かべた。
「やだな。謝ってくれなくていいんだ。俺の我侭だって分かってる。おまえだって、好きでこんな生活をしてる訳じゃないし、仕方ない事なんだけどさ…」
「いや、俺の都合をおまえに押し付けてたと思うよ…」
言いながら、彪芽は遣る瀬無くて堪らなかった。
自分はこれから好きな相手も作れなくなるのだろうか。それでなくても難しい、同性相手の恋愛しか出来ないというのに。
だが、彪芽は何とか無理して笑顔を作った。
「別れよう…。今まで、ありがとな」
「彪芽…」
孝彰は彪芽の体に腕を回して抱き寄せた。
「ごめんな、ほんと…」
「いいよ、気にすんなって…」
彪芽は彼の背中を叩いてそう言ったが、本当はどうしていいのか分からないほど動揺していた。
孝彰に別れを告げられたショックだけではない。両親を亡くし、小さな弟を育てていく事だけに無我夢中で今まで深く考えなかった現実が、この出来事によって彼の前にいきなり姿を現したのだ。
自分にはもう殆ど自由がない。
岳斗が居る限り、自由は残っていないのだ。
最初に考えなければならないのは岳斗の事で、いつでも自分の事は二の次になる。恋愛だって勿論例外ではないのだ。
それに気がついてしまった事が、彪芽を大きく動揺させていた。
「しようか?彪芽」
「え?」
「暫く出来無いかも知れないだろ?俺、今夜は泊まってってもいいよ。明日、休みだし」
(最後の情けと言う訳か…)
そう思うと惨めな気がした。
「そんな気は遣わなくていいよ。俺は大丈夫だから」
「そうか?」
孝彰は少し眉を寄せる様にして彪芽の顔を見た。
「じゃあ俺、帰るよ?」
「うん。気をつけてな」
「うん…。じゃあな」
キスをしようとして孝彰は躊躇い、結局目を伏せて顔を背けると、そのまま帰って行った。