にんじんのお星さま

第2話 発熱とメロンゼリー


岳斗が熱を出して3日目、幼児用のアイソトニック飲料を飲ませた後、彪芽が熱を測ると幾らか下がっていた。
「8度2分か…」
少しホッとして彪芽は息をついた。
だが、まだ油断は出来ない。
どうやら保育園で流行っていたインフルエンザを貰ってしまったらしく、3日前の夕方から熱が上がり出した。
かかりつけの医院で検査してもらった所、インフルエンザと診断され薬を貰って帰って来たが、その頃には9度を超える熱に岳斗の身体は彪芽の背中でぐったりとしていた。
こんなに高い熱を出したのは彪芽が育てるようになって初めてのことだった。
しっかりしなければと思う反面、心細さに不安になる。心配で、昨日までは岳斗の傍を片時も離れられなかった。
だが、熱が下がってくると子供と言うのは驚くほど元気になるものだ。
8度ちょっと位の熱では、大人しく寝ているのも苦痛らしい。ごそごそと、居心地悪そうに布団の中で動き出し始めた。
「あーたん、ブロックー…」
「駄目、まだ寝てないと。またお熱が上がるよ?」
起き出そうとした岳斗を捕まえ、彪芽は布団の中に押し戻した。
「うーんと、じゃあ、電車…」
「だぁめ」
「うー……」
恨めしげに見上げられ、彪芽は苦笑すると弟の額に自分の額を押し当てた。
そうすると、まだ熱が高いのがはっきりと分かった。
「じゃあ、DVDかけてあげる。お魚のヤツ?」
「いやー。ねこさんのがいいのー」
「ああ、はいはい。分かったよ」
笑いながら立ち上がると、彪芽はテレビに近付いて台の下にあるDVDの電源を入れた。
「少し元気になってきたし、何か食べたいだろ?お粥作ってあげようか?」
すると、岳斗はプルプルと首を振った。
「じぇりーがいーい。ミドリのじぇりー」
「ミドリのゼリー?メロンのヤツ?」
前に100均の店で買って来て作ってやったことがある、お湯で溶かして冷やし固めるゼリーのことらしい。
「うんー、メロンのじぇりーでしゅ」
「ううーん…。それは、買って来ないと作れないなぁ…。お利巧にねんねして、お粥も食べたら、後で作ってあげる。ね?」
「んー…」
どうやら不満そうだったが、岳斗は頷くと水枕に頬をつけて横になった。その体制でテレビの画面を見つめている。
彪芽が台所に立とうとすると、玄関でチャイムが鳴った。
「はい?」
玄関に出て返事をすると椎名の声がした。
「彪芽君、大丈夫か?具合、悪いんじゃないの?」
「あ…、いえ…」
彪芽は急いで玄関のドアを開けた。
「今晩は…。俺じゃなくて、岳斗なんです。保育園で流行ってる…」
「インフルエンザ?」
彪芽が言い終わる前に、椎名は心配そうに眉を寄せてそう言った。
「ええ。でも、熱もやっと下がってきて…」
椎名はどうやら、会社帰りに直接寄ってくれたらしい。
毎朝、出勤時に保育園へ行く岳斗と彪芽に会うのに、この3日、姿を見ないので心配してくれたのだろう。
「そうか…。可哀想に」
「あ、どうぞ上がって下さい。寒かったでしょう?」
「岳斗、起きてるの?」
「ええ、熱が下がってきたら退屈らしくて、アニメを見てます。どうぞ…」
「じゃあ、ちょっとだけ…」
いつもは2階で寝ているのだが、彪芽が世話をするのに都合がいいように岳斗は居間に布団を敷いて寝ていた。
椎名は、居間に入ると膝を突いて岳斗の布団に近寄って行った。
「岳斗ー、大丈夫かー?」
「あー、パパー…」
椎名の姿を見ると、岳斗は嬉しそうに彼に向かって両手を出した。
保育園に背広姿で送り迎えをしている父親がいて、その子供が“パパ”と呼ぶ所為か、岳斗はいつもスーツ姿で会社に行く椎名を“パパ”と呼ぶようになってしまった。
椎名もまた、嫌がるでもなくそれを容認してしまったので、今ではすっかりその呼び方で定着してしまったのだ。
「ううーん…、お熱あるなぁ…」
岳斗の額に自分の額を押し付けて椎名は渋い声で言った。
だが、岳斗の方は嬉しそうにクスクスと笑っている。
「パパ、ほっぺ、冷たいでーしゅ…」
「あんまりくっつくと、うつりますよ」
後ろで見ていた彪芽が心配そうに言うと、椎名が振り返った。
「大丈夫だよ。俺、ここ何年も風邪ひとつひいたこと無いし…。彪芽君こそ、うつらないように気をつけないと」
「そうですね。俺が寝込んじゃったら、まさか岳斗に看病してもらう訳にもいかないですから…」
彪芽が笑うと、椎名も笑顔を見せた。
「その時は、俺が看病しに来るよ。大丈夫…」
いつも通りの温かい笑顔には、本当の気持ちが籠っていた。
多分、言葉通り、彪芽に何かあれば椎名は来てくれるに違いなかった。
こうして、椎名はいつも彪芽が安心するような言葉をくれる。彪芽は、それが嬉しくもあり、そして、少し切なくもあった。
1度だけ抱かれてくれたが、それ以来、2人の間には何も起こってはいない。相変わらず仲のいいお隣さん同士の付き合いだ。
毎朝、顔を合わせて分かれ道までの短い距離を歩き、そして時々、彪芽が家に呼んで一緒に夕食を食べたりする。
椎名が休みの日は、岳斗を公園へ連れて行ってくれたりすることもあったが、その他にはキスひとつ交わしてはいない。
だからこそ、彪芽には椎名の優しさが時々切ないことがあるのだ。
「椎名さん、飯は?」
「まだだけど、いいよ。すぐに帰るから」
「でも、俺も岳斗もまだなんで、ついでですから食べてってください。て言っても、しばらく買い物もしてないんで大したものも作れないけど…」
「悪いよ。彪芽君だって、岳斗の看病で疲れてるんだし…」
「大丈夫ですよ。チャーハンとかでよければ、どうぞ」
言いながら台所に入った彪芽を追いかけるようにして椎名もやって来た。
「ごめんな。なんだか、悪かったなぁ…」
「いいんですよ。ほんとに、大したものは出来ないんですから…」
「岳斗は食欲あるの?」
訊かれて彪芽は頷いた。
「熱が下がってきたんで、多分、少しは食べられるんじゃないかなと…。本人は緑のゼリーが食べたいって言うんですけど…」
 笑いながら言うと、椎名は首を傾げた。
「緑のゼリー?」
「ほら、ゼリーの素ってあるでしょ?赤とか緑のゼリーが出来る…」
「ああ。子供の頃、母親が作ってくれたなぁ…。あれ、今でもあるの」
懐かしいのか、椎名は少し嬉しそうな顔でそう言った。
「あるんですよ。前に1度、買ってきて作ってやったんですけど、急に思い出したのか、あれが食べたいらしくて…」
「じゃあ、俺が買ってくるよ。コンビニじゃ売ってないかな?」
「え?いいですよ。俺が明日にでも買ってきますから…」
彪芽が慌ててそう言うと、椎名は首を振った。
「でも、岳斗を1人置いて買い物も出来ないだろ?切れてるものがあったら、ついでに買ってくるから、遠慮しないで言いなよ。まだ、マーケットもやってる時間だし、行ってくるよ」
「済みません…」
本当に済まなそうに彪芽が言うと、椎名は笑って首を振った。
「いいって…。買ってくるもの、メモに書いてよ」
「はい」
彪芽は素直に椎名の厚意を受けることにした。
本当は、そろそろ冷蔵庫の中も怪しくなってきていたのだ。だが、椎名の言う通り、岳斗を1人残して買い物に出る訳にもいかない。だから、椎名の申し出は、心底有難かったのだ。
買い物のリストを書いた紙を渡すと、椎名はそれを見て頷き、出掛けて行った。
彪芽は、自分と椎名の為の食事と、岳斗のお粥を用意し始めた。
椎名は、彼への気持ちを告白した彪芽に、考えてくれると約束してくれた。
だが、あれから2ヶ月経っても、椎名はまだ何も言ってはくれない。
勿論、椎名は別れたくなかった恋人と已む無く別れた直後の事だったし、その気持ちの整理だってまだついてはいないだろう。
だからこそ、彪芽も彼の返事をただじっと待っているのだ。
だが、椎名に対する想いが日に日に強くなってくる彪芽にとって、この、ただ待っている時間は長くて切ないものだった。
本当は、傍に居れば抱きしめたい。
そして、抱きしめて欲しい。
岳斗が高熱に魘されている時も、心細くて何度も椎名に頼りたいと思ってしまった。
だが、それはしてはいけないと、自分に言い聞かせていたのだ。
必要以上に頼れば、椎名は自分への同情と心配から、本心を偽って受け入れる気もちになってしまうかも知れない。椎名の性格なら、それは有り得ないことではないと思う。
だが、それでは駄目なのだと、彪芽は思った。
向き合ってくれるなら、それは、椎名が本当に自分を必要とし求めてくれなければ意味が無い。そうでないなら、すぐに壊れてしまうような気がするからだ。
それでは嫌だった。
ずっと傍に居て欲しいのだ。
だからこそ、今は耐えるしかないと彪芽は思った。