にんじんのお星さま

第2話 発熱とメロンゼリー


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家に帰り、キッチンのテーブルの前に座ると、彪芽は両肘を突いてその手の上に額を預けた。
馬鹿なことをしたと思う。
勝手に自分を追い込み、勝手に辛くなって出て来てしまった。
椎名はきっと、自分を傷付けたと思って気にしているに違いなかった。
「椎名さんは、悪くないのにな……」
そう言うと、彪芽はホッと溜め息をついた。
自分が諦めれば、それで済むことだった。
ただのお隣さんとして、今まで通り付き合っていけばいい。そう出来れば、椎名だって余計な負担を背負い込む必要もないのだ。
自分の想いは間違いなく椎名を苦しめているだろうと、彪芽にも分かっていた。
だが、それが出来ない。諦める事がこんなにも難しくなってしまった。
それだけ、椎名を好きになってしまったからだ。
火の気の無い場所に長い事座っていた所為か、彪芽の身体はいつの間にか冷え切っていた。 ブルッと身体を震わせ、やっとその事に気付くと、彪芽は立ち上がってヒーターのスイッチを入れた。
だが、すぐに思い直して消してしまった。
どうせ学校は休んでしまったのだし、岳斗を迎えに行ってやろうと思ったのだ。
立ち上がると、彪芽はブルゾンを掴んで玄関へ向かった。


案の定、いつもより随分早く迎えに行った彩芽を見て岳斗は飛び上がって喜び、先生に言われる前からいそいそと帰る準備を始めた。
病み上がりなので、先生に様子を聞くと、何も心配はなかったという返事だった。
「いつも通り、みんなと元気に遊んでましたよ。もう、すっかりいいみたいですね」
担任の先生の言葉を聞いて、彪芽も安心して頷くと、岳斗を伴って保育園を後にした。
「あーたん、お買い物いくー?」
「お買い物?今日はいいよ。まだ買って来たばっかりだし…」
「じぇりーはぁ?赤いのと緑のはー?」
「ああ、そっか…」
言われて彪芽は苦笑すると、今岳斗がやったように、繋いだ手を振り返した。
「分かった。じゃあ、ゼリーを買って帰ろうね?」
「うんーッ」
元気良く答えると、岳斗はまた、嬉しそうにブンブンと繋いだ手を振った。
マーケットに寄って、ゼリーの素と岳斗のお菓子を買い、家に戻った。
帰るとすぐに岳斗の要求で彪芽はゼリーを作った。
2種類を両方いっぺんに作れと言うので、大き目の平たい四角い容器にそれぞれの液を全部流し入れた。この前のように1人分ずつ流すには容器が足りなかったからだ。
「おおきいーっ。大きいじぇりー」
喜ぶ岳斗を見て、彪芽は笑った。
「固まったら小さく切って食べるんだよ。これ全部、1人で食べちゃ駄目」
「んー…」
ちょっと残念そうな顔をしたが、岳斗は素直に頷いた。
「早くー、早くー」
冷蔵庫へ容器を仕舞う彪芽の後ろでピョンピョン飛跳ねながら、岳斗が歌うように言った。
「夜になったら食べられるよ。ご飯の後に食べようね?」
「うんー…」
嬉しそうに笑い、岳斗は頷いた。
「パパにもあげるー。ねー?」
今度作ったら椎名にも食べさせようと言ったのを、岳斗は忘れていなかったらしい。
「……パパね、お熱が出て寝てるんだ…。だから、今日は来られないんだよ」
「お熱…?岳斗みたいのー?」
「そう。岳斗とおんなじなんだ」
「うう……」
眉根に皺を寄せると、岳斗は居間の方へ走って行った。
彪芽が怪訝そうに首を伸ばすと、暫くして両手に何かを抱えて戻って来た。
「これ、持ってくー。パパに、“どうぞ”するー」
見ると、それは自分のお気に入りのDVDだった。
熱で起きられない間、自分がそれを見て暇を潰していたので、椎名にもと思ったのだろう。
「持って行っても見られないよ。眠ってるから、ね…?」
「うー…」
口を尖らせた岳斗を宥めるようにその頭を撫で、彪芽は言った。
「じゃあ、これ、俺と一緒に見ようか?ね?」
「うん。あーたん、見るねー?」
やっと笑顔になった岳斗に手を引かれ、彪芽は一緒に居間に入った。
自分達の事情など何も知らない岳斗の無邪気な言動にさえ、動揺してしまう自分が情けなかった。
多分、岳斗にも随分と強張った顔つきで喋っていたのでは無いかと思う。
本当にもう、すっぱりと諦めてしまう事が出来たら、どんなに心が軽くなるだろうか。
だが、椎名のことを思うだけで、その名前を聞くだけで、胸が詰まるほどの感情が吹き上がってくる。
それを、彪芽自身には、どうする事も出来ないのだった。



夜になり、夕食を済ませると、岳斗に急かされて彪芽はゼリーの容器を取り出し、固まったゼリーに包丁で賽の目に筋を入れた。
それを、赤と緑を合わせて、ガラスの器に入れる。
キラキラと輝く2色のゼリーが載ると、宝石のようで綺麗だった。
「わぁー…」
嬉しそうに目を輝かせ、岳斗は目の前に置かれたゼリーを見た。
「いただきまーしゅ」
スプーンを持ってそう言うと、岳斗はすぐにゼリーのキューブを一つ慎重に掬ってその上に乗せた。
「美味しい?」
訊かれて、口を動かしながら岳斗は嬉しそうに頷いた。
笑みを浮かべて彪芽が頷き返すと、また慎重にスプーンの上にひとつ乗せ、それをゆっくりと彪芽の方へ差し出した。
「あーたん、はーい…」
「ありがと」
そう言うと、彪芽は零れる前に急いでそれを口に入れた。
「赤いのも美味しいね?」
そう言うと、岳斗はまた嬉しそうに頷いた。
岳斗が食べ終えるのを待って風呂に入れると、いつものように彪芽は彼と一緒に布団の中に入った。
そして、とり止めの無い岳斗の話に耳を傾けた。
やがて、岳斗が眠りに付き、規則正しい寝息が聞こえ始めると、彪芽は再び階下に降りて台所に入った。
小さなホーローの鍋を出し、またお粥を炊く。多分、椎名は夕食を食べていないだろうと思ったのだ。
部屋の鍵が開いていたら、そっと中に入れてこようと思った。だが、開いていなかったら、チャイムを押さずに帰って来るつもりだった。
炊き上がったお粥を盆に載せ、気付いて冷蔵庫からゼリーの容器を出すと、それをさっき岳斗にしてやったようにガラスの器に入れた。
上からラップをして布巾を掛けると、玄関へ向かった。
夜の空気は思ったよりも冷たかった。
ブルッと震えると、片手でブルゾンの前を掻き合わせ、彪芽は隣のアパートの階段を上り始めた。
椎名の部屋は鍵が開いたままだった。
そっとノブを回してゆっくりと扉を引くと、部屋の中は灯りがついていなかった。だが、外廊下の灯りが窓から射し込んでいたので、何とか中の様子が分かった。
あのまま、椎名は眠ってしまったのかも知れない。
彪芽は、そっと玄関の中に入ると、靴を脱いで部屋の中へ入って行った。
音を立てないように盆をテーブルの上に置き、さっき持って来た土鍋が載った方の盆を手に取った。
椎名の方を、わざと見ないようにして、彪芽は足音を殺して玄関の方へ戻ろうとした。
「ありがとう…」
眠っているとばかり思った椎名の低い声が、闇の中に突然響いた。
ビクッとして足を止めたが、彪芽は椎名の方を振り返ろうとはしなかった。
「お大事に…」
それだけを言うと、彪芽は椎名の部屋を後にした。



気にはなったが、彪芽は翌日、椎名の部屋へは行かなかった。
余り甲斐甲斐しく面倒を見ても、椎名は迷惑だろうと思ったからだ。
椎名はまだ起きられないらしく、保育園へ行く途中でも出会わなかった。
翌日も、椎名の姿は見られず、彪芽は気になって家の縁側に出ては庭越しに彼のアパートの方を何度も見た。
熱が下がらないのだろうか。迷惑を承知で、もう一度様子を見に行ってみようか。
だが、踏ん切りがつかないまま、結局その日はアパートへは行けなかった。
翌日は不燃ゴミの日で、朝早くペットボトルや空き缶などを仕分けし、彪芽は外に出た。
すると、アパートの階段を椎名が下りてきた。
「あ…、お早うございます。もう、いいんですか?」
「お早う。お陰で、もう熱も下がったし、今日から出勤出来るよ。ありがとう」
「いえ。俺は何も…」
言いながらゴミの収集場所へ歩き出した彪芽に、椎名も肩を並べた。
彼も手に、ゴミの袋らしきものを持っている。何が入っているのか分からなかったが、結構大きな袋だった。
「彪芽君のお陰で助かった。…ホントに、ありがとな」
「いえ…。大したこと出来なくて…」
「あ…、ゼリー旨かったよ。後で、お粥の鍋と一緒に、器も返しに行くから」
「いつでもいいですよ。そんなの……」
ほんの少しの沈黙の後、椎名は持っていた袋を少し持ち上げた。
「剛の置いてった物……。捨てることにしたんだ」
その言葉に、彪芽の足が止まった。
「椎名さん……」
椎名も足を止めると、彪芽の方へ向き直った。
「そんな顔するなよ…」
椎名の口元には笑みが浮かんでいた。
「彪芽君の所為じゃ無い。もうとっくに、俺自身が切り捨てるべきことだったんだ…」
「……でも…」
まだ、剛は椎名の中にいる筈だった。
それを、無理に捨て去ろうとしているのではないだろうか。
そして、それは、椎名の自分への気遣いからではないのか。
「もう…、帰って来る筈も無い相手の物を、いつまでも未練たらしく部屋の中に置いておくべきじゃないよ…。そんな事は、もっと早くに気付かなきゃいけなかったんだ」
「…帰って、来るかも知れないですよ…」
「彪芽君……」
「俺の事なら、いいんです…。ほんとに…、いいんです……」
「そうじゃないよ」
腕を掴まれて、彪芽は顔を上げた。
「剛の物を処分するのは、純粋に俺自身の問題だ。そうしなければならないと分かっていた。そして…、やっとその決心が付いたんだ。それだけの事だよ」
椎名の目は穏やかで、そこに迷いがあるようには見えなかった。
彪芽は頷くと、黙ってまた椎名と一緒に歩き始めた。
椎名にとって、それがいいことなのかどうかは分からなかった。
さっき彪芽が言ったように、剛の方でも椎名を忘れられずに戻って来るかも知れない。
だが、それが悪い事だとは思っても、彪芽は剛の思い出を処分しようとしている椎名の行動が嬉しかった。
ほんの少しではあるが、また一歩、椎名に近付けたような気がしたからだ。
ゴミを分別してそれぞれの場所に置き、また2人で戻って来た。
その時、彪芽は不意に思い出して椎名に訊いた。
「椎名さん、野球やってるんですね」
「ああ、うん…。これでも高校球児でね。大学の時は野球部じゃなかったんだが、今の会社に入って何年かした時、野球好きが集まってチームを作ったんだ。土・日のどっちかは、大抵練習してるよ」
楽しそうに話す椎名に釣られ、彪芽も自然に笑顔になった。
「へえ?ポジションは、何処です?」
「セカンド。打順は5番」
「へえ、凄いじゃないですか。スラッガーなんですね」
「弱小チームだからね、自慢にもならないけど」
「でも、凄いですよ。クリーンナップを打てるなんて…」
彪芽がそう言うと、椎名は少し躊躇いがちに言った。
「今度の日曜に、練習試合があるんだ。…彪芽君、良かったら岳斗と一緒に見に来てくれないかな?」
「……いいんですか?」
「勿論。…帰りにまた、ファミレスでも行って昼飯食おうよ」
笑顔を向けられ、彪芽も嬉しそうに笑って頷いた。
「はい」



時間になり、岳斗を連れて表へ出ると、会社へ出勤する椎名とまた顔を合わせた。
「パパーッ」
嬉しそうに駆け寄って来た岳斗を抱き上げ、椎名は笑った。
「おはよう、岳斗。すっかり元気だなぁ」
「パパ、お熱はー?」
小さな手を、椎名の額に当てて岳斗は言った。
「うん、下がったよ。俺も、もう元気だ。岳斗のゼリーを食べたからなー」
「じぇりー?食べたのー?いつー?」
自分が知らない事なので、岳斗は不思議そうに訊いた。
「あーたんが持って来てくれたんだ。赤いのも緑のも旨かったよ。ありがとな」
下に下ろされて、岳斗は椎名の手を取って歩き出した。
「パパ、また作るー?」
「うん?そうだなぁ。また今度、俺が作ってやるよ」
「じゃあ、みんなで食べる。ねー?」
嬉しそうに振り返ってそう言った岳斗に戸惑っていると、椎名も振り返って彪芽を見た。
「そうだな。今度はみんなで食べような」
その笑みに、少しだけ胸を詰まらせながら彪芽は頷いた。
「うん。みんなで食べよう」
言いながら岳斗の空いている方の手を取り、椎名と並ぶ。
いつもの別れ道は目の前だったが、それでも並んで歩けるその短い距離が、彪芽にはとても幸福に思えた。