にんじんのお星さま
第2話 発熱とメロンゼリー
-3-
保育園に着いて岳斗を先生に預けると、彪芽は一旦家に帰った。
時間がある時は、大学に行くまでの間に家事を済ませるのが日課だった。
昨夜の内に干しておいた洗濯物を表へ出し、掃除をする。それから日によっては、夕食の下準備までしてから家を出るのだ。
今日は、午後からしか授業が無かったので、彪芽は掃除を済ませた後に夕食の準備をしてしまう事にした。
ハンバーグ用のひき肉を捏ねて形を作り、岳斗のリクエストだったマカロニサラダのマカロニと卵を茹でた。
入れると岳斗が嫌がるが、玉葱と胡瓜を薄くスライスして塩で揉み、それを水に晒して固く絞るとマカロニサラダの中に入れる。
それにハムを加えようとしてまな板の上に載せた時、彪芽はふと窓の外を見た。
台所の窓からは椎名のアパートの階段が見える、そこを、コートを着込んでマフラーで首を覆った 椎名が上っていくのが目に入った。
こんな時間に、どうして彼が居るのだろう。
そう思った途端に、彪芽は気付いた。
「移ったんだ……」
そう、岳斗のインフルエンザが移ったに違いなかった。
身体を抱えるようにしていたのは、熱の所為で悪寒がしていたからに違いない。
彪芽は慌てて手を洗うと、急いで玄関へ向かった。
靴を履くのももどかしく、外へ飛び出して隣のアパートの階段を駆け上ると、椎名は丁度部屋の鍵を開けて中へ入る所だった。
「椎名さんっ…」
声を掛けると、すぐに振り向いた。
そして、まるで悪戯を見つかった子供のように、椎名はばつの悪そうな顔で笑った。
熱の所為で椎名の顔は赤かった。
彪芽は彼に近寄るなり、その額に手を当てた。
(熱い……)
何日か前の岳斗と同じだった。
「A型だってさ」
笑いながら椎名は言った。
「岳斗と同じです…。済みません……」
彪芽が謝ると、笑みを浮かべたままで首を振った。
「彪芽君が謝る事なんか無いよ。俺が油断したのが悪い。自分の丈夫さを過信してたんだ。嗽くらいちゃんとするべきだったよ」
「でも…、俺が甘えたりしなければ…」
「大丈夫だよ。薬も貰ったし、すぐに直る」
「俺、氷枕とか持ってきます。待っててください…」
「いいって。……彪芽君…っ」
椎名の言葉も聞かず、彪芽はまた家に向かって走り出した。
彪芽が氷枕や氷、それに額に張る冷却シートなどを持って戻ると、椎名はドアの鍵を掛けずにいてくれた。
椎名の部屋は、中に入るとすぐにキッチンで、その奥に八畳くらいのフローリングの部屋があった。
その壁際にベッドが有り、椎名はもうそこに横になっていた。
「大丈夫ですか?熱は、何度くらいありました?」
「さっき病院で計ったら、9度3分だったかな…」
彪芽は頷くと、家から用意してきたタオルに氷枕を包み、それを椎名の頭の下に入れた。
それから、冷却シートのセロファンを剥がして椎名の額に張った。
「何か食べられそうですか?お粥、作ってきましょうか?」
そう言うと、椎名は首を振った。
「いいよ。本当に大丈夫…。彪芽君、学校だろ?俺の事はいいから、もう行った方がいい」
「いいえ。今日は休みます」
「駄目だよ、そんな…」
「いいえ…。今日は…、傍に居ます……」
彪芽は椎名の顔を見られなかった。
自分が傍に居る事を、椎名は望んでいないのかも知れないと思ったからだ。
だが、高熱を出して寝ている彼を、放ってなど置けない。例え、椎名が嫌でも、彪芽は彼の傍を離れるつもりは無かった。
だが、そんな彪芽の手を、椎名の手が握った。
ハッとして彪芽が見ると、いつもの穏やかな笑顔がそこにはあった。
「ありがとう…」
「…いえ……」
彪芽は首を振ると、自分も口元に笑みを浮かべた。
椎名が自分を拒絶しなかった事が嬉しかった。
あんなことがあっても、以前とまったく変わらない笑みをくれることが嬉しかった。
そして、弱っている彼の傍に、こうしていられることも、彪芽は嬉しいと思った。
「お粥、作ってきます。待っててください」
「うん…」
彪芽の手を握る椎名の手に少しだけ力が増した。
それが、信頼の証のように感じ、彪芽の胸がジンと熱くなった。
家に帰ると、彪芽はすぐに1人用の土鍋でお粥を焚き、それをお盆に載せて布巾をかけると、冷蔵庫からアイソトニック飲料のペットボトルを出して一緒に運んだ。
椎名は熱の所為でうとうとと眠っているようだった。
お粥の盆とペットボトルを小さなテーブルの上に載せ、彪芽は改めて椎名の部屋を見回した。
男の一人暮らしの部屋らしく少し殺風景だったが、それほど散らかっては居ない。
本棚の脇にキャビネットがあり、そこに野球のグローブが載っていた。
よく見ると、バットケースのようなものもあり、野球仲間らしいユニフォームを来た連中との写真も飾ってあった。
どうやら椎名は、草野球のチームに入っているらしかった。
(へえ…)
考えてみると、椎名の身体はスポーツをしている人の体つきだったし、よく日に焼けているのも今更ながらに頷けた。
写真立てを手に取って、彪芽はチームの中に椎名の姿を探した。
前列のほぼ中央で、椎名は楽しそうに白い歯を見せて笑っている。それを見ると、彪芽の口元にも自然に笑みが浮かんだ。
だが、棚の隅の方に小さなガラスの皿に載った腕時計を見つけると、彪芽の唇から笑みが消えた。
少々乱雑な棚の上にあって、その時計とガラスの皿の上だけには埃ひとつ無かった。
それは、いつも椎名がしている時計ではなかった。
いつもの時計は、さっきお盆を載せたテーブルの上に載っていた。
手に取って何気なく裏を見ると、そこには『to K.S from T.K』という文字が掘り込んであった。
K.Sは椎名和由だろう。
そして『T.K』は……。
「つよし……」
その後の苗字は知らなかった。
だが、Tは剛に間違いないだろう。
それは、椎名の別れた恋人の名前だった。
自分と別れてアメリカへ行ってしまった恋人からのプレゼントを、椎名はまだこうして大切にしているのだ。
そう思うと、途端に彪芽の胸が苦しくなった。
2ヶ月経った今も、『つよし』は椎名の心から少しも消えてはいないのだ。
(俺が、入れる訳なんか無い筈だよな…・)
3年間も、椎名は剛を愛し続けていたのだ。彼がアメリカへ旅立たなければ、きっと今もその愛は彼に注がれ続けていた筈だった。
身体ばかりが近くにいても、その人の傍にいる事にはならないのだと彪芽は思った。
今でもきっと、椎名の1番近くに居るのは自分ではなくて剛なのだろう。
そう思うと、辛くて堪らなくなり、彪芽は時計を元に戻すと、椎名を起こさないようにそっと部屋を出て行った。
だが、ドアの外で、彪芽は足を止めた。
今日は彼の傍に居ると約束した。
そして、彼もそれを許してくれたのだ。
だったら何があっても、今日は彼の傍に居るべきだろう。自分の感情など、割り込ませるべきでは無い。
グッと胸を押さえて、大きく息を吐くと、彪芽は踵を返して再び部屋の中へ戻った。
すると、今度はその気配に椎名が目を覚ました。
「あ…、済みません。起こしちゃいましたか?」
「いや…、喉が渇いて…」
「あ、ちょっと待ってください…」
彪芽はそう言うとキッチンの食器棚からグラスを取り、部屋に戻った。
持って来たアイソトニック飲料を、グラスに注いで渡してやると、椎名はすぐにそれを飲み干した。
「もっと飲みますか?」
「うん…」
薬が効いてきたのか、椎名は随分汗を掻いているようだった。
彪芽は、飲み物を注いで渡すと、クローゼットの方を見た。
「着替えた方がいいですよ。俺が出しても良ければ…」
「あ、悪いね。引き出しの2番目に、下着とパジャマが入ってるんだ」
「はい」
彪芽は立ち上がると言われた通りに2番目の引き出しを開けた。
すると、そこには2種類の下着が入っていた。
トランクスとカラーブリーフ。
少し乱雑に重ねられているトランクスに比べ、ブリーフの方は丁寧に畳まれて順番に並んでいた。
彪芽にはすぐにその意味が分かった。
勿論、全部が椎名の下着の訳が無い。
そして、どちらが椎名のものなのか聞かなくても分かってしまった。
彪芽は一番上にあったトランクスとランニングシャツ、それにパジャマを一組ずつ取り出して引き出しを閉めた。
「はい、どうぞ…」
平静を装い、彪芽は椎名にそれを差し出した。
「ありがとう」
椎名は起き上がってパジャマのボタンに手を掛けた。
「お粥、作ってきたんですよ。食べられますか?」
「あ、うん…。ちょっとなら…」
「じゃあ、今、温め直しますね」
土鍋を持って立ち上がると、彪芽はキッチンへ逃げ込んだ。
剛が旅立って2ヶ月。
椎名はまだ、彼の下着さえ捨てられずにいるのだ。
それを、知りたくは無かったと彪芽は思った。
土鍋をコンロに掛け、取り分ける茶碗を探して食器棚を見ると、そこにも彪芽の見たくなかった現実があった。
さっきは気付かなかった。2つずつ並んだ食器類。
この部屋のそこらじゅう全部に、剛の影は残っていた。
茶碗をひとつ取り出し、それから箸も一膳出して盆に並べると、温めた土鍋を一緒に載せた。
それを持って戻ると、椎名はすっかり着替えを終えてベッドの上に座っていた。
「お待たせ…」
無理に笑い、彪芽は盆をテーブルの上に置いた。
すると、椎名が何かに気付いて盆の上を見た。
「あ、その茶碗、俺のじゃ……」
言いかけてハッとし、急いで口を噤む。
そんな椎名を見るのが、彪芽は辛かった。
「あ、間違ってましたか?済みません…」
「あ、いや、いいよ。……いいんだ…」
立ち上がりかけた彪芽に、椎名は急いで言った。
だが、彪芽は構わずに茶碗を持って立ち上がった。
すぐにキッチンへ戻り、食器棚を開けて茶碗を取り替える。そして、それを持って椎名の下へ戻った。
無言で、自分を見ている椎名に、やはり何も言わず、彪芽はお粥を茶碗によそうと、それを差し出した。
「熱いですよ。……気をつけて」
茶碗と箸を受取り、椎名は薄っすらと笑った。
「ありがとう…」
「……食べたら、薬飲むんでしょう?」
平静を装うことがこんなにも辛いとは思わなかった。彪芽は目を逸らす口実にそう言って、テーブルの上の薬の袋を手に取った。
「彪芽君……、ごめんな…」
突然、椎名がそう言った。
ビクンと、袋を持つ彪芽の指先が震えた。
「…はっ…。なんで…謝ったりするんです…?」
無理に笑ってそう言ったが、彪芽は薬の袋から視線を動かすことが出来なかった。
「無神経だった…。済まない……」
彪芽は一瞬目を瞑りそうになるのを堪えた。
気を遣われると、余計に辛くなる。
自分が剛の影を気にしている事を、椎名に気付かれている事実が酷く心を痛めつけた。
だが、彪芽はすべてを振り払うようにして心の中で勢いをつけると、顔を上げて椎名を見た。
「謝る必要なんかないです。全部、俺が勝手にやってる事なんですから…」
そうだ。
椎名を好きになったのも、こうして傍に居たいと願っているのも、全部、自分が勝手にそう思っているだけだ。
考えてくれると椎名は言ったが、その結果が自分にとって望んだ通りになるとは限らない。
そんな保証など何処にもありはしないのだ。
「あ、この前のゼリーね、岳斗のヤツ、すごく喜んでたんですよ。パパのゼリーって言って……」
話題を変えようとして、彪芽は無理に笑って話し出した。
「また食べたいって言うから、作ってやるって約束したんです。そしたら、今度は赤いのと緑のと両方がいいって……。作ったら、椎名さんにも持ってきますね」
「うん…」
椎名も笑みを見せて頷いたが、何処か辛そうな表情だった。
「俺にも1個だけくれたんですけど、結構旨かったですよ。岳斗が、今度はパパにも食べさせたいって、そう言って……」
「彪芽君……」
不意に、椎名に腕を掴まれて彪芽はハッと我に返った。
見ると、持っていた薬の袋を力一杯握り締めていた。
「す、すみませ……」
慌てて膝の上に置き、ぐしゃぐしゃになった袋の皺を手で伸ばした。
その上に、ポタッと涙が落ちて染みを作った。
それを見た途端、彪芽の中で何かがグッと込み上げてきた。
「やっぱ……、帰ります…」
顔を上げられぬままにそう言い、彪芽は立ち上がった。
椎名は何も言わなかった。
彪芽も彼を見る事も無く、黙って部屋を後にした。