にんじんのお星さま

第2話 発熱とメロンゼリー


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チャーハンと卵スープ、簡単なサラダ、そして岳斗のお粥が出来上がる頃、ちょうど椎名が帰って来た。
椎名はすぐに、買い物袋の中からゼリーの箱を取り出して彪芽に見せた。
「これでいいんだよね?」
「そうそう、これです。ありがとうございました」
「お粥、出来たの?だったら先に食べさせちゃいなよ。その間に、俺がコレ、作っといてやるから…」
「え?いいですよ、そんな…。後で俺が作りますから」
彪芽がそう言うと椎名は笑いながら箱を振った。
「裏書読んだら簡単そうだからさ。コレなら俺にも出来るよ。大丈夫」
そう言われて、彪芽も口元を緩めた。
「済みません…。じゃあ…」
食器棚の中から、ちょうどいい位の器を選び、彪芽はテーブルの上に並べた。それから、計量カップとボール、そして泡立て器を椎名の前に置いた。
「ようしッ」
妙に気合を入れてそう言うと、椎名はコートを脱いで流しで手を洗った。
それを見て少し笑うと、彪芽はお粥の鍋と茶碗を載せたお盆を持って岳斗の寝ている居間に入った。
「岳斗―、お粥食べよう」
「はいー」
返事をすると、岳斗はすぐに起き上がった。
「椎名さんがね、メロンのゼリー買ってきてくれたよ。今、作ってくれるって。良かったねー?」
「パパ、作るのー?出来るのー?」
いつも食事もお菓子も彪芽が作るものだと思っている岳斗は、彪芽の言葉にかなり驚いたらしかった。
「出来るよ。上手に作ってくれるから大丈夫だよ」
ちょっと吹き出しそうになりながら彪芽は言った。
「うんー。じぇりー、食べたいでしゅー」
嬉しそうにそう言うと、岳斗は首を伸ばして台所の方を見た。
「はい。だから、ちゃんとお粥も食べような?」
スプーンですくって、ふぅふぅと吹いてから差し出すと、岳斗は少し神妙な顔付きで口を開いた。
こんなトロトロしているご飯を食べた記憶が無いからだろう。
もしかしたら、離乳食以来初めてなのかも知れなかった。
「うんと…、フリカケかける?」
余り味がしないので美味しくないのだろう。一口食べると、岳斗は彪芽にそう訊いた。
「駄目。我慢してこのまま食べなさい。もうちょっと元気になったら卵を入れたお粥を作ってあげるから」
「うんー……」
仕方無さそうに頷き、岳斗は差し出され2匙目を口の中に入れた。
だが、何とか茶碗一杯のお粥を食べさせると、彪芽は岳斗をまた布団の中に入れた。
台所に戻ると、ゼリーはもう出来上がって冷蔵庫の中に入っていた。
洗い物をしてくれている椎名に、彪芽は慌てて近寄った。
「椎名さん、いいですよ、そんなこと…」
「いいって、もう終わるし…」
「済みません。ご飯、すぐに暖めますから…」
「うん。さっきからいい匂いがしてて、もう腹が鳴りっぱなしで…」
そう言って笑った椎名に、彪芽も笑みを返すとスープの鍋に火を入れた。
「明日の土曜、暇だからさ、岳斗のこと見ててやるよ。彪芽君、買い物とか用事があったら済ませてきなよ」
「いいんですか?助かります」
さっき椎名に頼んだのは必要最低限の買い物だったので、本当は自分で買出しに行きたいと思っていたのだ。
遠慮せずに申し出を受け頭を下げようとすると、椎名は笑って遮った。
「いいよ、そんな。いっつも飯食わしてもらってんのに、これくらい当然だって」
だが彪芽は、もう一度椎名に頭を下げた。
椎名がいてくれる事が、本当に今の自分にとってどれ程支えになっているか知れない。だから時折、自分の彼に対する気持ちは、単なる甘えなのかも知れないと思ったりもするのだった。
だが、すぐにそうじゃ無いと思い直す。
ただ甘えたいだけなら、こんなにも欲しいと思ったりはしないだろう。
食事を終え、椎名は彪芽が風呂に入る間、岳斗を見ていてくれた。
それから、明日また来ると言って帰って行った。
「じゃあ、おやすみ」
「はい…、おやすみなさい…」
その後に、本当は続けたかった言葉があった。
(泊まってくれたら、嬉しいです……)
椎名を玄関で見送りながら、彪芽は口に出して言えない想いを、そっと心の中で呟いた。



翌日の午後、約束通り椎名が来てくれた。
岳斗の熱も昨日よりも下がって37度台になっていたし、峠は越えたらしい。彪芽は椎名に後を頼んで買い物に出掛けることにした。
レンタルショップへ行って、岳斗に頼まれていた子供用のDVDを借り、本屋へ行って自分の本を数冊買った。
それから、マーケットへ行き、3日分くらいの食糧を買い込んできた。
買い物を全部終えてやっと家に帰ると、岳斗は眠っていた。
そして、岳斗の寝顔に眠気を誘われたのか、その隣に横になって椎名もまた眠っていた。
そんな微笑ましい2人の姿に笑みを浮かべると、彪芽は荷物を持って台所に入った。
冷蔵庫に食料を仕舞い、居間に戻ってそっと膝をつく。
そのままにじり寄って、椎名の穏やかな寝顔を見つめた。
その途端に、じわっ、と、暖かいものが込み上げてくるのが分かった。
朝、目覚めた時、この寝顔がいつも傍にあったらいいと思った。そんな関係に、この人と、いつかなれる日が来たらいい。
いつでも手の届く場所に、この人が居てくれたら、どんなに幸せだろうか。
暫くの間、躊躇っていたが、彪芽は思い切って顔を近づけると、椎名の唇にそっと唇を合わせた。
だが、途端に、後悔する。
自分の卑怯さが、堪らなく嫌だった。
そして、もう一つ、後悔しなければならない理由があった。
彪芽は急いで立ち上がると、逃げるようにして2階に上り、自分の部屋に入った。
すぐに、ベッドに腰を下ろしてファスナーを下ろす。
ただ唇に触れただけで、彪芽の椎名への欲望は自制できないほどに膨らんでしまったのだ。
「く……」
小さく声を上げてそれを掴んだ時、開け放したままだった戸口に椎名が立った。
「彪芽君…?」
ギクリとして、慌てて股間を覆ったが間に合わなかった。
それに気付いた椎名が、一瞬の躊躇いの後に部屋の中へ入って来た。
「彪芽君……」
多分、キスされたことに気付き、椎名は逃げて行った彪芽を心配して後を追ってきたのだろう。まさか、彪芽の逃げた理由がこんなことだとは思いもしなかったのだ。
だが、咎めるでもなく、蔑むでもなく、ただ黙って、彪芽の前に膝を突き、椎名は手を伸ばした。
「…止めて下さいッ…」
股間をギュッと押さえ、彪芽は叫んだ。
「でも…」
「嫌だ…。嫌です……っ」
こんな同情のされ方は、余りにも惨めだと彪芽は思った。
それが単なる優しさでも、掛けて欲しいとは思わない。
「止めて……下さい…」
身体を折り曲げるようにして小さく縮こまると、彪芽は絞り出すようにそう言った。
「……ごめん……」
低い声で呟き、椎名は立ち上がると部屋を出て行った。
「う……」
やがて、少しも動こうとしなかった彪芽の唇から、低い嗚咽が聞こえてきた。



翌日になると、岳斗の熱もほぼ平熱にまで下がっていた。
食事も普通に取れるようになったし、彪芽はやっと安心して胸を撫で下ろした。
だが、彪芽の心が完全に晴れる事は無かった。
勿論それは、椎名とのあの一件があった所為だった。
きっと、椎名は自分を軽蔑しただろう。
盗むように眠っている椎名の唇に触れ、そして、それだけで欲情し自慰によってそれを晴らそうとしたのだ。
椎名にとって、そんな彪芽の行為は気分の悪いことだったに違いない。
その上、可哀想に思って慰めてくれようとした椎名を、まるで悪者のように追い払った。 もうきっと、軽蔑して嫌われただろうと彪芽は思った。
だがあの時、椎名の手を借りるのはどうしても嫌だった。
余りにも惨め過ぎて、耐えられなかったのだ。
椎名が自分を欲してそうしてくれるなら嬉しい。でも、ただの同情で与えられる行為は虚しいだけだった。
フッと溜め息をついた彪芽の袖を、下から岳斗が引っ張った。
「あーたん、パパのじぇりー、あるー?」
椎名が作ってくれたゼリーを、岳斗は“パパのゼリー”と呼んだ。
固まるのを待って、翌朝ひとつ食べ、その夜にももうひとつ食べた。だから、後3つ残っている筈だった。
彪芽は笑みを見せて頷いた。
「あるよ。食べたいの?」
「うんー。あーたんも食べようかー?」
「へえ?俺も食べていいの?」
訊くと、岳斗は大きく頷いた。
「うんー。1個だけ、いいのー」
「ありがと」
彪芽は小さなガラスの器に流した緑色のゼリーを冷蔵庫の中から2つ出して食卓テーブルの上に置いた。
スプーンを出してやると、岳斗はすぐに透明なゼリーの中にそれを差し入れた。
彪芽も掬って、フルッと震えて光る緑色のゼリーを口の中に入れた。
ゼリーは何だか、やけに懐かしい味がした。
「美味しいね…、パパのゼリー…」
彪芽が言うと、岳斗は嬉しそうに頷いた。
「パパ、また作ってくれるー?」
訊かれて、彪芽は口篭った。
もう、椎名が家に来てくれる事は無いかも知れない。だが、それを岳斗にどう説明していいか分からなかった。
「どうかな……。パパは、お仕事で忙しいからね…」
言った途端に辛くなり、彪芽は片手で目を覆うと下を向いた。
「あーたん…?」
心配そうに身を乗り出した岳斗に気付き、彪芽は慌てて顔を上げた。
「なんでもないよ。…今度は、俺が作ってあげるよ。また緑がいい?それとも、今度は赤いのにしようか?」
「うんとねー、赤いのと、緑のー」
「ははは…、欲張りだなぁ。分かった、じゃあ両方作ろうな」
「うんー。今度は、パパも食べるねー」
無邪気にそう言った岳斗に、彪芽は頷いてやる事が出来なかった。
彪芽が作ったゼリーは、きっと、椎名の口に入ることは無いだろう。その事実が無性に悲しくて、彪芽は例え嘘でも、岳斗に“うん”とは言えなかった。



その夜も、岳斗の熱は上がらず、翌朝になっても変化は無かった。
どうやら、保育園に連れて行っても大丈夫そうだと思い、彪芽は岳斗に仕度をさせると、いつもの時間に外へ出た。
だが、会う筈の椎名の姿はそこには無かった。
彪芽にしてみればかなりの勇気を振り絞って外へ出たのだが、何だか少し気が抜けたような気持ちになった。
多分、避けられたのだろうと彪芽は思った。
予測していなかった訳ではなかったが、やはり悲しかった。
顔を合わせたら謝ろうと思っていた。
だが、もうきっと、椎名は自分の顔を見るのも嫌になったのだろう。
「仕方ないよな……」
思わず呟き、自嘲気味に笑うと、岳斗が不思議そうに彪芽を見上げた。
「なーにー?」
「ううん…。なんでもない」
「あーたん、パパはー?」
過ぎてしまった椎名のアパートを振り返り、岳斗は訊いた。
毎朝、顔を合わせる椎名が降りて来ないので不思議がっているのだろう。
「もう、行っちゃったんだよ。岳斗も、急いで行こう。先生も待ってるよ」
必要以上に強く岳斗の手を握り、彪芽はそう言った。
「あぁのちゃんも、待ってるー?」
「待ってるよ」
「みのいちゃんもー?」
「うん、みのりちゃんも」
「うんとー、はぁかちゃんもー?」
「うん…」
果てしなく続いていく岳斗の問いに答えながら、彪芽は椎名の事を胸の中から追い出そうとしていた。
だが、躍起になればなるほど、椎名のことばかりが浮かんできてしまうのだった。