にんじんのお星さま
第3話 嫉妬と苺のジャム
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初打ちは歩いて20分ほどのグラウンドで9時からだと聞いていたので、翌朝彪芽は、支度をして8時40分に家を出た。
椎名は準備もあるので、もう少し早く行った筈だった。
一緒に出ても良かったのだが、他のメンバーの手前、彪芽はやはり少し気が引けてしまった。
別々に行って様子を見て、それから挨拶するかどうか決めるつもりだった。
自分が入っていけるような雰囲気だったら良し、そうでなければ、やはりこっそりと帰って来ようと考えていた。
椎名が誘ってくれたのは嬉しいが、迷惑になるようなことは絶対にしたく無い。自分の所為で、椎名が少しでも嫌な思いをすることになっては困る。
昼に餅を食べると聞いていたので、昨夜、胡瓜と大根の浅漬けを作った。渡せるかどうか分からなかったが、彪芽はそれが入ったタッパーをレジ袋に入れると、岳斗のお菓子とジュースと一緒に鞄の中へ仕舞った。
斜めに鞄を背負い、彪芽は岳斗を促すと家の外へ出た。
途中、疲れてしまった岳斗を抱き上げて歌を歌いながらグラウンドまで行くと、着く手前から椎名たちの声が響いて聞こえてきた。
先ず、柵の外から彪芽はグラウンドの様子を見た。
椎名たちはグラウンドの整備を終え、準備運動なども済ませたらしく、グラウンドに散っているメンバーたちに、1人がノックして捕球練習をしていた。
「パパはぁー?あーたん、パパ、どこぉ?」
グラウンドに居る選手たちが見えると、柵から身を乗り出すようにして岳斗は椎名を探し始めた。
「うーんとね…」
椎名は確かセカンドを守っていた筈だと思い、彪芽は内野の選手に目を走らせた。
「あ、ほら、あそこ。あっ、今、ボール捕ったよ」
彪芽が指を刺すと、岳斗はその方向を見て歓声を上げた。
ベンチの中を見ると、選手の家族らしい人が集まっていて、楽しげに話しをしている。彪芽はまだ躊躇って、近付こうとはしなかった。
このままここで、練習だけ見て帰ろうかと思った。
選手の家族同士も試合やイベントの度に顔を合わせていて、多分、普段から仲良く付き合っているのだろう。和気藹々としたあの中に入って行くのは、やはり気が引けてしまう。
それでも、親戚でもあるなら、椎名の身内として挨拶して入って行くのも難しくは無い。だが、ただのお隣さんが初対面の人たちの間に、紹介もされずに入って行くのは図々し過ぎるだろう。
岳斗は、ボールを追う選手たちの姿が珍しいのか、はしゃぎながら声援を送ったりしている。ここでも十分に楽しそうだし、彪芽も椎名の機敏な動きを見ているだけで嬉しかった。
(良く動くなぁ…。カッコいい…)
ボールを取ってスローイングする姿を見て彪芽は心の中でそう呟くと、思わず笑みを浮かべてしまった。
「岳斗もぉー。岳斗もポール、ポーンてしたいー」
選手たちの動きを見て、岳斗も興奮してきたらしくそう言って彪芽のマフラーを掴んだ。
「駄目だよ。今日はね、ほら、椎名さんみたいにユニフォーム着てる人しかここには入れないの」
「うー?ふぉーむ…?」
知らない言葉を聞いて、岳斗は不思議そうな顔で聞き返した。
「うん、ユニフォーム。みんなが着てるだろ?あのお洋服の人だけしか駄目なんだって」
「うーん…。いいなぁ、パパ…。岳斗もボールしゅきなーにぃー」
そう言って唇を尖らせると、岳斗はまたグラウンドの椎名の方に目をやった。
すると、こんな離れた場所に居るのにちゃんと気付いてくれたらしく、椎名がこちらに向かって手を振った。
「あーっ、パパーァ。パパーッ」
岳斗も喜んで、椎名に向かってブンブンと手を振った。
すると、椎名が手を振ったのに気付いたのか、センターに居た選手が前屈みになっていた姿勢を起こして此方を向いた。
どうやら、マーケットで出合ったあの彼らしい。
彪芽は見えないかも知れないとは思ったが、一応、彼に対して頭を下げた。
すると、どうやら、彪芽が頭を下げたことに気付いたらしく、向こうも軽く帽子のつばに手をやった。
椎名は、ノックをしている選手に合図をすると、彪芽たちの方へ向かって走って来た。
椎名が近付いて来てくれたのが嬉しかったらしく、岳斗は大声で何度も”パパ”と呼び続けた。
「岳斗―、良く来たなー」
白い息を吐きながら、椎名がそう言って岳斗に手を伸ばした。すると、岳斗は喜んで椎名の方へ両手を出して身を乗り出した。
「あっ、こら駄目だよ、岳斗」
「いやー、パパ行くのぉー」
慌てて彪芽が抱き直そうとすると、岳斗は身体を突っ張って椎名の方へ行こうとした。
「駄目ってば。椎名さんはまだ練習があるの」
少々きつい声で彪芽が言うと、椎名は笑いながら岳斗をその腕の中から抱き取った。
「いいって、彪芽君。こんなところに居ないでベンチの方で見てたらいいよ。みんなあっちにいるし、ここよりは囲いがある分、少しは暖かいから」
「い、いえ、でも…」
彪芽が岳斗を取り戻そうとすると、椎名は岳斗と一緒にフェンスの前を歩き始めた。
「おいでよ、彪芽君。みんなに紹介するから」
「い、いえっ…、椎名さん…ッ」
慌てて彪芽が後を追いかけたが、椎名は岳斗と何か話しながらどんどん歩いて行ってしまった。
フェンスの内側と外側を歩きながら、彪芽たちは家族達が居るベンチの方へ向かって行った。
「あれぇ、椎名さん、何時の間に子供が出来たん?」
誰かの奥さんらしき陽気そうな女性が、椎名が岳斗を抱いて近付いて来るのを見つけて声を掛けた。
彪芽は慌ててフェンスの入り口を開けると、小走りに椎名に近付いた。
「済みません。岳斗、こっちおいで…」
誰にともなく謝って、彪芽が抱き上げようとすると、岳斗は嫌々と首を振って椎名の首にしがみついた。
「いやーっ。パパがいいのー」
その言葉を聞いて彪芽は青くなったが、その場に居た他の人たちは可笑しそうに笑った。
「パパやて。やっぱり、パパなんや?椎名さん」
どうやら関西方面の人なのか、さっきの女性がそう言って笑った。
「可愛いねえ。お名前は?」
他の奥さんが子供を連れて近付いて来て、岳斗にそう訊いた。
「たきじゃわ 岳斗でしゅ」
回らない口で、だが、大きな声ではきはきと答えた岳斗にそこに居たみんなから歓声のような声が上がった。
「お利口だねぇ」
「可愛いー」
口々に褒められ、岳斗は嬉しそうにニコニコした。
「一緒に遊ぼう?」
岳斗より3つか4つ大きい、多分、小学校1年か2年ぐらいの女の子が近付いて来て、岳斗の手を取って言った。
「はい。遊びましゅー」
嬉しそうに答えた岳斗を下に下ろすと、椎名は彪芽の背中に手を当ててみんなの方へ押し出すようにした。
「俺の隣に住んでる滝沢彪芽君。岳斗は弟さんで、彼が1人で育ててるんです。俺も色々お世話になってるんですよ」
「あ…っ。滝沢です。お世話になってるのは俺の方です。今日は椎名さんの言葉に甘えてお邪魔しました」
彪芽が慌てて頭を下げると、みんなも頭を下げ、口々に自己紹介を始めた。
さっき、1番先に言葉を掛けてくれた関西弁の女性が、キャプテンの吉野の奥さんだった。
「男前やねえ。1人で育ててるって、お幾つなん?」
「あ、20歳です」
「働いてはるん?」
「いえ…。両親が残してくれた蓄えがあるので、大学は辞めませんでした。岳斗は俺が学校へ行っている間は保育園へ行かせてるので…」
「そう。偉いなぁ…。ウチの長男にも爪の垢煎じて飲ましたいわ」
気さくな吉野夫人に引き込まれ、彪芽はいつの間にかみんなの中に入っていた。
気が付くと、椎名は練習に戻ったらしく、もうそこには居かった。
「もうすぐ、お餅と豚汁が来るから、そしたら餅を小さくして餡子や黄な粉にまぶして食べるんよ。あ、今年は海苔と醤油も持って来てるし、磯部も出来るんやったわ」
それを聞いて、彪芽は思い出すと担いでいたバッグを下ろした。
「美味しいかどうか分かりませんけど、浅漬けを作ってきたんで、良かったら皆さんでどうぞ」
「わぁ、嬉しいわぁ。ありがとねえ」
男の子なのに偉いとか、気が利くとか、奥さん連中に感心されて、彪芽はすっかり照れてしまった。
保育園の先生やお母さんたちにも親切にしてもらっているが、初対面とは思えないぐらいチームの奥さんたちは気さくだった。
お菓子や温かいコーヒーを貰い、ベンチに座るように勧められて、彪芽は奥さんたちと並んで椎名たちの練習風景を眺めた。
やがて、11時を過ぎた頃になると軽のワゴンがやって来て、餅や豚汁の大なべを運んできた。
彪芽は手伝って荷物を降ろすと、次はみんなと一緒に餅の準備を始めた。
岳斗はチームの家族の子供たちが一緒に遊んでくれているので心配はなかった。
奥さん連中は餅を丸める彪芽の手際の良さに感心して、料理の事を色々と聞いて来た。
全部自分が作っているのだと言うと、みんなにまた感心されてしまった。
「母が早くに亡くなったんで、ずっと父と分担して家事をやってたんです。料理は殆ど俺が担当してたので、段々出来るようになってしまって」
「そうなん?けど、大変やねえ…。あんな小さい弟、1人で育てるやなんて」
「ええ…、最初は戸惑いましたけど、でも、もう慣れました」
そんな話をしながら、どんどん餅が出来てきた。
やがて、椎名たちも練習を終えて片づけを始め、彪芽は手を洗わせる為に岳斗を連れて一旦フェンスの外へ出ると手洗い場へ向かった。
すると、後から来た棚田に声を掛けられた。
「滝沢君…?」
「あ、はい…。この前は失礼しました」
「いえ、こちらこそ」
棚田はそう言って軽く頭を下げたが、その表情は硬かった。
彪芽はその表情に何か嫌な感じがして胸騒ぎを覚えた。
「ちょっと、いいですか?」
年下の彪芽に対しても棚田は言葉を崩さなかった。それが却って余所余所しく、彪芽を警戒させた。
「はい。何でしょうか?」
答えた彪芽を促し、棚田は建物の後ろへ誘った。
「椎名先輩のお隣さんだそうですね?」
「ええ…、そうですが…」
警戒しながら彪芽が答えると、棚田は彪芽の腕の中の岳斗にチラリと目をやってから、また視線を戻した。
「俺は椎名先輩とは会社も部署も一緒で、先輩の性格は良く分かってるつもりです。だからこそ、君のやり方は許せない」
「やり方…?」
腹立たしげに言った棚田の言葉の意味が分からず、彪芽は眉を顰めた。
「先輩は優しい人です。だから、身近に気の毒な人間が居れば放って置ける訳がない。それに付け込むようなやり方は卑怯だと思いませんか?」
「あ、あの…」
少しずつ、棚田の言いたい事が分かってきた。そして、彪芽は顔を強張らせた。
「自分が先輩の気を引きたいからって、そんな小さな子を出汁に使うなんて…。しかも、パパなんて呼ばせて…」
苦々しげに棚田が言った。
彪芽は言い訳しようとして開いた口を、何も言わずに、結局閉じてしまった。
すると、彪芽の腕の中で岳斗が急に“ワーッ”と大声で泣き出した。
吃驚して彪芽が抱き直すと、岳斗は彪芽の首にしがみついてきた。
「帰るーッ。あーたーんッ、帰るーっ、帰るーッ」
「が、岳斗…っ」
彪芽があやそうとして岳斗の身体を揺すり始めた時、泣き声を聞きつけたらしく椎名が姿を現した。
「どうした?岳斗…」
岳斗を抱いた彪芽に近づきながら、椎名は怪訝そうな顔で傍に立っていた棚田を見た。
棚田が強張った顔で視線を外すと、椎名は彼に何か言おうと口を開いた。
「椎名さん…」
椎名が言葉を発する前に、彪芽は彼に呼び掛けた。
「済みません。岳斗、眠くなったみたいで…。折角ですけど、今日は帰ります。どうか、皆さんに宜しく言ってください」
早口でそう言うと、彪芽は椎名と棚田に軽く頭を下げながら小走りにベンチへ向かった。
「彪芽君ッ…」
椎名が後ろから呼びかけたが、彪芽は振り向かなかった。
そのまま、ベンチへ戻ると奥さんたちにさっきと同じ言い訳をして、荷物を持ってその場を去った。
「ごめんな?岳斗、ごめん…。もう泣くな…。泣くなよ」
岳斗をあやしてそう言いながら、彪芽は自分に向かっても言い聞かせていた。
多分、棚田は椎名を好きなのだろう。だからこそ、彪芽の気持ちにすぐに気付いたのだ。
そして、彪芽は彼に言い訳出来なかった。
何故なら、椎名が岳斗を可愛がってくれるのを、自分の為に利用していなかったと言い切ることが出来なかったからだ。
(ごめん…、岳斗…)
それが情けなくて、彪芽は泣きそうだった。
岳斗は途中で泣き止んだが、彪芽の首にしがみつく様にしたまま、黙って頬を押し付けていた。
岳斗にしてみれば、大好きな彪芽が棚田に苛められたとでも思ったのだろう。きっと、怖かったに違いなかった。
「岳斗…、タッくんのトコ行こうか?タッくん、痛いの治ったかなー?」
ポンポンと背中を叩きながら彪芽が言うと、岳斗はやっと涙で汚れた顔を上げた。
「うん。タッくん、行こうー。岳斗、飛んでけーってしてあげるー」
「あはは…。そうだな。岳斗が“飛んでけー”すると、タッくん早く治るかもな」
岳斗の顔を手で拭ってやりながら彪芽はそう言って笑った。
岳斗が怪我をした時、“痛いの、飛んでけー”と怪我を撫でて言ってやるので、自分も誰かが怪我をすると同じように真似をする。今度も、孝彰にそれをやってやるつもりらしい。
彪芽は一度家へ帰ると、ジャムの瓶をポケットへ入れてまた家を出た。
途中で、孝彰の為にロールパンと自分たち用の弁当を買い、病院へ向かった。