にんじんのお星さま
第3話 嫉妬と苺のジャム
-6-
孝彰は嫌がったが、どうやら肋骨に皹でも入っているらしく、このまま放って置くことは出来なかった。
父親が形成外科病院をやっている大学の友人を思い出して連絡を取ると、運よく彼は家に居て、父親に話しをしてくれると言った。
連絡を待っていると、彼からの電話があって、これから自分の車で迎えに来てくれると言う。彪芽は孝彰を説得すると、病院へ行くことを承知させた。
その友人なら口は堅いし、余計なことを言ったりしないだろう。孝彰も納得したようで、彼が迎えに来ると素直に車に乗った。
彪芽も岳斗を連れて一緒に車に乗った。
病院へ着いてすぐに検査すると、やはり孝彰の肋骨には皹が入っていた。打ち身も酷く、入院した方がいいと勧められ、正月休み中だったが特別に入院させてもらうことになった。
彪芽は孝彰が病室に入るのを見届けると、彼の部屋の鍵を借りて必要なものを取りに行くことにした。
「彪芽、車使えよ。あと、岳斗は俺が遊ばせとくから…」
友人にそう言われ、彪芽は厚意に甘えることにした。岳斗を連れて行っては、思うように動けない。
車を借りて孝彰の部屋へ行くと、彪芽は旅行用の鞄を見つけて、下着やパジャマなどを探して詰めた。
洗面用具やその他の必要な物は近くのドラッグストアで買うつもりだった。取り敢えず、思いつく物を鞄に詰め、後は孝彰に聞いてから取りに戻ればいい。
そう思って、彪芽が鞄を持って立ち上がろうとすると、玄関のドアが開いた。
ハッとして見ると、見覚えのない男が、やはり彪芽を見て驚いた表情を浮かべていた。
「おまえ…、誰だ?孝彰は…?」
用心深そうな顔つきで、男は探るように彪芽を見ている。
彪芽は、これが孝彰を傷つけた相手だとすぐに分かった。
「孝彰は怪我が酷くて入院しました」
睨み付ける様に相手を見てそう言うと、彪芽は鞄を持ち直してゆっくりと立ち上がった。
年は30そこそこだろうか。確かに知的な感じのするハンサムな男だった。見た限りでは、この男が異常性愛者だとは思えない。
「入院…?」
そう聞いて、男の目に怯えが宿った。
彪芽は頷くと、玄関に近づいた。
「病院は嫌だと本人は言ったんですが、とても自宅でどうにかなるような状態じゃなかった。暫くは、戻れないと思います」
「そ…、そうですか…」
男の言葉が急に改まった。
孝彰が入院したと知って、自分の身に危険が及ぶと思ったのだろうか。明らかに尻込みしている。
おどおどと目が泳ぎ始め、彪芽は男の本質を見たような気がした。
スッと、彪芽は男に手を差し出した。
ビクッとして自分を見た男に彪芽は言った。
「この部屋の鍵を返してください。持ってますよね?」
さっき、部屋に入った時、彪芽は鍵を掛けた筈だった。だから男は、自分の鍵を使って玄関のドアを開けたに違いない。
彪芽がじっと鋭い目で見つめていると、男は掌に握っていたキーケースから鍵をひとつ外した。
黙って、男は鍵を彪芽の手の上に乗せた。
それを握り締めると、彪芽は言った。
「警察には知らせません。孝彰も望まないと思うので…。でも、もう彼には近づかないでください」
あくまでも静かに、彪芽は言葉を崩さずにそう言った。
だが、彪芽の怒りはその目から感じられたのだろう。男は黙って頷くと、部屋から出て行った。
ホッと溜息をつき、彪芽は玄関へ降りると靴を履いた。
あの男がこの先、孝彰に拘らないかどうかは分からない。もしかすると、また、未練がましく接触してくるかも知れない。
出来る限り守ってやりたいとは思うが、限界があるのも確かだった。
孝彰はもう、彪芽の恋人ではないのだ。
もしかすると、孝彰は元に戻りたいと思っているのかも知れない。だから、付き合っていた時の事を持ち出したりしたのかも知れなかった。
だが、彪芽の心はもう、椎名のことしか考えられなくなっていた。
(いや…)
孝彰と付き合っていた時から、もしかすると自分は心の何処かで椎名を求めていたのではないかと彪芽は思っていた。
孝彰があんな男と付き合ってしまったのは、もしかすると、自分にも責任が有るのかも知れない。そう思うと、彪芽は酷く辛い気持ちになった。
買い物を終えて病院へ戻ると、彪芽は孝彰に男が来たことを告げた。
「そう…」
とだけ言い、彪芽が差し出した部屋の鍵を孝彰は黙って受け取った。
部屋から持ってきた荷物や買って来た物を整理してやり、彪芽は孝彰を手伝ってパジャマに着替えさせた。
「彪芽…」
再びベッドに横になり、孝彰は彪芽の腕を掴んだ。
「ありがとう…。ごめんな?」
彪芽は笑みを見せると、その手をぽんぽんと叩いた。
「いいって。…それじゃ俺、岳斗が待ってるから行くな?また、明日来るよ」
「うん…。ありがと…」
もう1度頷き、彪芽は病室を出た。
そのまま、病院の敷地内にある自宅へ岳斗を迎えに行き、彪芽は友達に礼を言って、孝彰のことを頼んだ。
孝彰の怪我はどう見ても普通じゃなかったが、彼は余計なことを訊かないでくれた。それに心の中で感謝し、彪芽は岳斗を連れて家へ帰った。
明日は椎名に誘われた“初打ち”を見に行く予定だった。
だが、昼過ぎには終わるだろうし、孝彰のところへはそれから行けばいいだろうと思った。
余り、べったりと自分が傍に居るのも孝彰に気を遣わせるだろうし、身体も休まらないだろう。
彪芽は迷ったが、折角椎名が誘ってくれたのだし、朝は岳斗を連れて野球場に行くことにした。
「あ、そうだ…」
持って行った苺ジャムの瓶をダウンのポケットへ入れたままだったのを思い出し、彪芽はそれを出して冷蔵庫へ仕舞った。
明日、一旦家へ帰ってからパンと一緒に病院へ持って行ってやろうと思った。
病院食は味気ないし、おやつ代わりにもなるだろう。それに、自分の作ったものを彪芽は孝彰に食べさせてやりたかった。
「あーたーん、ごあん、なあに?」
台所に来た岳斗にダウンの裾を掴んで言われ、彪芽はハッとした。
孝彰のことですっかり時間が経っていたのに気付かなかった。
時計を見ると、もう6時になろうとしている。今から米を研いで炊いたのでは、いつもの夕飯の時間に間に合いそうも無い。
「今日はお饂飩にする?鶏肉あるし…」
饂飩なら、乾麺が買ってあったし、時間も掛からずに出来る。彪芽が訊くと、岳斗は激しく首を振った。
「いやぁーッ。お饂飩いやっ」
「ええー、いいだろ?お饂飩で」
確かに岳斗は、ラーメンとパスタは好きだが、饂飩は余り好きではないのだ。だが、今日はパスタの買い置きを切らしていた。
「あ、じゃあ、お餅にする?」
言ってはみたが、朝も雑煮で、明日も昼に椎名たちと餅を食べる予定だった。さすがに、今夜も餅では彪芽も嫌だった。
「なら、お外に食べに行こうか?」
言うと、岳斗の顔がパァッと輝いた。
「うんっ、いくー。らぁめん行くのー」
「ラーメンか…。そうだな、久し振りだし、ラーメン食べに行こうか」
「うんーッ。らぁめん行こうねー」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、岳斗は嬉しそうに言った。
まだ、コートも脱いでいなかったしすぐに出掛けられる。彪芽は岳斗に帽子を被せ直して玄関へ連れて行った。
小さいブーツを履かせて、自分も上がり框に座って靴を履くと彪芽は岳斗を抱き上げて玄関を出た。
鍵を掛けて門の外へ出ると、丁度椎名がアパートの外階段を下りて来るのが見えた。
「お?今晩は。今頃、何処行くの?」
「あ、今晩は…」
「らぁーめーんッ、らぁめん行くのー」
彪芽が答えるよりも早く、岳斗が大声で答えた。
「ははは…、ラーメンか。いいなぁ、岳斗。じゃあ、俺もコンビニは止めて岳斗とラーメンに行こうかな」
どうやら椎名も夕食を調達に行こうとしていたらしい。岳斗の手を取って、それを振りながら言った。
「うんっ。パパも行こうッ。行こうねー」
嬉しそうに岳斗が答えると、彪芽も笑いながら言った。
「いいんですか?他のものが良ければ、俺たちに付き合わなくてもいいですよ」
「いや、寒いし、丁度いいよ。一人で食いに行くのも面倒だと思ったけど、彪芽君たちが行くなら一緒に行こう」
「はい、じゃあ…」
ラーメン店はコンビニよりも少し遠かったが、歩いて行かれない距離ではない。いつも行くラーメン店は味もいいし、お子様用のラーメンがあって岳斗も喜ぶのだ。
「そう言えば彪芽君、苺ジャム旨かったよ。今朝、トーストに付けて食ったけど、甘過ぎなくて良かった」
椎名に言われて、彪芽は笑みを見せた。
「ホントですか?良かった…。初めて作ったから、自信なかったんですけど」
椎名はお世辞を言う人ではない。旨いと言われてホッとすると、彪芽はやはり明日、孝彰にも持って行ってやろうと改めて思った。
「明日、初打ち、見に来てくれるだろ?」
自分の方に手を伸ばして来た岳斗を、当然のように抱き上げながら椎名は言った。
「あ…、はい。…でも、ホントにいいんですか?」
マーケットで出会った棚田と言う後輩の視線を思い出し、彪芽は少々不安げな顔になった。だが、椎名はすぐに笑って見せた。
「いいんだって。来て欲しいから誘ってるんだよ。本当に、何も気にすること無いからね?」
「はい。ありがとうございます」
彪芽が返事をすると、椎名は抱いている岳斗の方を見て言った。
「明日、岳斗も野球するか?ポーンって、ボール投げる?」
「うんっ。ポーンってするー」
「そうか。よし、やろうな」
「うんっ。やろうねー」
こうして会話しているところを見ると、本当に親子に見える。そう思って、彪芽は口元を綻ばせた。