にんじんのお星さま
第3話 嫉妬と苺のジャム
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病院へ着くと、孝彰はもう昼食を済ませた後だったが、彪芽が持って来たジャムを出すと喜んですぐに蓋を開けた。
「あの時、煮込んでたジャムだね?ありがとう…」
「もう、腹一杯だろうけど、後で小腹が減ったら食べろよ。パンも持って来たし…」
「うん。でも今、一口食べたい」
そう言って彪芽からスプーンを受け取ると、孝彰はジャムを掬って口の中へ入れた。
「うんっ。旨い…」
「良かった」
孝彰の笑顔を見て、彪芽も笑った。すると、彪芽の膝から身を乗り出して岳斗が孝彰の方へ手を伸ばした。
「タッくん、飛んでけーってしてあげるー」
「おお。ありがとうー、岳斗」
嬉しそうにそう言って、孝彰は岳斗の方へ顔を寄せた。
すると、岳斗は真剣な表情で孝彰の顔の痣をそっとそっと撫でた。
「痛いのー、飛んでけー」
言いながら、岳斗がぷーんと手を上げると、孝彰が閉じていた目を開いた。
「あー、治った。岳斗のお陰で痛いの治ったよ。ありがとな」
孝彰がそう言うと、岳斗は得意そうな顔になって彪芽を振り返った。
孝彰は昨日よりも大分元気そうで、彪芽も少し安心した。
多分、孝彰の場合、身体の怪我もあったが、心の傷が大きかったのだろうと思う。だからこそ、彪芽は孝彰が心配だった。
だが、少しは気持ちも落ち着いたのか、今日はその表情にも少し柔らかさが戻っていた。
「彪芽…?」
腕をそっと掴まれ、彪芽は顔を上げた。
「うん?」
「なんかあった…?なんか、暗い顔してるような気がする」
「えっ…?」
心配しているのは自分の筈だったのに、却って孝彰に心配されて彪芽は心の中で苦笑してしまった。
顔に出していないつもりだったのに、やはり、棚田に言われたことがしこりになっていたのだろうか。表情の何処かに、それが表れてしまっていたらしい。
「いや…、別に何もないよ」
彪芽が答えると、孝彰は少し寂しげな笑みを見せた。
「俺のこと、心配してくれてるなら、もう大丈夫だから…。あいつも、もう何も言ってこないと思うし、それに…、俺はもうきっぱりと縁を切るって決めたから。だから、彪芽ももう心配しなくていいよ」
「うん…。分かった」
本当は、もう一度付き合おうという自分の言葉を、孝彰は待っていたのかも知れないと彪芽は思った。
だが、その言葉を口にすることが彪芽には出来なかった。
もう、椎名のことは諦めた方がいいのだと分かっている。
今日の出来事を振り返っても、彪芽は椎名にとって自分が良くない存在なのだと改めて悟ったつもりだった。
だが、だからと言って、簡単に忘れることは出来ない。そして、こんな気持ちのまま、孝彰とやり直すのは無理だった。
「孝彰、もう余計な遠慮とかするなよ?何かあったら、いつでも頼ってくれていいんだからな?」
せめてもの友達としての言葉を、彪芽は孝彰に言った。
「うん…。ありがとう、彪芽…」
孝彰の部屋で岳斗と2人で買って来た弁当を食べさせてもらうと、少し話しをして、彪芽は病院を出た。
孝彰も1週間ぐらいで退院出来るらしい。
1人の部屋に返すのは心配だったので、退院したら、暫くは家に来て養生するといいと彪芽が言うと、孝彰は戸惑ったようだが素直に頷いた。
夕飯の買い物をして家に帰る途中、何時もの昼寝の時間になった所為もあって、岳斗は彪芽に抱っこされたまま眠ってしまった。
家に着いて、彪芽はすぐに岳斗を布団に寝かせたが、部屋の戸を閉めない内に玄関のチャイムが鳴った。
どうやら、彪芽の帰宅を待っていたらしい。来たのは椎名だった。
「彪芽君…、今日は済まなかった」
頭を下げられて、彪芽は慌てて言った。
「や、止めてください。何で椎名さんが謝るんですか」
玄関の上がり框に膝を突き、彪芽は椎名を見上げた。
椎名は辛そうな表情を浮かべたままで彪芽の目を見つめた。
「俺が…、無理に誘ったばっかりに、彪芽君に嫌な思いをさせてしまって…。本当に済まなかった。…棚田は、悪いヤツじゃないんだ。いつもはあんなこと言うヤツじゃないんだが…」
あの後、棚田から話を聞いたのだろう。椎名は本当に済まなそうにそう言って、目を伏せた。
「棚田さんは…、椎名さんのことが好きなんですね」
彪芽が静かにそう言うと、椎名は目を伏せたままで深い溜め息をついた。
「あいつの気持ちを…、知らなかった訳じゃないんだ。だが…、応えられないことは分かっていたから、あいつが何も言わないのをいいことに気付かない振りをしてしまった。全部俺が悪いんだよ。俺がもっと、はっきりした態度を取っておくべきだったんだ」
棚田が悪い人間じゃないのは分かる。だからこそ、彪芽に言った自分の言葉を正直に椎名に伝えたのだろう。自分が悪く思われるかも知れないのに、黙っていなかった棚田は正義感の強い人間なのだと思えた。
本当は椎名を家へ上げるべきだったろう。
玄関は寒いし、普段の彪芽だったらすぐにそうしていた。だが、今日は椎名を家の中へ入れる気にはなれなかった。
話が終わったら、すぐに椎名と別れたい。
そう思って彪芽は、椎名を玄関に立たせたままで話を続けた。
「気にしないで下さい。棚田さんの言ったことは正しいですよ。俺が…、椎名さんに甘え過ぎてたんです。優しくしてくれるのをいいことに、どんどん調子に乗って、見苦しいことをしてしまった。…ホントに済みません…」
「彪芽君…」
「俺の気持ちを、考えてくれるって、そう言ってもらえただけで本当に嬉しかったです。……でも、本当は分かってた。考えたからって、どうにかなる訳じゃない。それぐらい、本当は俺だって分かってたんです」
顔を上げると、彪芽は笑みを浮かべて椎名を見た。
「傍に居たかったから、俺も…気付かない振りをしていた。気付かない振りをして、自分を誤魔化してた。…椎名さんが岳斗を可愛がってくれるのを、利用していたと言われても否定出来ない…。棚田さんが言ったことは本当です。だから…、言われても仕方ないんです」
もう、いいと、そう言うつもりだった。
もう、無理はして欲しくないと言おうとした。だが、フッとまた、椎名の口から溜め息が漏れて、彪芽は言葉を切った。
「そうじゃない…。甘えていたのは、俺の方だよ」
静かに、椎名はそう言った。
「え…?」
「彪芽君が、何も求めないのをいいことに、何時までも答えを出さずに甘えていた」
椎名はそう言うと、彪芽の目をじっと見つめた。
「俺は…、もう、とっくに気付いていた。君の傍に居ることが、1番心地がいいと…」
「椎名さん…」
椎名の目に何時もの温かさを感じて、彪芽は鼻の奥が熱くなるのを感じた。
「俺が、ただの同情だけで君と岳斗に関わっていたんだと思っているなら、それは違うよ…。俺はただ、君たちの傍に居たかった。それが嬉しいし、楽しいし…、そして何より、幸せな気分になれるからだ」
椎名の目の縁に皺が刻まれ、その顔に彪芽の大好きな笑顔が表れた。
「どんどん、俺の中で君が大切な人になっていくのが分かる。…確かに、考えたからって変わる訳じゃないのかも知れないけど、でも、俺の気持ちがどんどん変わっていったのは本当なんだ」
(本当だろうか……?)
椎名の瞳を見つめながら、彪芽はそう思った。
これが、椎名の同情ではなく本心だったら、どんなに嬉しいだろう。
何も言えずに彪芽が見上げていると、椎名は照れたように笑った。
「この正月も、実は初打ちは口実だった。本当は君の顔が早く見たくて、それで帰って来たんだよ」
「椎名さん……」
嬉しいと言おうとして口を開いた筈だった。
だが、彪芽の口からは自分でも信じられないような言葉が飛び出した。
「そ、そんな…、ホントにもう、同情してくれなくてもいいんです。俺、もう分かりましたから…。この前、友達が来たって言ったけど、あれ、実は前に付き合っていたヤツで…。そいつとまた、付き合うことにしたんですよ。やっぱり俺も、まだ好きだし、それに…ッ」
いきなりギュッと抱きしめられて、彪芽は言葉を切った。
「彪芽君…、無理するなよ」
自分でも気付かない内に、彪芽の頬は涙で濡れていた。椎名の温かい手が、それをそっと拭った。
「同情なんかじゃない。君が大切なんだ。君の傍に居たいんだよ」
「椎名さんッ……」
感極まってそう叫ぶと、彪芽はギュッと椎名の身体を抱きしめた。
「ごめんな?随分待たせてしまって…」
椎名の言葉に、彪芽はただ、黙って首を振った。
思い掛けない椎名の言葉に気が動転した所為もあり、結局あの後、彪芽は椎名を家に上げるのを忘れてしまった。
椎名が帰った後も、暫くは呆然として玄関に座っていた。
そして、じんわりと、身体の奥の方から込み上げてきた幸せを、彪芽はひとり、ゆっくりと噛み締めた。
「あーたーん…」
昼寝から目覚めた岳斗に現実に戻され、彪芽は少々苦笑いをしながら岳斗を抱き上げた。
「おはよ。何か飲む?」
「おしっこ出るー。リンゴ飲むぅー。苺食べるーぅ」
「おいおい、そんなにいっぺんに出来ないよ。じゃ、最初におしっこな」
笑いながらそう言うと、彪芽は岳斗を抱いたままトイレへ連れて行った。
「おやつにパン食べようか?苺ジャムあるよ」
思い出してそう言うと、彪芽は岳斗をトイレの前に降ろした。
甘酸っぱいジャムを食べながら、今の甘酸っぱい気持ちをもう少し噛み締めよう。
そして、今夜はまたコロッケを作ろう。
そして、椎名と岳斗と3人で食べよう。
そう思ってニヤついたらしい彪芽の頬を、岳斗の小さな指が摘んで引っ張った。
「あーたーん、嬉しいー?嬉しいー?」
そう訊かれて、苦笑する。
だが、彪芽は岳斗の小さな身体を抱きしめて心から言った。
「うん。嬉しいよ」
「岳斗もーっ」
「ははは…、そうか。岳斗も嬉しいのか」
沢山の苺と共に、椎名が自分の心にも春を運んできてくれたような気がして、その陽だまりのような温かさを思い、彪芽はまた少し心を震わせた。