にんじんのお星さま
第3話 嫉妬と苺のジャム
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「そんなこと…言うなよ。益々思い出しちまう…。彪芽がどんなに優しかったか…」
「孝彰…」
躊躇っていたが、とうとう訊きたかった事を彪芽は口に出した。
「なあ…、本当は俺に何か話があったんだろ?今…、何か困ってる事があるんじゃないのか?」
だが、孝彰は首を振った。
「そうじゃないよ。そういう訳じゃないんだ…。ただ、彪芽の傍にいた時、俺…、凄く癒されてたなって、思い出してさ…。ははッ…、ホント、今更だよな…。馬鹿みたいだな?俺…」
孝彰の腕に置いたままだった手を、彪芽はゆっくりと撫でるように動かした。
「今は辛いんじゃないのか?だから、そんなこと言うんじゃないのか…?」
「彪芽…」
笑って否定しようとしたらしい。
だが、笑顔は途中で崩れ、孝彰は彪芽の手を掴むとその上に瞼を押し付けた。
もう一方の手を伸ばすと、彪芽は震える彼の背中を撫で始めた。
自分の手が、涙で濡らされるのを感じ、彪芽は酷く切ない想いがした。
こんなに弱っている孝彰を、初めて見た。
いつもは、どちらかと言えば少々クールなところがあり、弱音を吐くことなど余り無い男だったのだ。
今になって思うと、孝彰は彪芽の心の中に、自分とは違う相手が隠れていた事を察していたのではないだろうか。
別れを言い出した理由は、そんな彪芽の傍にいるのが嫌になったからかも知れない。だとすると、やはり自分が悪かったのだと彪芽は思った。
(孝彰は、自分が悪者になって俺と別れてくれたのかも知れないな…)
突然、そう思い当って彪芽は懺悔したいような気分になった。
「やっぱり、カレー、食べていけよ。な?」
背中を撫でながら彪芽が優しく言うと、孝彰は顔を上げないまま、うんうんと頷いた。
疲れていたのか、孝彰は彪芽がカレーの仕上げをしに台所へ行っている間に炬燵に横になって眠ってしまった。
彪芽はその寝顔をしみじみ眺めて、そっと溜め息をついた。
青黒い痣が、酷く痛々しい。
その所為か、孝彰の顔色も何だか以前よりも蒼白く感じた。
本当に、名倉が心配していた通りなのかも知れない。
孝彰は今、危険な相手と付き合っているのではないだろうか。そして、その相手と、別れたいと思っているのではないだろうか。
自分に助けを求めに来たような気がして、彪芽は複雑な気持ちになった。
今の自分に、一体何がしてやれるのだろうか。
もう恋人関係ではなくなった自分が、孝彰の恋愛に何処まで踏み込んでいいのか、判断が難しかった。
風邪を引かせてはいけないと思い、炬燵の温度を下げると、彪芽は毛布を持ってきて孝彰の身体に掛けてやった。
すると、玄関からチャイムの音がして、積み木で遊んでいた岳斗がパッと顔を上げた。
「パパだーっ」
そう叫んで積み木を放り出すと、岳斗は彪芽よりも先に玄関へ飛んで行った。
彪芽も後を追い、玄関の三和土に降りるとすぐに鍵を開けた。
「こんばんは。遠慮なく甘えにきたよ。うーん、いい匂いだなぁ…」
椎名のその言葉に、彪芽は笑みを見せた。
カレーの匂いが玄関まで漂っているのだろう。外から来た椎名は、ずっと中にいた彪芽たちよりも敏感にその匂いを感じたらしかった。
「どうぞ、どうぞ。…あっ、こら。岳斗…」
椎名が靴を脱ぐ前に、ぴょんと飛び付いた岳斗を彪芽は嗜めた。
「おう、岳斗。凄いなぁ、こんなにジャンプ出来るようになったのかぁ」
飛び付かれた椎名の方は、怒るどころかそう言って腕の中の岳斗の頭を撫でた。
「パパー、タッくん、いるよぉー。あっちで、ねんこしてるよー」
「タッくん?」
聞き慣れない名前を耳にして、椎名は怪訝そうな顔をしながら彪芽を見た。
「俺の大学の友達で…、近くまで来たからって寄ったんです。どうせだから、一緒に晩飯どうだってことになって…」
「そうなのか。じゃあ、俺、遠慮した方がいいんじゃないか?」
椎名に訊かれて彪芽はすぐに首を振った。
「いえ、いいんです。気にしないで下さい。あ、どうぞ…」
ずっと岳斗を抱いたまま玄関に立たせていた椎名を、彪芽は慌てて上がるように促した。
彪芽が先に立って居間に入ると、孝彰の姿はそこには無かった。
炬燵の前には掛けてやった毛布がきちんと畳んで置いてあった。
彪芽は急いで縁側へ行くと、外を覗いて孝彰の靴がそこに無い事を確かめた。
どうやら、話し声に目を覚まし、椎名が来た事を知ると出て行ってしまったらしい。
彪芽は、そっと溜息をついて真っ暗になった表を眺めた。
「あれ、友達、帰っちゃったのか?」
居間に戻ると、椎名が言った。
「みたいですね…。急用でも出来たのかも…」
彪芽はそう言ったが、多分、椎名は自分が原因だと分かっていたのだろう。少々、気まずそうな表情をして頷いた。
「椎名さん、ジャムは食べますよね?」
話題を変えようとして彪芽が言うと、炬燵の前に腰を下ろして岳斗を膝の上に乗せた椎名が頷いた。
「ああ、食べるけど…」
「沢山苺を貰ったんで、半分煮てみたんです。初めてなんで、甘さとか加減が分からないんで、旨いかどうか怪しいですけど。良かったら、帰りに一瓶持ってって下さい」
「へえ…。凄いなぁ、手作りジャムか。うん、ありがとう。遠慮なく、貰って行くよ」
嬉しそうにそう言われ、彪芽は作って良かったと思った。
椎名にお茶を出すと、彪芽は食卓の準備をしに立ち上がった。
煮上がったジャムを孝彰にも一瓶やろうと思って、椎名のとは別に空き瓶に詰めておいた。
調理台の上に置いてあったその瓶を、彪芽はひとつ手に取った。
これを持って、明日にでも孝彰のアパートへ行ってみようと思った。
このまま放っておく事は、どうしても出来ない。
兎に角、ちゃんと孝彰に話を聞かなくてはと彪芽は思った。
翌日、彪芽は昨日作ったジャムを一瓶持って岳斗を連れると、孝彰のアパートへ向かった。
アパートの階段の下で岳斗を抱き上げると、そのまま階段を上って2階へ行った。
孝彰の部屋の前へ行ってチャイムを押したが、返事はなかった。
「いなーい…。タッくん、いないー?」
返事がないので、岳斗が詰まらなそうにそう言った。
「お出かけしちゃったのかな?仕方ないね…、帰ろうか」
孝彰の事は気になったが、いないのでは仕方がない。だが、折角出掛けて来たのに、すぐに帰るのが嫌なのか岳斗は面白く無さそうだった。
「うーん…」
渋い顔を見て、彪芽は苦笑しながら言った。
「じゃあ、帰りにお買い物しよう。今日は、なに食べたい?」
「コロッケー」
「だぁめ。コロッケは一昨日食べただろ?」
結局、岳斗が嫌がったが夜は煮魚にすることにして、彪芽はマーケットで買い物をすると家へ帰った。
すると、玄関の前に蹲っている男が見えた。
すぐにそれが誰だか分かり、彪芽は急いで荷物を置くと駆け寄った。
「孝彰ッ…」
肩を掴んで身体を起こさせると、孝彰の顔にはこの前見たのとは別の新しい痣が出来ていた。
「酷い…」
彪芽が絶句すると、傍に来た岳斗が息を飲んで人が変わったようになった孝彰の顔を見つめた。
「タッっくん…?お怪我してるよ。あーたん、タッくん、お怪我してるー…」
泣きそうな声でそう言うと、岳斗は孝彰の頭をそろそろと注意深く撫でた。
「救急車、呼ぼう」
そう言って、彪芽が携帯を出そうとポケットに手を入れると、孝彰が薄っすらと目を開いてその腕を掴んだ。
「駄目…。止めてくれ、彪芽…」
「でもっ…」
彪芽が反対しようとすると、孝彰は力なく首を振った。
「頼む…彪芽…。病院は嫌だ…」
「孝彰…」
怪我をしているのは顔だけではないだろう。骨でも折れていたら、と彪芽は心配だったが、孝彰は頑なに病院へ行くのを拒んだ。
仕方なく、彪芽は孝彰を家の中へ入れると、外へ置いてきた荷物を急いで台所へ運んだ。
孝彰は彪芽の助けを借りてやっと何とか歩けるような状態だった。彪芽は急いで客間に布団を敷くと、孝彰をそこへ寝かせた。
岳斗も心配そうだったが、彪芽に言われて居間で待っていた。
彪芽は孝彰の服を脱がせて身体を調べた。
腹や肩にも痛々しい痣があり、彪芽は顔を曇らせた。もう、転んだなどという孝彰の言い訳を聞いてやることは出来ない。
あったのは殴られて出来た痣だけではなかった。
どう見ても、縛られたとしか思えない痕が、身体と腕に残っていたのだ。
それを彪芽に見られていることを知り、孝彰は恥じ入ったように顔を背けて目を瞑った。
「名倉から聞いてたんだ…。孝彰が…、おかしなことに巻き込まれてるんじゃないかって…」
言葉を選んで彪芽が言うと、孝彰は諦めたように頷いた。
「最初は…、優しかったんだ。…呑みに行って知り合って、最初から気が合って…。顔も好みだったし、頭もいいし話も面白くて、会って2回目で寝た…」
ブルッと孝彰が震え、彪芽は部屋が冷えていることを思い出すと、急いで彼の身体に布団を掛けてやった。
「ありがと…」
力ない笑みを見せた孝彰が、酷く気の毒で彪芽は優しく笑い掛けた。
「セックスも…悪くなかった。最初は普通だったし、乱暴なこともされなかったんだ。…でも、何度か関係する内に、縛らせてくれって言い出して…。躊躇ったけど、軽い調子だし、ただのプレイだと思った。でも、その内に段々、行為がエスカレートして…」
「何で別れなかった?」
咎める様に彪芽が言うと、孝彰はまた力なく首を振った。
「乱暴なことをした後は必ず酷く取り乱して、泣きながら謝ってくる。もう2度としないって…。それに、普段は凄く優しいんだ。だから、きっとストレスの所為かと思った。エリートだからきつい仕事してるし、俺が癒してやれれば、その内にきっと変われるんじゃないかって…」
言葉を切り、孝彰は泣きそうな顔で彪芽を見上げた。
「けど…、甘かった。幾ら俺が頑張っても駄目だった。暴力は、どんどん酷くなるばかりで…。このままじゃ俺、殺されるってッ…」
両手で顔を覆い、孝彰は肩を震わせた。
「孝彰…」
その震える肩を抱くようにして包むと、彪芽は額を彼に押し付けた。
「なんで、もっと早く来ないんだ?…もっと早く、俺に言ってくれれば…」
「言えないよ。だって俺…、彪芽を傷つけたのに…。それなのに、今更彪芽に頼るなんで出来ないと思った」
「馬鹿…。そんなのもういいんだ」
「彪芽ッ…」
孝彰の腕が彪芽の身体に回された。涙が溜まったままの瞳が、彪芽を見上げる。
「ごめん…、俺…。結局、彪芽のことしか浮かばなかった。誰かに助けて欲しいと思った時、彪芽のことしか浮かばなかった…。ごめん…、ホントにごめん…ッ」
「孝彰…」
ゆっくりと腕を撫でてやり、彪芽はまた額を彼の額に押し付けた。
「謝るなよ。…大丈夫だ、もう大丈夫だから…」