にんじんのお星さま

第3話 嫉妬と苺のジャム


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時折、煮込んでいるカレーの様子を見ながら他の用事を済ませていると、やがて目を覚まして岳斗が起きて来た。
「あーた…ん、ジューシュ欲しいでーしゅ…」
まだ、少々寝ぼけた声でそう言いながら、岳斗は台所に入って来た。
「おはよ…。何ジュースがいい?オレンジと…、それからリンゴもあるよ」
「“しゅわしゅわ”ないのー?」
彪芽が開けた冷蔵庫の中を覗きながら、岳斗は言った。
「なーい。どうせ岳斗は、“しゅわしゅわ”はちょっとしか飲めなだろ?」
目が欲しくて、炭酸飲料を買いたがるのだが、買ってみるとチリチリするのが嫌なのか、結局は一口ぐらいしか飲まずに捨ててしまう。だから彪芽は、もう岳斗が欲しがっても炭酸の入った飲み物は買わなかった。
「んー…。じゃあ、リンゴがいいでしゅ」
そう言って、岳斗は自分専用のプラスティックのマグにリンゴジュースを注いでもらった。 それを、慎重に居間に運んで炬燵の上に乗せると、座ってからまた手に取ってゴクゴクと飲んだ。
それをチラリと見て、彪芽はまたコンロの方へ視線を戻した。
さっき、思いついて椎名が持ってきた苺でジャムを作り始めていたのだ。
どうせ、岳斗と2人では食べ切れないし、熟れているのですぐに痛んでしまう。それなら思い切って、半分はジャムにしてみようと思ったのだ。
それに、ジャムなら椎名も食べるかも知れない。
煮詰まってきた砂糖と苺の甘い匂いが広がって、鼻腔を擽った。
もう少し汁気が無くなるまで煮て、後は空いた瓶に詰めておいて、椎名が夕飯を食べに来たら、帰りに一瓶持って行ってもらうつもりだった。
木箆(きべら)で、鍋底をゆっくりと掻き混ぜていると、居間からまた岳斗がやってきた。
「なに?ジュースお代わり?」
彪芽が訊くと、岳斗は首を振って縁側の方を指差した。
「あーたん、タッくん居るよー。お外にお座りしてるよー」
「ええっ?」
“タッくん”というのは孝彰のことだ。
付き合っている時、良く家に来ていた孝彰に懐き、岳斗は彼をそう呼んでいたのだ。
彪芽は驚いて、岳斗に着いて居間に入り、そこから縁側に出た。
「孝彰…?」
確かに孝彰は、疲れたように肩を落として縁側に腰を下ろしていた。
「彪芽…」
振り返ったその顔を見て、彪芽は眉を顰めた。
名倉から聞いてはいたが、確かに孝彰の顔には青黒い痣があったのだ。
急いでガラス戸を開け、彪芽はそこへ膝を突いた。
「孝彰…、どうかしたのか…?」
彪芽が心配そうに訊くと、孝彰は笑みを見せて首を振った。
「ううん…。近くまで来たから…」
その答えは変だと彪芽は思った。
別れてからと言うもの、学校で顔を合わせれば差し障り無い会話はしても、もう2人きりで会うことなど1度も無くなっていたのだ。近くに来たからと言って、用も無いのにこの家に立ち寄るとは思えない。
だが、彪芽はそれに頷いて見せた。
「そうか…。でも、玄関から来ればいいのに…。入れよ。お茶でも淹れるし」
「いいよ。ちょっと、疲れて…。ここで休ませてもらったら、すぐに帰るから…」
やはり、おかしいと彪芽は思った。
多分、孝彰は自分に何か言いたい事があって来たのではないのだろうか。
「なに言ってるんだ。疲れてるなら、中で休めよ。そんなトコじゃ寒いだろ?ほら、入って、温かいもんでも飲もう」
彪芽が腕を取ると、孝彰は一瞬、泣きそうに顔を歪めた。
だが、彪芽がハッとしてその顔を見つめると、すぐにまた、唇に笑みを貼り付けた。
「ありがと…。急に来たのに、ごめん…」
「い、いいって…。ほら、入れよ」
「うん…。お邪魔します」
孝彰は沓脱に靴を揃えて脱ぐと、中に入って来た。
すると、そこにちょこんと座り、岳斗が深々と頭を下げた。
「明けましておめでとうごじゃいましゅ…」
「あっ…」
孝彰は慌てて正座すると、自分も岳斗に向かって頭を下げた。
「おめでとうございます」
顔を上げると、孝彰は岳斗に向かって微笑んだ。
「久し振りだね?岳斗…。お兄ちゃんになったなぁ…」
岳斗は孝彰の顔をマジマジと見て、目を丸くした。
「タッくん、お顔、痛いのぉー?どうしたのー?」
唇の脇と、それから目の縁にある青黒い痣を見て驚いたのだろう。岳斗は無邪気にそう訊いた。
「あ…、うん。タッくんね、転んじゃったんだ。カッコ悪いな?」
苦笑してそう言うと、孝彰は自分の唇の脇にある痣に触れた。
「痛いー?お薬つける?」
「ううん。もう、痛く無いから大丈夫だよ。ありがとな?」
涙ぐんだらしく、孝彰の語尾は少し震えていた。
彪芽は、わざとそれには触れず、炬燵の中に入るように勧めた。
「寒かったろ?コーヒーがいいか?それとも、お茶か…」
「うん、ありがとう。コーヒーもらおうかな…」
「ああ。じゃ、ちょっと待って…」
彪芽が台所へ行こうとすると、岳斗が孝彰の傍へ座って言った。
「タッくん、苺食べるー?パパの苺、美味しいよー」
「え?パパの…?」
怪訝そうにそう訊き返した孝彰に、彪芽は苦笑しながら説明した。
「隣の…アパートに住んでる人から貰ったんだよ。サラリーマンなんで、いつもスーツ着て出勤するだろ?だから、保育園に来る他所のお父さんと同じだと思ってるのか、岳斗はすっかり“パパ”って呼ぶようになっちゃったんだ」
「へえ…、そうなの…」
何故か、少々強張った顔で孝彰は頷いた。
「苺、食べるか?」
彪芽が訊くと、孝彰が答える前に岳斗が答えた。
「食べるー。ミルク掛けてねー?ねー?」
「はいはい。岳斗はさっきも食べたんだから、少しだけだぞ」
彪芽はそう言うと、台所へ入った。
「いい匂いだね。ジャム?」
孝彰も追うようにして彪芽の後から台所に入って来るとそう訊いた。
「ああ。いっぱい貰ったから、半分はジャムにしてみたんだ。初めて作ったから旨いかどうか分からないけどな」
彪芽が笑いながらそう言うと、孝彰はコトコトと煮詰まっているジャムの鍋を眺めた。
「そんなことないよ。彪芽が作るのは何でも旨かった…。炒飯も、コロッケも、餃子も…。あ、こっちはカレーか?彪芽のカレー…、好きだったな…」
「孝彰…?」
その様子がおかしい事は分かっていたが、触れずにいようと彪芽は思っていた。今更自分が、彼の深い部分に立ち入る事が、果たして正しいのか分からなかったからだ。
彼の方から何か言って来ない限り、自分は何も訊ねまい。彪芽はそう思っていた。
だが、泣きそうな目をしてこんな台詞を言われると、やはり気になってしまう。孝彰の顔の痣を見ながら、彪芽は口を開いた。
「カレー、…食べてくか?」
訊くと、孝彰はハッとして視線を上げた。
「い、いいよっ…。そう言う意味で言ったんじゃないんだ。その…、さっき言ってた隣の人が来るんだろ?…邪魔したく無いし、俺は、帰るよ」
「邪魔って…。そんなんじゃないよ、椎名さんは…」
慌てて言い訳を言おうとした彪芽だったが、孝彰の表情を見て言葉を止めた。
やはり、孝彰は普通じゃ無い。
本当に、今にも泣きそうな様子に見えた。
彪芽は、苺の蔕を取っていた手を止めて、孝彰の方に向き直った。
「なあ、孝彰…、なんか俺に話があって来たんじゃ無いのか…?」
「い…、いや。別に、そんなんじゃないよ。ただ、近くに来たし、…彪芽の顔、見たくなって…」
歯切れの悪い孝彰の答えに、彪芽はまた少し眉を寄せた。
だが、すぐに表情を和らげると、蔕を取った苺を彼の口元へ持って行った。
「ほら…」
思わず開いた口に苺を放り込まれ、孝彰はそれを咀嚼した。
「ん、甘い…」
「だろ?ミルク掛けなくていいよな?」
「うん。このまま食べるよ」
孝彰はそう言うと、器に盛られた苺を受け取り、部屋に戻って行った。
彪芽は、岳斗の方にミルクを掛けると、自分と孝彰のコーヒーと一緒にそれを居間へ運んだ。
「おいし?タッくん、おいし?」
早く自分も食べたいのか、苺を口に入れた孝彰を覗き込む様にして岳斗はその口の動きを見つめながら言った。
「うん、凄く美味しいよ。甘いね、この苺…」
「うんー。ねー?」
「ほら、岳斗のもあるよ」
彪芽が苦笑しながら苺の器を前へ置いてやると、岳斗は目を輝かせてフォークを持った。
「孝彰、ブラックでいいんだよな?」
孝彰の前にコーヒーのカップを置いてやりながら彪芽は言った。
「あ、うん。ありがと…。苺、凄く旨いよ」
「うん…」
幼児用の椅子に腰掛けて苺を食べている岳斗の隣に腰を下ろすと、彪芽もカップを手に取った。
「こんなに苺食べちゃったら、夕飯はあんまり食べないな、きっと…」
口の周りをミルクだらけにしている岳斗を見て笑いながら、彪芽はカップを口に運んだ。
「彪芽…」
フォークで刺した苺を口へ運ぼうともせずに、それをクルクルと回して見つめながら孝彰は言い辛そうに口を開いた。
「うん?」
なるだけ軽い調子になるように気をつけて、彪芽は返事をした。
「あの時…、ごめんな?俺…、勝手なことばっか言って…」
“あの時”とは、孝彰が別れを切り出した時のことだろう。彪芽は笑みを浮かべると、首を振って見せた。
「いいよ、もう」
彪芽が答えると、孝彰は顔を上げて彼を見た。
「いや…。俺、ちゃんと謝りたいってずっと思ってたんだ。嫌いになった訳でもないのに、あんな馬鹿馬鹿しい理由つけて…、俺、ホントに我が儘だったよ」
「いいって…。あの時はショックだったけど、良く考えてみて分かったんだ。…きっと、俺が悪かったんだと思う。孝彰とちゃんと向き合ってなかったよな?俺…」
言葉を切って、孝彰を見た彪芽は彼の様子に驚いて手を伸ばすと、その腕を掴んだ。
「た…孝彰…?」
首を振りながら、孝彰は零れ落ちる涙を、まるで顔を洗うような仕草で拭っていた。