にんじんのお星さま
第3話 嫉妬と苺のジャム
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夕方の6時過ぎに名倉は家に現れた。
「おお、コロッケ…。旨そう…」
何時ものように勝手に入ってくると、台所に顔を出して揚げたてのコロッケに相好を崩した。
名倉のように実家から大学に通っている友達はまだいいが、自炊している連中は何かにつけて料理の上手い彪芽の家へ飯を集りに来る。だから、彪芽にとって、突然口が増えることは慣れっこだった。
「ナッキー、おてて洗いなしゃーい」
「おう、はいはい…」
岳斗に言われて名倉は洗面所へ行くと手を洗ってきた。
「これ、盛るんか?」
サラダ用に洗って刻んであった野菜を見つけ、名倉が訊いた。
「ああ、そっちのガラスのに…」
「ああ、分かった」
岳斗が居間へ行ってしまうと、ガラスのボールにサラダを盛りつけながら名倉は話を始めた。
「孝彰だけどな…」
「ああ。…どうしたんだ?」
コロッケを揚げている鍋から目を離し、彪芽は振り返って名倉を見た。
「この前、宮田の部屋に、突然夜中に現れたらしくてな…」
「うん…」
「それが、普通の状態じゃ無かったって…」
その言葉に、彪芽は眉を寄せた。
「普通じゃ無いって、どんな?」
「歩くのもやっとって感じで、最初、宮田も酔ってるんだと思ったらしいんだわ。したら、そうじゃなくって…」
名倉は顔を顰めると、少しだけ口篭った。
「誰かに身体を傷つけられたらしくてな…。手首に縛った後や、あちこちに殴られたみたいな痣があったらしい…」
「ええ…?」
「多分、喧嘩とか、ただの暴行じゃねえって、宮田は言うのよ。…ありゃ、SMとかそんな類だろうって」
「そんな…」
名倉たちは知らないが、付き合っていたのだから、勿論彪芽は孝彰と何度も性行為をしている。
同性愛者なのだからその時点でもうノーマルとは言えないのだが、それでも彪芽の知っている限りでは、孝彰にそんな性癖はなかった。
「その後もな、孝彰とエリートサラリーマンみたいなタイプの男が一緒に歩いているのを見たって言う奴が居たんだが、ただの友達とか知り合いって雰囲気じゃなかったって言うんだ。…孝彰の首に縄痕があったって言う奴もいたしなぁ…」
「じゃあ、その男と孝彰が…?」
信じられないと言った口調で彪芽が言うと、名倉も複雑な表情で頷いた。
「孝彰が好きでそういうことしているとは思えねえ。…なんか、事情があるんじゃねえかと俺は思うんだが…」
「事情…」
一体、どんな事情があるというのだろう。
確かに彪芽にも、孝彰が好きでそんな行為をしているとは思えない。だが、だからと言って、その理由には見当もつかなかった。
「彪芽っ、鍋っ…」
「あ…っ」
揚がり過ぎてしまったコロッケを、彪芽は慌てて掬って鍋から出した。少々黒くなったが、食べられない程でもない。
苦笑いしながらキッチンペーパーを敷いた油切りに並べると、また新しいコロッケを油の中へ次々に入れた。
名倉が帰った後も、彪芽は孝彰の事が気になっていた。
何度も携帯電話を出して、電話かメールをしようかと思ったが、別れてから一度も連絡を取っていないだけに、なんだか気後れがして結局止めてしまった。
翌日も、掃除や洗濯を済ませて手が空くと、ふと孝彰の事を思い出した。
また、ポケットから携帯電話を出して彪芽は孝彰のアドレスを開いた。
やっぱり連絡してみようと番号を選択した時、居間の方から岳斗が走って来た。
「あーたーんッ、パパでしゅ、パパ来ましたー」
「ええっ?」
付いて行ってみると、縁側の向こうに椎名の姿があった。
「椎名さん、もう帰って来たんですか?」
驚いて縁側のガラス戸を開けると、椎名は頷きながら、抱えていた幾つも重なった白い箱を縁側の上に置いた。
「うん。明後日、初打ちがあるんだよ。あ、これお土産…」
「初打ち…?」
彪芽が訊き返すと、椎名の返事を待たずに、そこに重ねられた箱を見て岳斗が歓声を上げた。
「いちごぉぉ、苺だぁ、苺ぉー」
「ほんとだ。こんなに沢山…?」
箱の中には艶々と真っ赤に熟れた苺が4パックずつ入っていた。それが5箱もある。
「ウチの実家、兼農で苺の栽培をやってるんだよ。ハウスものが採れてたから貰ってきたんだ」
「そうなんですか。済みません、こんなに沢山。まだ高いのに…」
昨日食べたくて諦めたばかりだけに、岳斗は沢山の苺を見て些か興奮気味だった。
笑いながらそれを見ていた椎名を、彪芽は中に入るように勧めた。
椎名はそのまま縁側から家の中へ入ると、岳斗に手を引かれて居間まで行った。
彪芽は苺の箱を台所のテーブルへ置くと、居間へ入って椎名の前に正座した。
「明けまして、おめでとうございます」
改めて新年の挨拶をすると、椎名も座り直して頭を下げた。
「おめでとうございます。今年も宜しく」
すると、岳斗も急いで座り直し、頭をカーペットの上にコテンと付けた。
「明けまして、おめでとうごじゃいましゅ…」
「はい、おめでとう。岳斗、上手に出来たなぁ」
嬉しそうにそう言って岳斗の頭を撫でると、椎名はポケットからお年玉の袋を出した。
「はい、上手に“おめでとう”が出来たご褒美」
「お年玉ぁー」
「そうだよ」
「い、いいですよ、椎名さん。苺だってあんなに沢山貰ったのに…」
彪芽が遠慮して返そうとすると、それを阻んで椎名が言った。
「いいんだよ。これは岳斗に…。なあ岳斗、後でなんか好きなもの買いな」
「うんー」
嬉しそうにぽち袋を受け取ると、岳斗はそれを彪芽に差し出した。
「あーたん、仕舞ってー」
「はは…、分かった。じゃあこれも、昨日のと一緒に仕舞って置こうな」
「うんー」
岳斗はお年玉の袋を彪芽に渡すと、台所の方を見て言った。
「あーたん、苺ぉー。苺食べたいでしゅー」
「そうだな。折角だし、みんなで食べようか。ミルク掛ける?」
「うんー。いっぱいかけるー」
「椎名さんは?」
「俺はいいよ。悪いが少々食べ飽きてる」
笑いながらそう言った椎名に、彪芽も笑みを返した。
「なるほど…。でも、贅沢だなぁ。じゃあ、コーヒーでも淹れますね」
「ありがとう」
頷くと、彪芽はいそいそと台所へ向かった。
まだ帰らないだろうと思っていた椎名が、こんなに早く顔を見せてくれた事が嬉しくて堪らなかった。
いつも変わらない、大好きな椎名の優しい笑顔を見ると、こんなにも胸の中が穏やかになる。それに気付いて、彪芽はそっと自分の胸に手をやった。
椎名と、ただのお隣さん以上の関係になりたいといつでも願っている。だが、失うのが怖くて、彪芽はただただ待っていることしか出来ずにいた。
椎名の優しさは、そんな彪芽を時には深く傷つけることもあった。
気遣って欲しいのでも、同情して欲しいのでもなく、ただ愛して欲しいと思う。
だが、それを強く求めた所で、椎名にとっては負担になるだけだと分かっていたのだ。
コーヒーを淹れ、自分と岳斗の分の苺を洗って蔕を取って器に盛ると、彪芽は岳斗の方にだけ練乳を掛けた。
切りながらひとつ口に入れたが、苺は良く熟れていて中まで甘かった。これなら、そのまま食べた方が美味しいと思ったのだ。
2人分のコーヒーと苺の器を盆に載せ、彪芽はそれを2人が待つ居間へと運んだ。
椎名は岳斗を膝に乗せて炬燵の中へ入っていた。
「はい、どうぞ」
コーヒーのカップを椎名の前に置き、彪芽は岳斗に1人で座るように言うと、その前に練乳の掛かった苺の器を置いた。
「いただきまーしゅ」
ニコニコと笑って元気にそう言うと、岳斗はフォークで苺を刺して口へ運んだ。
「旨いか?」
笑いながら椎名がそう訊くと、岳斗は口をもごもごさせながら勢い良く頷いた。
「うんッ」
「そっか、良かったな」
言いながら岳斗の顔を見て嬉しそうに笑うと、椎名はコーヒーのカップに手を伸ばした。
「初打ちってなんですか?野球?」
椎名は仲間と草野球のチームを作っている。多分、そのことだろうと思って彪芽は訊いた。
すると、やはり椎名は頷いた。
「そう。帰省している人間も居るんで全員は揃わないんだが、明後日しか予定が取れなくてね。まあ、練習始めってとこだよ」
「へえ…」
「あ、そうだ。暇だったら彪芽君達も来ないか?チームメイトに米屋が居てさ、そいつんちで毎年餅を出してくれるんだよ。時間を見計らって奥さんが搗き立ての餅を運んでくれるんだ。昼頃に餅と豚汁が振舞われるんで、チームメイトも初打ちは家族連れで来る奴が多いんだ」
「そうなんですか?でも、俺や岳斗が行ったら迷惑なんじゃ…。家族とかじゃないし…」
彪芽が尻ごみをすると、椎名は穏やかに笑ってその腕を叩いた。
「そんなの、気にする必要はないよ。家族だけじゃなく、友人を連れてくる奴もいるんだし…」
“友人”
彪芽は椎名にとってのその枠にさえ、自分が入るとは思えなかった。
子連れの大学生なんて他の人間にとっては好奇なものに映るのではないだろうか。そうだとしたら、自分達が顔を見せる事で、椎名がチームメイトに変に思われたりするのは嫌だった。
「ありがとうございます。……でも、やっぱり今回は遠慮します」
寂しげに笑ってそう答えると、まだ腕の上にあった椎名の手に力が篭った。
「彪芽君…、他人の目なんて気にする必要はないよ」
言わなかったのに、何故椎名には分かってしまうのだろうか。ドキッと胸が鳴り、彪芽は頬を染めて俯いた。
「みんな気さくな連中だし、気を遣う必要はない。大きな餅を丸めて千切ったりするから、岳斗に見せると喜ぶと思うんだ。場所さえあれば、本当は餅つきからやりたいらしいんだけどね。でも、そうなると、米を蒸かす為に火も使わなきゃならなくて大事だからね」
「そうなんですか…」
「ね?良かったおいでよ。待ってるから…」
決して、押しつげがましい調子ではなく、それでいて優しさを感じさせる口調で誘ってくれる。それが自然と出来てしまうのが椎名という人だった。
そんな椎名だからこそ、彪芽はどんどん好きになってしまうのだろう。
「…はい。ありがとうございます」
今度は素直に頷き、彪芽も笑う事が出来た。
「何時からですか?試合とかもするなら見たいし、それに合わせて行きます」
「一応、集合は8時半だったな…。軽く練習試合もすると思う。相手が見つかってればだけど…」
言いながら岳斗を見ると、椎名は口の周りに付いた練乳を笑いながら拭ってやった。
「正月だから、相手が居るかどうか…。キャプテンやってる吉野ってのが、一応、色々と当った筈なんだが…。連絡取ってないから、俺もまだ分からないんだ」
「そうなんですか。…じゃ、俺たちも早目に行きます」
「うん。試合して無かったらベンチの方へおいでよ。一応、後ろと横に囲いがある分、少しは暖かいから」
「はい」
2人が話している間に、岳斗は苺を全部食べ終えていた。
さっき、椎名がティッシュで拭ってくれたが、練乳と苺果汁の混ざった物で口の周りがまだべとべとしている。
彪芽は濡れたお絞りを持って来て、それを綺麗に拭ってやった。