にんじんのお星さま
第4話 再会とクリームシチュー
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夜になって、岳斗が寝付いて暫くすると、玄関のチャイムが鳴った。
大きく深呼吸をし、彪芽は扉を開けた。
すると、緊張した面持ちの椎名が立っていた。
「どうぞ…」
「ごめん、遅くに…」
「いえ…」
椎名を居間へ通し、淹れてあったコーヒーを注いで戻ると、彪芽はカップを椎名の前に置いた。
「ありがとう…」
そう言った椎名に頷き、彪芽は彼の前に座った。
「彪芽君、ごめんな…?まさか、剛が君に会いに来てたなんて知らなくて…。驚いただろ?」
「ええ、まあ…。突然だったので……」
眼を上げずに彪芽は答えた。まだ、椎名の眼を見る勇気が起きなかったのだ。
「実はな、剛はちょっと問題があって戻って来たんだ…」
「問題……?」
やっと眼を上げて、彪芽は椎名を見た。
「ああ…。向こうで、日本人嫌いの上司に酷いパワハラを受けてね…。その上司は、上にそのことが知れて首になったらしいんだが、剛は精神的なダメージが酷くて、カウンセリングを受けたりしていたらしい」
「そうなんですか…」
「友達は出来たらしいが、深い所まで繋がれる相手はまだ居ないんだろう。俺に…、助けを求めたかったんだろうな……」
彪芽は剛の言葉を思い出していた。
自分の様な境遇の相手に求められれば椎名は放っておけない、”そういう男だから”、と剛は言った。
そして、もう別れた相手とは言え、苦しんでいるのを知っていて放っておけるような椎名ではない。それを、彪芽だって良く分かっていた。
だから、椎名は行くのだろう。
剛に求められて、拒むようなことはしない。
「……分かりました。剛さんの力になってあげてください。外国で、たった一人で戦うのは大変でしょうから……」
彪芽の言葉に、椎名は眼を見開いた。
「あ、彪芽君……」
「椎名さんが、ずっと想っていた相手です。それでも、俺の為に忘れようとしてくれていたのは分かってます。嬉しかったです、ほんとに……」
そう言って、彪芽は椎名を見つめた。
「でも、もういいんです。椎名さんが気持ちを殺してまで、俺と居て欲しいなんて思いません。そんなに……、図々しくないですよ、俺……」
「彩芽君ッ…」
椎名の手がテーブルの上にあった彩芽の手を掴んだ。
その眼は酷く困惑しているように見えた。
「俺は、本当に君を…」
そこまで言って、椎名はぎゅっと目を瞑った。
「頼む…。頼むから、待っていてくれないか……?」
「え…?」
彪芽が訊き返すと、椎名は眼を開けた。
「剛が落ち着いたら必ず戻る。だから、少しだけ待っていてくれないか?」
その言葉に嘘はないと彪芽は思った。
眼を見れば、椎名が真剣に自分の事を考えてくれているのだと分かった。
もう一方の手で、自分の手を掴んだ椎名の手を包むと、彪芽は言った。
「分かりました。待ちますよ…、いつまでも待ちます」
多分、椎名が自分の元へ戻って来ることなどないだろう。
いや、椎名が嘘を言っているとは思わない。だが、剛と暮らせば、きっと自分の事など忘れてしまうだろう。
そう思ったが、彪芽は敢えて待つと言った。
そう答えた方が、自分を置いて行く椎名の気持ちが軽くなるに違いないと思ったからだった。
(本当に待ちますよ。戻って来てくれるなら、何時までだって……)
最後まで椎名の心を捕まえることは出来なかった。
それでも、椎名はこうして優しい言葉をくれる。
今は本当に戻って来てくれるつもでいるのだろう。だが、彪芽は自分が剛に勝てるとは思えなかった。
椎名の手にぎゅっと力が入り、真剣な目が彪芽を見つめた。
「信じてくれ…。本当に俺は君のことが大切なんだよ。君のことが好きなんだ……」
彩芽の言葉に心を感じなかったのか、椎名は彪芽の傍へ来るとその身体を不安げに抱きしめた。
「少しだけ時間をくれ…。頼むから……」
「椎名さん……」
必死とも言える椎名の声に、彪芽は戸惑った。
剛を置いて、椎名が自分の元へ戻って来てくれるなんて、本当にあるのだろうか。
腕を回し、椎名の肩に額を付けると彪芽は言った。
「待ちますよ。本当です…。本当に待ってますから……」
椎名がいつ旅立ったのか、彪芽は知らなかった。
あの時以来、椎名には会わなかったし、彪芽は訊かなかった。
椎名が本当に戻って来るのかどうか分からない。あの時の言葉に嘘はないと分かっていたが、それでも完全に信じた訳ではなかった。
剛はずっと、椎名の心の中に居た筈だった。
だからこそ、彪芽の気持ちを知っても、椎名は待ってくれと言ったのだ。そんな剛を残して、本当に自分を選んでくれるのだろうか。
だが、今になって思うと、あの時の剛の言葉も全てが真実だったのか分からなかった。
剛だって、椎名を取り戻そうと必死だったのかも知れない。椎名と寝たと言ったが、それも本当だったのかどうか分からない。彪芽に椎名を諦めさせるためについた嘘だったのかも知れない。
何も分からないまま、だが、間違いなく椎名は隣のアパートから姿を消した。
引っ越した様子は無かったから、確かに、帰って来るつもりはあるのだろう。それに、サラリーマンの椎名が会社を休める日数には限りがある。
だから、剛と向こうで暮らす決心をしたとしても、一旦は帰って来る筈だった。
はっきりと別れを言われるのは、その時だろうと彪芽は思った。
毎朝、岳斗は椎名の姿を探してアパートの階段を見ていたが、降りて来ないことを知ると、不満そうに口を尖らせた。
「パパー、こないねー」
「そうだな。まだ、忙しいんだよ」
「うんー…」
しょんぼりとした岳斗の手を引き、彪芽は椎名の部屋の窓を見上げた。
先週は、孝彰や名倉たちと岳斗を連れて動物園へ行った。
みんなに肩車や抱っこをしてもらって、沢山の動物を見て、岳斗はおおはしゃぎだった。
椎名の居ないことが、やがてはきっと、岳斗にとっても自分にとっても日常になる。
そうなるまで、まだまだ辛いだろうが、それでも耐えるしかないのだ。
「岳斗、お歌うたって?」
繋いだ手を振りながら言うと、岳斗は元気よく歌い出した。
春休みになったし、彪芽は暫くの間、岳斗の保育園を休ませることにした。
一緒に過ごす時間を増やして、散歩したり、公園へ連れて行ったりしようと思ったのだ。
4月になれば遊園地へ行こうという計画もあったし、忙しくしていると気も紛れるだろうと思った。
岳斗を風呂に入れて、何時もの様に添い寝して眠らせると、彪芽は自分の部屋に入った。
この頃は、もう窓から椎名の部屋を見ることも無くなっていた。
カーテンを閉じたままの窓に背を向け、ベッドの上に置いたパーカーを引っ掛けると、彪芽は階下に降りた。
冷凍してあったシチューを朝食に食べてしまおうと思っていたので、ホームベーカリーをセットして、朝、パンが焼ける様にしておこうと思ったのだ。
食パン用の材料を入れてタイマーをセットすると、冷凍庫からシチューの容器を出して冷蔵庫の方へ移した。
テレビでも見ようと、居間へ入ってリモコンを取ると、玄関でチャイムが鳴った。
「はい…?」
玄関に降りて返事をすると、向こうからも声がした。
「彪芽君…」
その声を聴いた途端、彪芽はさっと扉に手を掛けた。
だが、鍵を開けようとしてその手を止めた。
(まさか……?本当に?)
椎名が帰って来たのだろうか。
それは、改めて別れを言う為なのか。
彪芽は息を吸うと、鍵を外して扉を開いた。
先延ばしにしていた処で仕方がない。もう、疾うに決心はついている。
「椎名さん…」
「空港から真っ直ぐ来たんだが、こんな時間になっちまって…」
見ると、椎名の脇には大きなスーツケースが置いてあった。
「ど、どうぞ…」
彪芽が身体を避けると、椎名はスーツケースと一緒に玄関に入って来た。
「上がってください」
「悪い…」
スーツケースは玄関に残したまま、椎名は彪芽の後に付いて居間に入った。
「今、コーヒーでも…」
「ありがとう。…岳斗はもう寝たの?」
「ええ、さっき…」
答えると、彪芽はキッチンへ入ってコーヒーを淹れて戻った。
「彪芽君、心配掛けたね…」
「いえ…。こんなに早く戻るとは思ってませんでした」
「ああ、会社の方がもう、休めるギリギリだったんだ」
やはり、と彪芽は思った。
会社を辞めて向こうへ行くのだろうか。そして、隣のアパートも引き払うつもりなのだろう。
本当の別れを言いに、椎名は来てくれたのだ。
「そうですよね。……それで…」
今度はいつ行くのか、と彪芽が聞こうとすると、その前に椎名が口を開いた。
「剛も何とか落ち着いたし、丁度良かったんだ。もう有休も残ってないし、これ以上休んで首になったら困るしなぁ」
そう言って笑った椎名の顔を、彪芽は凝視した。
すると、笑みを浮かべたままの唇で椎名が言った。
「ただいま…、彪芽君」
その意味が分かるまでに少し間があった。
そして、分かると今度は慌ててしまった。
「え…?え……?で、でも……ッ」
そんな彪芽を引き寄せると、椎名は唇を押し付けた。
激しいキスに、彪芽はまた慌て、そして、すぐに熱くなった。
「会いたかった……」
吐息混じりの椎名の言葉に、ごくっと喉が鳴る。答える前に、彪芽はまた唇を押し付けた。
椎名の舌を何度も舐め強く吸うと、それだけで身体中が熱を帯びた。
唇を離すと、熱い視線が彪芽を捕らえた。
「なんだか気恥ずかしくて、素直に求められなかった…。いい年して、みっともない真似したくないとか、カッコつけてたけど、もう駄目だ……っ」
切羽詰まったようにそう言いながら、椎名の手が彪芽のスエットの裾から入り込み、肌を撫でた。
「離れてる間に、どんどん焦って来て…。我慢するなんて馬鹿だと思った…」
額を彪芽の首に擦りつける様にしながら、椎名は興奮した声で言った。
それに煽られ、もう我慢が出来なくなった。彪芽はその手首を掴むと、立ち上がりながら椎名を引っ張った。
「俺の部屋に行きましょう」
もう余裕など少しも無かった。
椎名が自分を求めているのだと思うと、それだけで眩暈がするようだった。