にんじんのお星さま

第4話 再会とクリームシチュー


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翌朝も、彪芽は椎名と会うことが出来なかった。
不安な気持ちを振り払おうとしていたが、いよいよ、それが難しくなってきた。
だが、もしかすると自分の為に、椎名は早出して仕事を終わらせようとしているのかも知れない。そして、気を遣わせまいとして黙っているのかも知れない。
そう思って、彪芽は嫌な予感を振り払った。
だが、その日の夜、椎名から電話があった。
「悪いな…、彪芽君、明日は行けなくなった…」
「え……」
その言葉に、彪芽は胸が苦しくなるのを感じた。
だが、すぐに気を取り直して返事をした。
「そ、そうですか。やっぱり、忙しいんですね。俺のことはいいですから…、気にしないで。また、暇が出来たら、ゆっくり飯、食いに来てください」
努めて明るく彪芽が言うと、済まなそうな椎名の声が聞こえた。
「ごめんな?今度絶対に埋め合わせする。…やっぱり、外で何か食おうよ。何でもご馳走するから」
「は、はい…。ありがとうございます。じゃ……」
お休みを言い合って電話を切ったが、彪芽は酷く動揺していた。
やはり、何かあるのだ。
ただ、仕事が忙しいだけじゃない。会えない理由が、椎名に出来たに違いなかった。
不安になって、またキッチンの窓からアパートの方を見ると、見覚えのある男が階段を上って来た。
ハッとして、彪芽は窓を開けて身を乗り出した。
すると、その男は椎名の部屋のインターフォンを押した。
そして、暫くすると、ドアが開いて男が中へ消えた。
「誰だ…?」
ぎゅっと鳩尾に痛みを感じて、彪芽は無意識に呟いた。
あれは一体誰なのだろう。
ただ、椎名の部屋を訪ねたと言うだけで、特別な相手だと思うのは性急過ぎる。だが、短い間に2度も訪ねて来るのは、何かあるような気がしてならなかった。
だが、だからと言って、彪芽がその正体を確かめる術もない。椎名が何か言ってくれるまで、ただ、黙って待つしかなかった。
溜め息をつき、彪芽は窓を閉めると、コーヒーをカップに注いでキッチンのテーブルに置いた。
もしかして、このまま椎名と会えなくなるのではないかと思った。
そんな筈はないと思おうとしたが、嫌な予感は拭い去れなかった。
また溜め息をつき、彪芽はカップを手に取って口へ運んだ。
「やっぱり、明日は……シチューかな……」
椎名が来なくても、やはり明日はシチューを作ろうと彪芽は思った。
人参を星形に抜いて、岳斗のリクエストのハンバーグも作ろう。椎名が来なくても、自分は今まで通り料理をする。
椎名が来るようになる前と同じ、そして、来なくなっても同じだ。
変わらない毎日は続いて行くのだ。そこに、椎名が居なくてもずっと。
孝彰が来て、友達が来て、自分の作った物を喜んで食べて帰って行く。自分の工夫で、岳斗も段々に野菜を食べられるようになった。
そうして毎日、誰かの為に、料理をしよう。
椎名が2度と食べてくれなくても、今までと変わらずに。
コーヒーを飲み干すと、彪芽は自分を励ますように勢いをつけて立ち上がった。



翌朝も、椎名は姿を見せなかった。
岳斗は何度も振り返って確かめていたが、彪芽はその手を引いて前を向いたまま歩いた。
今日は授業があるのは午後からだったので、一旦、岳斗を保育園へ預けると、家へ帰って、何時もの様に夕飯の下拵えや掃除を済ませた。
一息ついて、お茶でも飲もうと思った処へ、玄関のチャイムが鳴った。
出ると、知らない男が立っていた。
だが、それが椎名の部屋を訪ねた男だとすぐに分かった。
背は自分より少し小さいだろうか。細身で脚が長く、ブランド物らしいお洒落なメガネが良く似合っている。理知的で、上品な風貌をしていた。
歳は椎名と同じか少し若いくらいか、だが、明らかに自分よりは大人で、そして魅力的な男だと彪芽は思った。
だが、何故この男が自分の家に来たのだろうか。
戸惑いながら彪芽が見ていると、男は礼儀正しく頭を下げた。
「初めまして。突然お伺いして済みません…」
「はい…」
「私は、菊川剛と言います。…椎名に聞いているかな…?」
「え……?」
”菊川剛”……、そうか、”剛”なのだ。
彪芽は目の前の男を呆然と見つめた。
これが、椎名の”剛”なのだ。
「は…、はい…」
急に唇が渇き、彪芽は急いで唇を舐めると、返事をした。
(この人が”剛”……)
椎名の忘れられない恋人だった。
だが何故、アメリカに居る筈の彼がここに居るのだろう。
そして何故、自分の前に立っているのだろうか。
「滝沢彪芽くんですね?」
「は…、はい…。そうですが……」
彪芽が答えると、剛は眉間に僅かに皺を刻んで言った。
「少し…、お話してもいいですか?」
「え……?…は、はい……」
我に返ったように頷き、彪芽は剛を中に入れると、居間へ通した。
「今、お茶を…」
「あ、お構いなく…」
剛はそう言ったが、彪芽はキッチンへ入って、お茶とお菓子を持って戻った。
剛は目の前にそれらを置かれると、礼を言って丁寧に頭を下げた。
「あの…、話とはなんでしょう?」
警戒しながら彪芽が訊くと、剛はひたと彪芽の眼を見つめた。
「椎名から、俺のことを何か聞いていますか?」
「い、いえ…、ただ仕事の為に渡米されたとだけ…」
他にも聞いていることはあったが、何となく躊躇われて彪芽は言わなかった。
「そうですか…」
剛は頷くと”いただきます”と言って、お茶に口を付けた。
「……あの時、俺は椎名より仕事を選びました。そして…、そのことをずっと後悔し続けています」
その言葉を聞いて、彪芽はコクっと唾を飲み込んだ。
剛がここへ来た理由は、何となく分かっているつもりだった。いや、多分、他には無いだろうと気づいてた。
だが、わざわざ剛が、何故その為に来たのかが分からなかった。
「考えて考えて、結局俺は、椎名が居なくちゃ駄目なんだと悟りました。椎名だって、まだ俺を忘れてはいないと信じてました。……だから、戻って来た…」
そう言って、剛はまた彪芽をじっと見た。
「君は一人で弟さんを育てているそうですね?……窓から送って行く所を見たけど、凄く可愛い子だ…。椎名もきっと、可愛がっているんでしょう」
何が言いたいのかと、訊いても良かった。だが、彪芽はじっと剛の言葉を待った。
「君の様な境遇の子に求められて、椎名が放っておける筈がない……。俺は椎名をよく知ってます。あいつはそういう男ですから……」
「ええ……」
彪芽が頷くと、剛は僅かに笑みを浮かべた。
それはまるで、慰めるような笑みだと彪芽は思った。
「椎名は君を大切だと言った。その言葉に嘘はないと俺も思います。……けど、恋人ではない。そうですよね?君は椎名とは寝てないでしょう?」
彪芽は答えなかった。そんなことまで、この男に言いたくないと思ったからだ。
「椎名はどちらかと言えば淡白な方だけど、でも俺と別れてから誰とも寝てないんだなと分かったよ。随分…、飢えていたから……」
その言葉を聞いて、彪芽はぎゅっと拳を握り締めた。
寂しいとか、悔しいとか、恥かしいとか、どんな感情でも無かった。
ただ、椎名が再会してすぐに剛と寝たのだと知って、もう何もかも終わったのだと悟っただけだった。
「一緒に渡米して欲しいと椎名を説得しているんです。でも、君のことがどうしても気掛かりだと……。悪いが、椎名を解放してくれませんか?……俺に、椎名を返して欲しい」
答えなければと思ったが、喉がひり付いて言葉が出なかった。
彪芽は湯呑を取ってお茶を飲み干すと、やっと口を開いた。
「返すも何も…、最初から俺のものじゃありません。……椎名さんがそうしたいなら、貴方と行くでしょう。俺には…、止める気も、止める権利も無いです」
彪芽の言葉を聞いて、剛は暫くの間何も言わなかった。
だが、湯呑を持ち上げて中身を飲み干すと、立ち上がって、また丁寧に頭を下げた。
「ありがとう…。突然来て、失礼なことを言って済みません。でも…、ちゃんと君に話をしなければと思ったので」
彪芽は何も言わなかった。そして、出て行く剛を見送ることもせず、そのままそこに座っていた。
ずっと傍に居た自分を、椎名は1度も求めてくれなかった。
だが、帰って来た剛をすぐに求めたのだ。
もう、自分には何も言うことは無い。
結局椎名は、最初からずっと剛のものだったのだ。
「はは…、そうだよな……」
呟くと、彪芽はその場にごろりと横になった。
力が抜けて、何もする気になれなかった。
少しずつ、近くに行けたと思っていたが、本当は少しも近づけなかったのだろう。
あの温かい手は、もう2度と自分の身体に触れることは無いのだと彪芽は思った。
自分の為に、椎名が剛のことを忘れようとしてくれていたのを、彪芽は分かっているつもりだった。そして、その気持ちを嬉しいと思っていた。
だが、椎名が剛を忘れることは出来なかったのだ。
再会すれば、こうしてまた元の気持ちを思い出してしまう。
何の躊躇いもなく、元の関係に戻ってしまうのだ。
「……そうだよなぁ…」
また呟き、彪芽は眼を閉じた。



結局学校へは行かず、彪芽は岳斗を保育園へ迎えに行くと、帰りに少し買い物をして家に帰った。
まだ早かったが、夕飯の準備を始めると、岳斗がキッチンへ来て、子供椅子の上に乗せろと両手を差し伸べて来た。
椅子の上に乗せてやると、岳斗は彩芽の手元を覗き込んだ。
「にんじーん?」
「そうだよ。ちゃんと”ヒトデ”にしてるからね、食べなきゃ駄目だぞ」
「えー。やだー、ヒトデ、やなのーっ」
「どうして?いつも、ヒトデにしてって言うだろ?」
人参の余り好きではない岳斗だったが、星形に抜くと何とか食べるので、いつもそうしているのだが、今日は気に入らないらしい。
「やー、ヒトデ、いやー。はーとがいいの」
「ハート?そんなこと言ったって…」
彪芽が戸惑っていると、岳斗は更に言った。
「はーと、かわいんだってー。ああのちゃん、はーとがいいってー」
どうやら、保育園でいつも遊んでくれる綾乃ちゃんが、ハートが好きだと言ったらしい。だが、急にそんなことを言われても、彪芽は困惑してしまった。
「……あ、そうだ」
思い付いて、キャビネットの中を探すと、この前クッキーを焼いた時に使った抜型を取り出した。確か、この中にハートもあった筈だった。
「あった…。よし、岳斗、ハートの人参出来るぞ」
「はーとできるー?はーとだぁ、はーと、かわいー」
輪切りの人参を次々とハートの型で抜いて行くと、岳斗が喜んで手を叩いた。

オレンジのハートの入った白いシチュー。
ハートの人参を見たら、椎名はなんて言うだろうか。

そう思ったが、もうハートの入ったシチューも、星の入ったシチューも椎名が食べることは無いだろう。
寂しげに笑い、彪芽はハートの人参をボウルの中に入れた。



岳斗が眠ると、いつもは添い寝を止めて階下へ降り、片づけをしたり、自分の部屋で勉強をしたりするのだが、今夜は人恋しいのか、彪芽は眠る岳斗の傍を離れなかった。
柔らかな岳斗の髪に額を押し付け、小さな手を握ったまま、彪芽は眼を閉じた。
「岳斗……、あーたん、ふられちゃったよ…。パパはね、遠くへ行くんだって……。寂しいな?」
後どれくらい、椎名が隣のアパートに居るのか分からなかったが、そう長い間ではないだろう。多分、剛が戻る時に、一緒に行くのだろうと思った。
椎名の性格なら、自分に黙って行ったりはしないだろう。
だが彪芽は、もう会いたくないと思っていた。
「会いたくない……。黙って行って欲しい……」
どんなに自分が椎名を好きだったか、彪芽は改めて感じていた。
椎名の存在が、どんなに大きなものだったか、改めて思い知っていた。
それを失う辛さは、計り知れない。彼を忘れる為に、一体自分はどれ程の時間を必要とするのだろうか。
岳斗の手を離すと、彪芽はゆっくりと起き上がった。
灯りを消して、常夜灯だけにすると、部屋を出て階下に降りた。
まだ、洗い物が残っていたが、今夜はもう何もする気が起きなかった。
冷蔵庫を開けて缶ビールを出すと、キッチンの椅子に座って呑み始めた。
窓の外を見ると、椎名の部屋から灯りが漏れていた。
今夜も椎名の部屋には剛が居るのだろうか。
剛は、自分の話を椎名に伝えたのだろうか。
もう何の心配もなく、2人で行けることを喜んでいるのだろうか。
「……月…。満月かな……?」
雲に隠れて良く見えなかったが、随分丸い月が出ているようだった。
以前、ドアの前の外階段から、椎名が満月を眺めていたことがあった。
あの時も、彪芽は彼の傍で肩を抱いて月を眺めたいと思った。そして、今も、許されることならそうしたかった。
ビールを飲み干し、もう1本出すと、プルトップを起こした。
酒に逃げている訳ではないが、他にやりたいことが無かった。
一人で呑む酒は、大して旨くも無かったし、今は暑い季節でもない。旨い肴が有る訳でもなく、呑む理由も無かった。
それでも彪芽は、椎名の部屋のドアを眺めながらビールの缶を煽った。
「苦いなぁ…。ビールってこんなに苦いんだっけ……?」
呟いて、彪芽はまた缶を口に運んだ。
明日は残ったシチューとトーストでゆっくり朝食を取ろう。いつもよりも岳斗とのんびりして、それから保育園へ送って行こう。
椎名と会わなくて済むように、彼が行ってしまってから家を出ようと思った。
「明日は…、孝彰と、それから名倉も誘って…、ああ三上も呼ぼうか…。温かくなる前に最後の鍋パーティーでもしようって…。岳斗は鍋は嫌がるけど、みんなが来れば喜ぶし、岳斗にだけオムライスかなんか作ってやってもいいな……」
そう言って、彪芽は2本目のビールを飲み干すと、缶をテーブルに置いて立ち上がった。
日常が、きっと椎名を忘れさせてくれる。
彪芽はそれを期待するしかなかった。