にんじんのお星さま

第4話 再会とクリームシチュー


”待たせて悪かった”と椎名は言ってくれた。
傍に居ることが幸せだとも、大切な人だとも言ってくれた。
だが、彪芽はまだ自分が、椎名の恋人になれたのだとは思っていなかった。
ただの”お隣さん”の位置からは昇格しただろう。だが、自分が嘗ての恋人だった剛のように椎名に想われていると思うほど、自惚れてはいなかったのだ。
その証拠に、あれから2か月近くになるが、彪芽はまだ、椎名とキス一つしてはいなかった。
岳斗がいつも傍に居るから、という理由もあるだろう。だが、彪芽は単純に、椎名が自分を求めていないからだと思っていた。
彪芽の方から求めれば、もしかすると椎名は許してくれるのかも知れない。だが、それで距離を置かれるようにでもなったら、それこそ取り返しがつかない。
やっと、傍に居られるようになったのに、関係が壊れてしまったらと思うと怖かった。
「やっぱ…、魅力ないってことかな……」
呟いて、彪芽は寂しげに笑った。
剛に会ったことは無い。だが、自分よりも遥かに大人で、椎名と対等に付き合える相手だった筈だ。
顔は知らないが、きっといい男だったろう。椎名が惚れるのだから、きっと男前だったに違いない。
いや、顔立ち云々の話ではない。剛には男として魅力があったのだろう。
15歳も年下の、まだ学生の自分に椎名が男としての魅力を感じる筈がないと思った。
1度だけ抱かれてくれたことがあったが、彪芽は椎名を満足させたという自信はなかった。
あの時は椎名も、剛を失ったことで慰めが欲しかったのだろうし、自分を受け入れてくれたことの感動と興奮で、彪芽は椎名のことを気遣う余裕もなかった。
そんな子供っぽいセックスで椎名が満足出来たとはとても思えなかったのだ。
「精々、胃袋掴むくらいしか出来ないよな、俺じゃ…」
だが、その料理も暫く食べに来てくれていない。この所、椎名は仕事が忙しいらしく、残業が続いているのだ。
週末も、何やかやと掛け違って、ゆっくり顔を合わせる暇も無かったし、椎名に会えるのは、朝、出勤する時のほんの少しの間だけだった。
今日は学校が終わってから、孝彰が夕飯を食べに来ることになっていた。
彪芽と一緒に学校を出て、岳斗のお迎えも一緒に行ってくれるというので、帰りに買い物もするつもりだった。
孝彰の怪我は、もう良くなっていたが、退院してから暫くの間は、彪芽の家で面倒を見た。
退院した足で、携帯電話の会社へ行き、アドレスと番号を変えた後、動けるようになってから、アパートも引っ越した。だが、まだあの男の影に怯えているのだろう。時々、彪芽の家に来て泊っていくこともあったのだ。
だから、椎名が家に来ないのも、却って良かったのかも知れない。
勿論、もう彪芽と孝彰の間に、以前の様な関係はない。だが、やはり彪芽と岳斗以外の人間が家に居たのでは、孝彰も来るのを躊躇うだろう。
まだ精神的に不安定な孝彰を、彪芽は出来るだけ支えてやりたかったし、勿論、突き放すつもりはなかった。
「今日は何食べたい?リクエストあるか?」
学校を出て、保育園まで行く途中に訊くと、孝彰は首を振った。
「俺は何でも…。彪芽の作ってくれるのは何でも旨いしなぁ」
「まだ寒いから鍋もいいんだけど、岳斗が嫌がるしなぁ。孝彰が居るならビール飲みたいし、唐揚げとかにするか?」
「あ、いいね」
孝彰が嬉しそうに返事をしたので、今夜のメニューは決まった。
保育園に迎えに行くと、岳斗は彪芽だけではなく孝彰も一緒に来てくれたのが嬉しかったのか、ぴょんぴょん跳ねて、孝彰の脚に絡みついた。
「タッくん、タッくーん」
「なんだ?岳斗、抱っこか?」
笑いながら手を差し伸べた孝彰に、岳斗は喜んで抱き付いた。
「こら岳斗、駄目だろ。タッくんはまだ、お怪我痛いんだぞ」
「大丈夫だよ。岳斗が飛んでけーってしてくれたから、治ったもんな?」
孝彰の言葉に岳斗は勢いよく頷いた。
「治った、ねー」
そんな2人を見て、彪芽は苦笑した。
暫く家に居て、それからもちょくちょく来るようになったので、岳斗はすっかり孝彰に懐いてしまった。以前の恋人関係だった時より、孝彰は自然に岳斗と接することが出来るようだった。
3人で買い物を済ませて家へ帰ると、彪芽は一息ついた後で夕飯の準備を始めた。
キッチンの窓からは、椎名の住んでいるアパートが見える。
今夜もまだ、椎名の部屋に灯りはついていなかった。



翌朝、まだ寝ている孝彰に朝食とメモを残し、彪芽は支度を済ませると、岳斗を連れて保育園へ送るために外へ出た。
すると、何時もの様に椎名がアパートの階段を下りて来た。
「おはよう」
変わらぬ笑顔で、椎名は2人に挨拶をした。
「おはようございます」
彪芽も笑顔でそう言ったが、本当は笑みを浮かべているのが辛かった。
何時になったら、椎名に時間が出来るのか、本当は訊きたくて堪らなかったのだ。
「タッくんねー、お泊りしたのー」
岳斗の言葉に椎名は頷いた。
「そうか。良かったな、岳斗。遊んでもらったか?」
怪我をした孝彰が、暫くの間、彪芽の家に居たことは椎名も知っていた。そして、彼が彪芽と付き合っていたことも知っているのだ。
それなのに、まるで気にならないのか、椎名は笑みを消さなかった。
(やっぱり、平気なんだな……)
寂しくて、彪芽は椎名の顔から眼を逸らした。
「やっと少し、仕事も片付いて来たよ。来週辺り、時間が取れそうだから、飯でも行かないか?」
訊かれて、彪芽は少し驚くと、椎名の顔に視線を戻した。
「え?いいんですか…?」
「勿論だよ。暫く、慌ただしかったからなぁ。ごめんな?碌に会えなくて」
済まなそうに言った椎名に、彪芽は慌てて首を振った。
「そんな…、いいんですよ、仕事なんだし…。あ、それなら家で食べましょうよ。その方がゆっくり出来るし…」
「でも、彪芽君だって、たまには楽したいだろ?」
「いいえ、俺は大丈夫です。家なら岳斗が眠くなってもすぐに寝かせられるし、安心して呑めますから……」
たまには椎名とゆっくり呑みたい、そう思って彪芽は言った。
「そうか?俺もその方が嬉しいけどな…」
そう言って笑った椎名を見て、彪芽は心が温かくなるのを感じた。
たったこれだけのことで、すぐに気持ちが浮き上がる。椎名が来てくれると分かっただけで、今から何を作ろうか考え始めていた。
(ほんと、現金だよな俺って…)
こんな処も、きっと子供っぽいのだろう。だから、椎名には物足りないのかも知れない。
そう思った時、岳斗の眼を盗むようにして椎名が彪芽の手を掴んだ。
ハッとして見ると、椎名は少々強張った表情をしていた。
「孝彰君は呼ばないでくれよな…?」
「は、はい…」
もしかすると、少しは嫉妬してくれているのだろうか。
そう思うと、彪芽は身体が熱くなるのを感じた。
「も、勿論…、呼びませんよ」
彪芽の答えに、椎名は照れたように笑った。



その週は、保育園のバザーの為に手作り品を用意しなければならず、彪芽は悪戦苦闘していた。
料理は問題なく出来るが、針は殆ど持ったことがない。精々、取れかけた服のボタンを付けるのがやっとだった。
すると、お菓子などでもいいと保育園の先生から聞いて、バザーの前日にクッキーを焼くことにした。
だが、実はお菓子も殆ど作ったことが無かった。
仕方なく、ネットで検索し、良さそうなレシピを見つけたが、まさかぶっつけ本番という訳にはいかないだろうと、事前に作ってみることにしたのだ。
砂糖なども製菓用のものではないと駄目らしいと分かり、粉やバターと一緒に買いに行くことにした。
「あ…、型も必要か…」
思い付いて、100均の店へ足を向けると、クッキー型やラッピング用の袋やシールなどを買った。
岳斗が寝た後に、スマホでレシピを確認しながら焼いてみたが、中々上手くいった。だが、慣れないだけにかなり時間がかかってしまった。
疲れて、キッチンの椅子に腰を下ろして何気なく外を見ると、丁度、椎名の部屋に灯りが燈った。
「こんなに遅くまで…」
残業していたのだろうか。本当に椎名は今、仕事が忙しいのだろう。
いや、もしかすると、来週自分との時間を持ってくれようとして、早く仕事を終わらせようと無理をしているのではないだろうか。
そう思うと、彪芽はまた胸が熱くなった。
ザラッと、天板に並んだ焼き立てのクッキーを深めの皿に移すと、彪芽は急いで外へ出た。
椎名のアパートの階段を一気に登り、ドアをノックすると、まだネクタイを外したばかりという様子の椎名が現れた。
「彪芽君…、どうした?」
驚いた顔の椎名に、彪芽はクッキーの乗った皿を差し出した。
「いや、あの…、保育園のバザーに出すクッキー作りを練習してて、今、丁度焼き上がったので…」
「え…?」
椎名はすぐに皿を受け取った。
「丁度、椎名さんが帰って来たみたいだったんで…。初めてだから上手く出来てるか分からないけど、疲れてる時は甘い物がいいかと…」
「ありがとう…」
嬉しそうに破顔し、椎名は焼き立てクッキーの甘い香りを嗅いだ。
「入って、コーヒーでも飲んでくかい?」
訊かれたが、椎名は疲れているに違いないと思い、彪芽は首を振った。
「いえ…。鍵も掛けずに来ちゃったんで帰ります。岳斗も心配だし…」
「そうか…。ありがとな、気を遣ってもらって嬉しいよ。凄く旨そうだ」
「いえ…、それじゃ。おやすみなさい」
そう言って彪芽が帰ろうとすると、サッと椎名が手を掴んだ。
「彪芽君…」
「はい…?」
振り返ると、椎名が近付き、掴んでいた手を彪芽の首筋に伸ばした。
そして、その手を引き寄せると同時に彪芽にキスをした。
一瞬、驚いたが、彪芽はすぐに両手で椎名を抱き寄せた。
そう長い時間ではなかったが、彪芽の心を熱くするには十分だった。
椎名の方からキスをしてくれたことが、泣けてくるほど嬉しかったのだ。
「来週、楽しみにしてる…」
「はい…」
笑みを見せて頷くと、彪芽は見送る椎名を何度も振り返りながら家へ戻った。