恋しい指
(またか……)
目の前の男の反応を見て、霧島は心の中で苦笑した。
ただ、伝票を受け取るだけのことなのに、俯いたままで耳まで赤くなる。
毎回、毎回、こんな反応をされれば、どんなに鈍感な人間だって気づくだろう。
(しかし、こんな反応されてもなぁ…)
くすぐったいだけで、嬉しくはない。これで、相手が絶世の美女ででもあるなら話は別なのだが。
ただ、不思議に気持ち悪いとは思えなかった。
それは、相手が大人しくて、そして男にしては華奢で、清潔感のある安部だったからだろう。
(確か、同期だったよな?にしては、若いなぁ、この人…)
頬がピンク色に染まっている所為もあってか、妙に初々しい。自分と同い年の28にはとても見えなかった。
「いつも無理言って済みませんね、安部さん」
同期でも親しくは無いので、霧島は“さん”付けで彼を呼んだ。
「い、いえ…」
顔を上げようとはせず、安部はそのまま僅かに頷いて見せた。
いつも自分を見ようとはしない安部だったが、唯一目を上げる瞬間がある。それは、書類を手渡す時だった。
伏せた睫毛ばかり見ているが、その時だけは、眼鏡の向こうにチラリと彼の大きな目が見える。
それが潤んでいるのだから始末が悪い。
(まるで、恋する乙女だな…)
また、心の中で苦笑すると、霧島は総務課を後にした。
この所、決まった彼女は居なかったが、いつも適当に遊んでいる。学生時代も今も、女性に不自由したことの無い霧島だった。
だから、幾らあんな目をされても、男を相手にする気など更々無い。安部の気持ちも態度も、霧島にとっては迷惑なだけだった。
だが、何故か妙に気になるのも確かだった。
実は、相手にはしなかったが、過去にも男から告られたことが無い訳ではなかったのだ。でも、その時には“気色悪い”と感じただけで、振った途端に相手のことなど忘れてしまったものだった。
だが、安部のことは妙に気に掛かる。
多分、あの気弱な様子がいじらしさを感じさせるからだろう。それに、安部は本当に清潔な感じがして、そして妙に初心っぽかった。
(あの人、マジで童貞じゃねえの…?)
そう思うと、思わずクスッと笑ってしまった。
廊下には誰も居なかったが、霧島は慌てて口を押さえた。
霧島は普段、特に安部のことなど気にも留めていなかった。
営業で殆ど外にいるし、社内ではこちらが総務にでも行かない限り顔を合わすこともない。だから、安部のことを思い出しもしなかったし、ほんの僅か頭を過ぎることさえなかったのだ。
そんな霧島が安部のことを思い出す時があるとすれば、出し忘れた伝票を見つけた時ぐらいだった。
その日も、クリーニングに出そうとしたスーツのポケットから伝票を見つけ、霧島はそれを持って安部の所へ行った。彼なら、嫌な顔もせずに処理してくれると知っていたからだ。
珍しく先客があり、安部の脇にはひとつ先輩の三沢が立っていた。
(なんだ…?)
先客があるからと遠慮し、遠くから見ていた霧島だったが、三沢と話す安部の様子を見て思わず眉を顰めた。
頬を染め、俯き、伝票を受け取る時だけちらりと目を上げる。
それはまるで、自分に接する時と同じだった。
(俺のことが好きなんじゃなかったのかよ?)
驚くことに、迷惑にさえ思っても好意など感じたこともなかった安部のその態度に、霧島は腹を立てていた。
あの、いかにも“ぞっこん惚れてます”と言わんばかりの様子が、自分にだけ見せるものではなかったのだと知り、霧島はショックを受けていた。
そして、その感情に気付いた途端、妙に慌ててしまった。
(な、何も構わないじゃないか。安部のことなんて、最初からなんとも思ってなかったんだ。大体……)
幾ら清潔感があって初々しい感じがするとは言え、相手は自分と同じ28歳の男なのだ。惚れられていた訳じゃないと分かっても、喜びこそすれ、残念がることなど無い筈だった。
それなのに、この苦々しさは何だろうか。
勘違いしていた自分が恥ずかしくて、それで腹が立つのだろうか。
女だけでなく、男にまでモテる自分に自惚れていたのが、ガツンとパンチを食らったような気になって悔しいのだろうか。
そうだ。
きっと、そうに違いない。
どう考えても、自分が残念がっている筈が無いのだ。
そう思うと、なんだか急に、霧島は安部が憎らしくなった。
(大体、あんな態度取られりゃ、誰だって勘違いするぜ)
さっきの三沢だって、もしかすると自分と同じように感じているのではないかと思った。
もしかすると、安部のあの態度は単なる対人恐怖症の一種なのかも知れない。或いは、赤面症の自分が恥ずかしくて、あんな風になるのかも知れない。
だが、どちらにしても、不愉快だった。
罪はないと分かっているのに、気に食わなかった。
(くそ、ちょっと苛めさせて貰わなきゃ、気が済まないぜ)
そう思って唇を引き結ぶと、霧島は安部に近づいて行った。
「安部さん」
いつもなら声を掛けるだけだったが、返事をした安部の肩に霧島は手を掛けた。
そして、体を屈めると、安部の耳元に顔を近づけた。
カーッと、忽ち安部が耳まで真っ赤になった。
それを心の中で笑い、霧島はわざと小声で言った。
「いつも済みません。これ、頼んでいいですか?」
伝票を見せると、いつもなら目を上げる安部が、俯いたままで目を泳がせながら頷いた。
「はい…」
「ありがとう。助かります」
また内心で嘲笑しながら、霧島はわざと囁くように言った。
「いつもお世話になりっぱなしで済みません。良かったら、今度呑みにでも行きませんか?」
勿論、社交辞令以外の何でもない言葉だったが、安部を馬鹿にしたくて霧島は言った。
すると、ピクリと身体を震わせた後に、安部は益々俯いて首を振った。
「……ありがとうございます。でも、僕は呑めませんから…」
付き合いのひとつも出来ない自分を恥じているのか、その口調が、何故か酷く悲しそうだった。
からかっただけの筈だったが、それを聞いて、さすがの霧島も少し胸を痛めた。
「ああ、だったら食事は?男と行っても詰まらないかな?でも、たまにはいいでしょう?」
今度は少し本気で霧島はそう言った。
同情したというよりは、もっと安部を観察したいという好奇心からだったが、別に飯を食うくらいはいいだろうと思ったのだ。
すると、安部は躊躇った後で暫く言った。
「でも…、僕は話題も無いし、きっと退屈ですから…」
「そんなの、話してみなくちゃ分かりませんよ。ね?今夜はどうですか?暇だったら、行きましょうよ」
最初はそんな気は更々無かったのに、話している内になんだか気分が乗ってきてしまった。
多分、それは安部が断ってきたからだろうと霧島は思った。
(変なところで狩猟本能が出ちまったな…)
心の中で苦笑しながら、霧島は安部の反応を見ていた。
相変わらず、ピンク色に染まった頬と耳朶が綺麗だった。こんな風情を見せながら、自分に気が無いなんて有り得ないだろう。
「じゃあ、残業じゃなかったら…」
殆ど消え入りそうな声で答えが返って来て、霧島は勝ち誇ったような笑みを見せて頷いた。
「分かりました。約束ですよ?」
念を押すと、やっとおずおずと顔を上げ、安部は霧島を見上げた。
そして、僅かに頷くとまた目を伏せてしまった。
本当に、こんなに初心な28歳が居るだろうか。今時じゃ中学生の女の子だってこんな反応は見せないだろう。
霧島は呆れるよりも、もう感心してしまっていた。