恋しい指


-2-

外回りを終え会社に戻ると、約束通り霧島は安部を誘う為に総務へ顔を出した。
退社時間は過ぎていたが、安部はきっと自分を待っているに違いないと確信していた。
そして、確かに安部はまだ残っていたが、殆どの人間が帰ってしまったか帰り支度をしている中で、彼だけはまだ端末に向かっていた。
「安部さん?行かれますか?」
霧島が声を掛けると、ビクッとして振り返ったが、すぐに目を伏せて頭を下げた。
「す、済みません。やっぱり残業で…」
その答えに顔を顰めると、霧島は周りを見回した。
「でも、他の方はもう帰られるみたいじゃないですか?安部さんだけ残業なんですか?」
訊くと、安部は頷いた。
「僕は要領が悪いので、仕方ないんです。折角誘って頂いたのに、済みません」
「いや、俺はいいですが…」
どうやら安部は、いつも誰かに残業を押し付けられているらしい。そう察して、霧島は少し腹が立った。
自分だって、いつも嫌と言わないのをいいことに、忘れていた伝票の処理を安部に頼んでいるのだが、そうやって彼を利用している人間はきっと社内に沢山居るのだろう。
自分がしていることは無意識に棚上げして、霧島は人の言いなりになっている安部に呆れていたのだ。
「どれくらい掛かりますか?俺なら少しぐらいは待てるので、何処かで暇を潰してますよ」
笑みを見せて霧島が言うと、安部は目を泳がせた。
「い、いえ…、そんなの悪いです。あの、多分遅くまで掛かると思うので、先に帰って下さい。……あ、あの、誘って下さって嬉しかったです」
律儀に頭を下げられて、霧島はまた少し胸が痛んだ。
「じゃあ、また今度誘いますよ。次は断らないで下さいね?」
霧島が言うと、安部はぎこちなく頷いた。
「ありがとう…」
はにかんだ笑みを見せられ、霧島は内心で苦笑した。
こんなに人を疑うことを知らずに、こんな年まで良く生きてこられたと思う。此方に悪意があるなんて、ほんの少しも思っていないのだろう。
さすがにもう、霧島にも安部をからかう気は無くなってしまった。


安部と別れて会社を出ると、霧島は駅へ向かわずに本屋へ行き、いつも買っている雑誌の他に小説を1冊買った。
それを持ってカフェへ入ると、暫く時間を潰した。
すぐに部屋に帰る気にはなれなかったからだが、小1時間を過ごすと思い付いて立ち上がった。
今夜は遅くなると言っていた安部に、何か買って行ってやろうと思ったのだ。
テイクアウトでチキンのサンドイッチとコーヒーのMサイズをふたつ買い、それから、ふと思い立ってシュークリームをひとつ買った。
自分は食べないが、何となく安部は甘いものが好きな気がしたからだ。
買い物をした袋を持って、霧島はもう1度会社へ戻った。
総務課へ行くと、他には人の居なくなった部屋で安部はまだ端末に向かっていた。
「安部さん、少し休憩しませんか?」
声を掛けると、安部は椅子から飛び上がるほどに驚いて振り返った。
「済みません。脅かしちゃったかな?」
笑いながらそう言うと、目を見開いていた安部が首を振った。そして、同時にまた、目を伏せてしまった。
「ど、どうしたんですか?帰ったのかと…」
「ええ。カフェに寄って一服してたんですけど……」
言いながら、霧島は安部のデスクの空いている部分にカフェの紙袋を乗せた。
「差し入れです。一緒に食べませんか?」
「え?僕に?」
また目を丸くして、安部は霧島を見上げた。
「あ、ありがとう…」
そう言うと、顔中をピンク色に染めて安部はまた俯いた。
それを見てクスッと笑うと、霧島は隣のデスクから椅子を引き出してそれに座った。
「ほら、暖かい内にどうぞ」
そう言って、袋からサンドイッチとコーヒーを出すと安部に手渡した。
「チキン、嫌いじゃないですよね?」
「は、はい。好きです」
「良かった。あと、これ。デザートに」
「え…?」
霧島がシュークリームの入った小さな箱を差し出すと、中を見て安部は顔を上げた。
「シュークリーム……、大好きなんです」
「そうですか?良かった…」
「ありがとう…」
そう言って、安部は初めて嬉しそうに笑った。
その顔を見て、霧島は何故か胸がドキリとするのを感じた。
(なんだ?)
自分のその反応が信じられず、霧島は戸惑った。
余りにも無邪気な笑顔が、まるで同い年の男のものとは思えなくて驚いたのだろうか。
(子供みたいな顔して笑うんだな…)
そう思って、霧島も笑みを見せた。
(本当に、なんていうか……。可愛い?)
自分の思考に、霧島はまたドキリとした。
一体、何だってこんなことを思うのか。安部が可愛いなんて、今まで感じたことなどなかった筈だった。
ただ、歳には見えない童顔で、真っ白な透明感のある肌が、まるで1度も汚れたことなど無いように思わせる。確かに、初心そうだったし、その仕草が乙女を思わせたが、安部の顔立ち自体は美形と言えるものではなかった。
だが、眼鏡の向こうにある大きな目が、見ようによっては可愛いと言えるかも知れない。
(けど、全く好みじゃない)
自分が思い掛けなく彼に対して感じてしまった印象が腹立たしくて、霧島はわざとそう思った。
同時に、急に馬鹿馬鹿しくなり、霧島はもう帰ろうかと思った。
ここに座って、別段美しくも無い男の食事をする姿を眺めていたって面白くも無いだろう。
そう思って霧島が自分の分のコーヒーを持って立ち上がろうとした時、また律儀に頭を下げて、安部が“いただきます”と言った。
「あ、ああ。どうぞ」
立ち上がる切欠を無くして霧島が頷くと、安部はサンドイッチの袋を開けて、かぷりと一口頬張った。
すると、中のソースが少しパンから食み出して安部の唇の横を汚した。
そんなところも子供っぽいなと思った時、霧島は思わず吹き出していた。
笑われて、不思議そうに安部が目を上げた。
霧島はまだ笑いながら、自分の唇の脇を指差して汚れていることを安部に教えた。
すると、カーッと真っ赤になって、安部は急いで手の甲で唇を拭おうとした。
「あっ、駄目ですよ」
慌ててその手を掴むと、霧島はもう一方の手でポケットからハンカチを取り出し、安部の唇の横を拭ってやった。
すると、安部の真っ赤に染まった顔が、まるで恐れているかのように硬直してしまった。
掴んだ手が僅かに震えているのを見て、霧島はまたむくむくと心の中に嗜虐な感情が起こるのを感じた。
「済みません、俺のハンカチなんかじゃ気持ち悪かったです?でも、これは使ってない方のですから」
わざとその目をじっと見つめて微笑み、霧島はハンカチで安部の唇をそっと押さえた。
「あ、ありがとう…ございま…す」
消え入りそうな震える声で安部は言った。
自分に恋をしていないのだとしたら、極度の赤面症なのかと思ったが、それにしてもこの反応はおかしいと霧島は思った。
(やっぱり俺が好きなんだろ?)
心の中で意地悪くそう呟き、霧島は安部の手を放した。
(それとも、俺限定じゃなく男が好きなのか?それがバレるのが怖いとか?)
安部の手を離しはしたが、今度はその手で霧島は彼の頬を触った。
また、ビクッと安部が震える。
だが、その様子を見ながら、霧島は構わずに指の甲で安部の頬を撫でた。
「真っ赤ですよ?まるで熱でもあるみたいだ」
「ち、違っ…」
身を縮めるようにして、安部は首を振った。
「安部さんの肌って綺麗だなと思ってたけど、嘘みたいにスベスベなんですね?髭なんか生えないんですか?」
感心するように言いながら、霧島は意地悪く手を引っ込めなかった。
「た…、体毛が薄くて……。だからだと思うけど……」
恥ずかしいのか、益々安部の声は小さくなった。
霧島は安部の答えを聞いてクスッと笑った。
「いいじゃないですか。脱いで胸毛なんかあったりしたら、安部さんのイメージ崩れますよ。安部さんは、何かこう、透明感があっていい。汚れたことなんか、ないみたいだ」
言いながら、霧島はまたスッと安部の頬を撫でた。
「や、止めてください…」
震える声で安部が言った。
「もう、からかうの…止めて……」
その言葉に、やっと霧島は安部の頬から手を引っ込めた。
(嘘だろ?)
阿部はまるで今にも泣きそうに見えた。
幾らなんでも、28にもなる大人の男が、こんなことぐらいで涙を浮かべるだろうか。
「済みません。からかったつもりは無かったんです」
呆れて、やっと霧島の心も冷めた。自分が一体、何をしようとしていたのか、振り返ると馬鹿々しい気持ちになっていた。
「どうぞ、食べてください。俺も、コーヒーを飲んだら帰りますから」
霧島が言うと、安部は小さく頷いて、またサンドイッチに手を伸ばした。
「済みません…」
咀嚼して口の中の物を飲み込むと、安部は躊躇った後で小さな声で言った。
「え?何でです?」
コーヒーを一口飲んでから、霧島は聞き返した。
さっきのことを謝ったのだろうかと思ったが、どうやら違ったようだった。
「ぼ、僕の態度が不快だったんでしょう?気をつけてたんですけど、駄目なんです。でもあの……、これからはもう、見ないようにしますから。だから、もうこんな風にからかわないで下さい。お願いです…」
安部の言葉から、どうやら自分が全くの勘違いをしていた訳ではないらしいと霧島は思った。
だが、“見る”とは一体何のことだろうか。
見るどころか、安部は自分が傍に寄っても殆ど視線を上げもしない。今だって、ずっと視線を下げたままだった。
霧島が答えずにいると、安部はまた手に持っていたサンドイッチを机の上に置き、膝の上に両手を載せた。