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「ほんとに…、来てくれるなんて思わなかった。もう、会えないのかも知れないって思ってたんだ…」
「どうして…?だって、約束したろ?」
豊海の言葉に、桜音はまた寂しそうな笑みを浮かべて頷いた。
「そうだね…。でも、そんな気がしたんだよ」
「桜音……」
「あ、そうだ。今度、お礼に食事を奢るよ。何処かいいレストランを探しておくから」
雰囲気を払拭するようにわざと明るく桜音が言い、豊海は驚いて首を振った。
「い、いいよ…、そんな…」
「どうして?遠慮しなくていいよ。ほら、一緒に何処か出かけたいって言ってたろ?あの時の約束も、まだ果たしてないし…」
「それは……」
今更その約束を果たしてもらっても、自分にはただ辛いだけだと豊海は思った。
「そんなに、気を遣ってくれなくていいよ。俺は好きでやってるんだし、それに…、俺と外なんか歩いて、誰かに見られたら嫌じゃないの?」
豊海の言葉に桜音は眉を顰めた。
「どうして?そんなこと無いよ。豊海と歩くのが嫌だなんて思ったことないよ」
「ほんと?……でも、いい。嬉しいけど、やっぱり気持ちだけもらっとく」
豊海が答えると、桜音の手がすっと伸びて彼の手を掴んだ。
ビクッとして豊海が顔を上げると、辛そうな目で桜音が見ていた。
「そんな風に思わせたんだ?あの時……。俺が嫌がってるって思わせたんだね?」
「ち、違うけど…」
豊海は首を振ったが、桜音は信じていないようだった。
「そうか…。そうやって、俺は豊海を何度も何度も傷つけたんだね?」
そう言うと桜音は苦く笑った。
「だもの、もう、信じてもらえなくて当たり前だよな……」
「お、桜音…」
ふっと、画面に目を戻して桜音は言った。
「あれ…、喋ってて、見ない内に随分進んじゃったな。戻そう…」
そう言って、桜音はリモコンを取ると番組を早戻しした。
「こんな風に戻せたらな……」
画面をぼんやりと見ながら桜音が言った。
「え……?」
「豊海が…、最初に好きだって言ってくれた時に時間を戻せたらいいのに。そしたら、今度こそ失敗しないのにな……」
苦く笑いながらそう言った桜音を見て、豊海は胸が苦しくなった。
(信じていいの……?)
本当に、桜音の勘違いじゃないのだろうか。
そう思って、また豊海の心は揺れ始めた。
「失敗…なんてしてないよ。だって、桜音が好きって言ってくれて嬉しかった。傍に居てくれて幸せだった。…だから俺は、後悔して無いし…」
豊海の言葉に桜音は黙ってじっと彼を見た。
「自分が桜音にとってどんな存在でもいいんだ。…こうやって、会えればそれでいい。嬉しい」
そっと、躊躇いがちに桜音の手が伸びて、豊海の頬に触れた。
「大切だよ…」
桜音の声も仕草も、まるで豊海を脅かさないように気遣っているかのようだった。
「凄く大切だ。1番……。出来るなら、もう離したくないんだ…」
「桜音…」
豊海の言葉を恐れるように、桜音は彼を抱きしめてそれを遮った。
「美紅のことは関係ない。そうじゃなくて…ッ、そうじゃなくて、豊海のことが大事なんだよ。誰よりもッ……」
キュン、と胸が鳴るのが分かって豊海は目を閉じた。
おずおずと両手を桜音の背中に回し、そっと桜音の胸に頬を押し付ける。そして、小さな声で、
「うん…」
と言った。
誰よりも大事だと言われて嬉しくない訳が無い。
誰よりも好きな桜音が、そう言ってくれたのだ。
嬉しくて、涙が滲む。
胸が高鳴って息が出来ないほどだった。
「嬉しい……」
素直にそう口に出し、豊海は桜音の肩に唇を押し付けた。
桜音がこうして傍にいて好きだと言ってくれるなら、例えそれが自分の望む愛の形ではなくても、もういいのだと思えた。
諦めるのではなく、受け入れたい。
そして、いつか自分も同じになりたかった。
それが出来れば、きっともっと深いところで桜音と繋がれるような気がしたのだ。

それでいいんだ。

そうなれたらきっと、もう少しも辛くない。
きっと自然体で、桜音の傍に居られるようになるだろうと思った。
だが、そんなことを考えていた時、頭の天辺に桜音の唇を感じ、豊海は驚いて閉じていた目を開けた。
首を反らせて見上げると、桜音がじっと見下ろしていた。
「これ以上は駄目?」
訊かれている意味が分からず、豊海は戸惑ってただじっと見上げた。
「唇にキスしたら嫌?」
「え……?」
戸惑いと驚きで豊海が聞き返すと、桜音は少しだけ顔を近づけた。
「キス…、してもいい?」
「い、いやっ…」
思わずそう言っていた。そして、すぐさま後悔した豊海が見つめる先に、酷く落胆した表情の桜音が居た。
「そう…。分かった、ごめん…」
そう言って腕を離そうとした桜音に、豊海はしがみ付いた。
「だって…、だって、キスするの嫌なんじゃなかったの?慰める為に、仕方なくしてくれるんだったら、もう嫌だよ…ッ」
そう叫んだ豊海の頬に桜音の掌が当てられた。
「俺は…、1度だって豊海に仕方なくキスしたことなんか無いよ?…でも、そう思わせてたんだね。俺の態度が…」
辛そうに言った桜音に、豊海は僅かに首を振った。
「違う…。嫌だったんじゃないかって、俺が勝手に思っただけ…。俺の気持ちを大事にしてくれようとして、桜音はきっと無理してたんだって、思ったから……。俺が望み過ぎたんだって、凄く後悔した…。サヨナラされるぐらいなら、桜音が気持ち良く思える関係でいれば良かったって後悔したから…」
「豊海……」
キュッと、また桜音の腕が豊海の身体に絡みついた。
「もう、好きでいるのが辛いって思いたくないんだ。…そう思わないでいられるようになりたいんだ。今、桜音を信じたらそうなれる?それとも、やっぱりこのままでいた方がいいのかな……?」
背中にあった桜音の片手が頬に当てられて、豊海は少し震えた。
また期待をしてしまった自分を、心の奥底で馬鹿だと罵っていた。だが、 もう1度桜音を信じたい気持ちの方が強かったのだ。
「このまま時間を貰えるなら、俺、もう少し強くなれるように頑張るから。当たり前のように桜音の傍に居られるようになれるから。大事に思ってもらえるだけで、本当に嬉しいんだよ?でも、今はまだ、それだけじゃ心が満たされない。でも、もっと時間を貰えるなら、もう桜音を苦しめないで傍に居られるようになれる。……誰よりも好きだから、だから…幸せにしたいんだ」
最後の賭けだと豊海は思った。
自分のこの言葉を、桜音がそのまま受け入れるのなら、それはそれで仕方が無い。本当に、後悔はしないつもりだった。
だが、もし桜音が、本当に自分を恋人として欲してくれるのなら、また同じ過ちを繰り返そうとも信じてみたかったのだ。
「…ありがとう……」
心から嬉しそうにそう言い、桜音は笑みを見せた。
そして、目を閉じるとそっと豊海の額に自分の額を押し付けた。
「いつもいつも、俺は豊海に甘えきってたんだって分かったよ。いつでも傍で癒してくれる、何でも許してくれる、そんな豊海に俺は甘えきってた…」
言いながら、桜音の手が愛しそうに何度も豊海の髪を撫でた。
「だけど、今度こそ俺が豊海を幸せにしたい。もう2度と泣かせないように、辛いなんて思わせないように、今度こそ頑張るから、だからもう1度だけ俺を信じて欲しい」
豊海は、すぐに、“うん”と頷いてしまいそうになった。
だが、ほんの少し残っていた恐怖心がそれを押し留めた。
「信じたいよ……ッ。信じたい…。でも、また桜音に後悔させたらと思うと怖いんだ…。やっぱり俺じゃ駄目なんだって、また桜音がそう思ったら、そしたら俺……今度こそ立ち直れなくなる……」
「豊海…ッ」
桜音の腕が震える豊海の身体をギュッと抱きしめた。
その力強さが、豊海の気持ちを後押しするようだった。
もし、また駄目でもそれでも信じたいと思った。また棄てられても、それでもいいと思えた。
その時はきっと、前よりずっと辛いだろう。心が壊れてしまうかも知れない。でも、それでもいいと思えたのだ。
ほんの少しの間だけでも、桜音に愛されてるのだと感じていられるのだったら、豊海はまた絶望を味わうことになってもいいと思えたのだ。
「もう絶対に、傷つけたりしないよ。今度こそ、本当に後悔させたりしないから」
桜音の言葉に頷き、豊海は顔を上げた。
「いいよ…。傷つけられてもいい。もう、どうなったっていい。桜音がもう1度俺を選んでくれるなら、それがどんなに短い間のことでもいいんだ」
言いながら、豊海は恐る恐る桜音の頬に手を伸ばした。
「でも、ひとつだけ約束して?…もし、俺じゃ駄目だって思っても、俺を傷つけるのを怖がって1人で悩んだりしないで?はっきりと、俺に別れを告げて欲しい」
「豊海…ッ」
言い掛けた桜音の言葉を遮るように、豊海はその唇に指を当てて首を振った。
「桜音の心が自分に無いんだって分かって、それでも傍に居るのは辛過ぎる。何時別れを言われるんだろうって、ビクビクして毎日を過ごすのはもう嫌だよ。お願いだから、約束して?お願い…」
豊海の言葉に、桜音は苦しげに首を振った。
「そんな約束、しないよ…ッ」
叫ぶようにそう言うと、桜音は再び豊海の身体を力強く抱いた。
「別れることなんか、もう考えないでくれ。本当に前とは違うんだ。豊海への俺の想いは前とは違う。振り返ってみて分かった。前はただ可愛いって、傍に居てくれたら安らげるって、そんな気持ちだった。でも、あの夜、玄関に立ったヒロ君を見て悟った。俺以外の男が豊海に触れるなんて許せないって。何で豊海の手を離してしまったのか…、自分がどれほど愚かだったか、分かったんだよ…」
桜音の声が震えているのが分かった。
その声が、豊海の心にどんどん染み渡っていった。
「分かったんだよ…。はっきり分かった。俺は豊海を可愛いと思ってるだけじゃない。愛してるんだってことが……ッ」
搾り出すように言った桜音の言葉に、豊海は答える事が出来なかった。
頷くことも出来ずに、ただ目を閉じるとギュッと桜音の服を掴んだ。

“愛している”

そんな言葉を、桜音の口から聞けるなんて思ってもいなかった。 これが夢じゃないのだと、豊海には確信が持てなかったのだ。
(夢……見てたんだっけ………?)
そんな筈は無いのに、豊海は心の中でそう思った。
すると、答えることも出来ず、ただぼうっと自分の胸に抱かれていた豊海の肩を掴み、桜音はその顔を見つめた。
見つめ返す豊海の目はやはり何処か夢を見ているようで、桜音の顔が近付いてきてもすぐには目を閉じなかった。
唇が落ちるほんの間際に豊海は瞼を閉じた。
そして、キスされたことに気付くのにも暫く時間が掛かった。
それなのに、瞼を開いた時にはつっと涙が頬を伝った。
「お…、俺…、か、帰らなくちゃ……」
涙の溜まった瞳を見開いたまま、豊海は言った。
「え…?」
驚いた桜音が見つめる前で、豊海はスッと立ち上がった。
「あ、明日も学校だし、もう遅いし……。じゃ、じゃあ、俺…、か、帰るね…」
「と、豊海ッ…」
驚いた桜音も立ち上がると、慌てて豊海の肩を掴んだ。
振り向いた豊海の強張った表情を見て桜音は眉を寄せた。
「どうしたんだ?俺がキスしたのが嫌だった?ごめん、怒ったなら謝るよ。だから、まだ帰らないで欲しい。もっと傍にいて欲しいんだ」
桜音の言葉に、豊海の目が更に見開かれた。
「キス…したの?…今?本当に?」
「え…?」
桜音が驚くと、また豊海の眼に涙が盛り上がった。
「全部夢なのかと思った。だから、幸せな内に家に帰らなきゃって…。なんだか、何処までが現実なんだか分からなくて…」
豊海の言葉に、桜音は笑みを浮かべると彼の項に手を当てた。
そして、今度はゆっくりと豊海の唇にキスを落とした。
長いキスに息が苦しくて、豊海は思わず口を開けた。そこに、桜音の舌が忍び込んできて、益々喘いでしまった。
眩暈でも感じたのか、それとも熱いキスで脚が萎えたのか、豊海は両手で桜音のシャツを掴むとしがみ付いた。
やっと唇を離すと、桜音は豊海を抱いたままで言った。
「今度は分かった?夢じゃないって…?」
濡れた唇をそっと拭われて、豊海はかくんと頷いた。
「……うん。…うん、…うんっ」
ゆっくりと始まり、最後は声が震えていた。そんな豊海をまた愛しげに抱きしめると、桜音はそのままソファに座らせた。
「帰るなんて言わないで。今日はもう、帰さないよ」
「桜音…」
ぼうっとしたまま見上げた豊海に、桜音はまた顔を近づけた。