shampoo
-7-
学校でも、バイト先でも、何事も無く平凡に時間が過ぎた。
だが、皆で話している時や、接客している時はいいが、ひとりになると、やはり豊海は桜音のことを思い出さずにはいられなかった。
コンビニで桜音が好きだった飲み物を見かけた時、部屋でひとり、桜音が旨いと褒めてくれた料理を作った時、一緒に見て笑ったテレビ番組、桜音が使っていた布団。
そして、風呂に入れば必ず豊海は桜音を思い出した。
忘れなければと思いながら、寂しくて、切なくて、何度も泣いた。
桜音から貰った靴は大事に箱にしまったまま、玄関の靴箱の上に置いてあった。履く気にはどうしてもなれなかったのだ。
そして、あれ以来、箱の蓋を開けることも無かった。
桜音から貰った携帯の番号とメールアドレスを書いたメモは、いつも財布の中に入れてあった。そして、時々、取り出しては見ることもあった。
そうすると、必ず掛けてみたい衝動に駆られるが、豊海は思い直すと、そのメモをまた財布の中に仕舞うのだった。
掛けたって、迷惑になるだけだろう。これ以上、桜音を困らせるのは嫌だった。
早く思い出になればいいと、そう願いながら、豊海は毎日を過していた。
早番で、久し振りに一緒になった時、スタッフルームで着替えながら志田が思い出したように言った。
「そう言えば、あれからさ…、木下さんから何も言ってこねえ?」
「え?うん、何も無いけど……。ここを辞めてからは、会ってないし。どうして?」
忘れていた名前を聞き、豊海は少し不安になった。木下が、志田に何か言ってきたのだろうか。
「いや、なんにもねえならいいんだけどさ…。ちょっと前に、街で偶然会った時、また例の彼女と喧嘩して別れたって言ってたからさ…」
「……そう…」
豊海が頷くと、志田は少し心配そうな顔になって言った。
「おまえのこと、どうしてる?とか訊いて来たから、曖昧に誤魔化したんだけどな…。もし、また何か言ってきたら、俺に言えよ?大丈夫だとは思うけど、あの人、しつこいところあるしな」
「うん、ありがとう…」
まさか、彼女と別れたからといって、また自分のことを思い出すとは思えなかったが、それでも豊海はやはり、不安にならずにはいられなかった。
あの時の恐怖が不意に蘇る。
身体を這い回る木下の手や、押し付けられた分厚い唇の感触、そして、圧し掛かってきた身体の恐ろしいほどの重さ。
それらの感触が蘇って、豊海は思わずブルッと身体を震わせた。
「おい、行こうぜ」
「あ、うん」
志田に声を掛けられ、豊海は気を取り直すとスタッフルームを出た。
週末だったので、その日は忙しく、豊海も目が回るほど動き回った。
上がり時間になっても、手が足りなくて上がることが出来ず、1時間近く延長して働いた。
志田は少し前に先に上がったので、豊海が行った時、スタッフルームには誰もいなかった。
豊海は制服を着替えると、バッグを持って裏口から外へ出た。
すると、そこに、誰かが立っているのが見えた。
ハッとして立ち止まった豊海を素早く見つけ、その人物はすぐに傍へ寄って来た。
薄暗い裏口の灯りでも、豊海はすぐにそれが誰だか分かった。だが、逃げようとするよりも早く、豊海は木下に捕まえられてしまった。
「久し振りだな?元気だったか?」
「は、離して下さいッ……」
豊海がもがいても、木下は平然としていつものように薄笑いを浮かべている。そして、逃げようとする豊海を、益々力を込めて押さえつけた。
志田から聞いてはいても、まさか、本当に現れるなんて思っていなかった。
何故こんなにも木下が自分に執着するのか、豊海は理解出来なかった。
豊海は確かに男っぽい訳ではないが、別れたとは言え木下には彼女がいた。だから、男が好きな訳ではない筈なのだ。それなのに、何故こんなにも執着するのだろう。
「なんだ?また痩せたな、おまえ…」
豊海とは正反対に危機感の無い調子で木下は言い、片手で軽々と豊海の胴を捕まえるとひょいと持ち上げた。
「い、いやッ。嫌だっ、離せッ。離せッ…」
路地に連れ込まれ、豊海は慌てた。
泣きそうになりながら抵抗すると、木下は豊海の身体を下ろして後ろの壁に押し付けた。
「桜音に行かれちまって、寂しくて食欲も無くなったか?可哀想に……」
心から同情するように木下は言った。
その言葉を聞いて、豊海は込み上げてくるものを堪え切れなくなってしまった。
「慰めてやるよ…、な……?」
豊海の顔を覗き込むようにして木下は優しく言った。
豊海は僅かに首を振り、近付いてくる唇を除けようとした。
「いや…、嫌だ…」
怯えた声で豊海はそう言ったが、身体から力が抜けてしまったらしく、抵抗するのを止めてしまった。
「違う…、違うよ…。そうじゃない…。好きだったのは俺だけなんだ…」
「え…?」
泣きながら言った豊海に、木下は眉を寄せた。
「桜音さんは違う。俺のことなんて、なんとも思ってない。好きだったのは俺だけ…。だから、桜音さんは俺を抱いたりしない。そんなこと、ある訳ないんだ…ッ」
「辛島…」
悲しげな豊海の声に、さすがの木下も怯んだようだった。
だが、豊海を捕まえている手を離そうとはせず、慰めるつもりででもあるのか、その代わりに抱き寄せようとした。
「いやッ…」
腕を突っ張り、豊海は抵抗した。
「もう俺に構わないでッ。放っておいてよッ…」
豊海が叫んだ時、路地の入り口に人影が立った。
「豊海ッ。そこに居るのかっ?」
その声に驚き、豊海も木下も同時にそちらを見た。
街灯からは逆光になっていて顔ははっきりと分からなかった。だが、そのシルエットだけで、豊海にはそれが桜音だと分かった。
「桜音さん……?」
豊海の呟きを聞いて、木下は彼の顔を見た。そして、ゆっくりとまた桜音の方へ顔を向けた。
「木下、豊海を離せ」
近付いて来ながら、桜音は言った。
「今更、何しに現れたんだ?こんなトコに来るなんて、わざわざ辛島を探して来たとしか思えねえけど……?」
皮肉めいた木下の物言いだったが、桜音は気にしていないようだった。
「探して来たんだよ。そしたらこっちから声が聞こえたから…」
「ふうん…。こんな時間にわざわざ?」
その言葉に、桜音は苦笑したようだった。
「おまえこそ、こんな時間にわざわざ待ち伏せか?豊海は嫌がってる。もう、手を離せよ」
言うと、桜音は木下の手を豊海の腕から退けさせた。
木下ではなくても、一体、何故桜音が今頃現れたのか、豊海も不思議だった。
だが、桜音に引っ張られて逆らわずに彼の方へ行った。
桜音が自分を探していた理由は分からなくても、彼に助けてもらえたことは確かだったし、そして、嬉しかったのだ。
「もう、豊海に構うな。こんなことをしたら、益々嫌われるだけだぞ」
豊海の身体を自分の後ろへ隠すようにしながら桜音は言った。
すると、木下は軽く肩を竦めただけで何も言わなかった。
2人の傍をすり抜けて、通りに出ようとしながら、路地の入り口で振り返ると、木下は桜音に向かって言った。
「おまえこそ、辛島を泣かせるなよ。そうやって、姿を見せるのが却って酷だって分からないのかね…」
馬鹿にするようにそう言うと、木下は姿を消した。
「豊海、大丈夫か?怖かったろ……?」
顔を覗き込まれて、豊海は僅かに頷いた。
「行こう。どこかに入って何か飲もう?」
促されて、豊海は桜音と一緒に路地を出ると、黙って後に付いて行った。
本当に、何故、桜音はまた自分の前に現れたのだろうか。それも、こんな時間にわざわざ来るなんて、どういうつもりなのだろうか。
「ありがとう…。助かった…」
やっと、そう言った豊海に桜音は笑みを見せて頷いた。
「でも、なんで?……なんで、来たの?」
やはり、どうしても気になり豊海は訊いた。すると、桜音は少々ばつの悪そうな顔になって言った。
「実は…、志田に聞いたんだ」
「え…?志田に?」
「うん。前に来た時、あいつにも携帯の番号とアドレスを教えたんだ。そしたら、暫くして電話が来て、その時に豊海と木下の事を聞いたんだ。それ以来、気になっててさ…、また何かあったら知らせて欲しいって言っておいた。そしたら、1時間くらい前にメールが来て、木下がまた豊海にちょっかい出すかも知れないって……」
「だから、来てくれたの?わざわざ……?」
驚いて豊海が訊くと、桜音は頷いた。
「ああ…。何だか心配になってさ。……でも、やっぱり来て良かった」
言った後で、桜音は表情を変え、眉根に皺を寄せた。
「それとも、来ない方が良かったのかな?木下が言ったように……?」
豊海はそれには答えなかった。
来てくれたのは嬉しい。自分を心配して、今でも気に掛けてくれていることが分かったからだ。
だが、確かに木下の言ったことも本当だった。
こんな風に期待させないで欲しいと思う。
忘れようと努力しても、また、それが難しくなるのだ。
24時間営業のカフェに豊海を誘い、空いていた奥の席に座らせると、桜音は飲み物を買いに行ってくれた。
豊海の頼んだアイスティーと自分用のアイスラテを持って戻ると、桜音は豊海の前に座った。
豊海は礼を言って、ストローを取ると袋から出してアイスティーのグラスに入れた。
「志田に聞いたこと、黙っててごめんな?でも、豊海のケイバン聞いてなかったし、それにどうしても気になって……」
「ううん、いいんだ…。心配してくれて、ありがとう。嬉しい…」
俯いたまま、豊海は桜音の顔を見ずにそう言った。
「豊海………」
「仕事、決まったの?」
訊くと、桜音は気を取り直すように頷いた。
「ああ、なんとかな…。中途だから条件は悪いけど、贅沢言ってられないし、兎に角、早く生活を立て直したかったから」
「うん…」
豊海が頷いた後で、沈黙が起きた。
豊海は勿論、桜音も何を話していいのか迷っているようだった。豊海の気持ちを知ってしまった今は、言葉を選ばずにはいられないのかも知れない。
豊海は手を伸ばしてグラスを取ると、アイスティーに口をつけた。
そして、グラスを置くと、さっき財布の中から取り出しておいたメモを、ポケットの中から取り出した。
「あの……」
とうとう桜音の顔を見ないまま、豊海はメモを彼の方へ滑らせた。
「これ、やっぱり返すよ…。まだ、登録してないし…」
桜音は返されたメモを見て、眉を寄せた。
「なんで?持っててくれよ。何かあったら……」
桜音が言い終わる前に、豊海は首を振った。
「駄目だよ。だって、持ってたらきっと…、きっと、いつか俺、我慢出来なくて電話しちゃうから……」
「何言ってんだ?電話して欲しいから渡したんだろ?いつでも連絡くれたらいいんだ。そうして欲しいから渡したんだから」
桜音の言葉に、豊海はまた首を振った。
「駄目……。だって俺…、きっと未練がましいこと言う。きっとまた、桜音さんを嫌な気持ちにさせるから…」
「豊海……」
俯いたままで、豊海は零れ落ちた涙を乱暴に頬から拭った。
「駄目なんだ、俺……。分かってるのに…、それなのに、どうしても諦められない。このメモがあったら、きっといつか、電話して桜音さんの声が聞きたくなる。そして……、そして、会いたくなるから……」
言い終わった途端、豊海は両手で顔を覆った。
桜音は何も言わなかった。
だが、その代わりに豊海は肩に桜音の腕を感じた。
席を移して隣に来た桜音が、肩を抱いてくれたのだと分かり、豊海は涙を拭うと顔を上げた。
「ごめん……。好きになったりして……。ごめん…、ごめんね?」
また溢れた涙を、桜音の指が拭った。
「謝ることなんか無いよ。嫌な気持ちになんかなったりしない。……嬉しいよ。好きになってくれて嬉しい」
優しい笑みを浮かべてそう言った桜音を見て、豊海はまた切ない涙を零した。
同情しているのだと分かる。
自分を可哀想に思っているのだと分かる。
可哀想だから、桜音は自分を見捨てることが出来ないのだ。
豊海は自分の肩から桜音の手を外した。
「もう、俺のことは気にしないで?放っておいて?……そしたら、そしたら忘れるから。忘れるように頑張るから…」
「豊海……」
「桜音さんは俺のことなんか忘れて新しい生活のこと考えて……。まだ難しいかも知れないけど、いつかまた素敵な人に出会って、そして恋をして幸せになって?……俺、ずっと桜音さんの幸せを祈ってるから……。ずっと、祈ってる……」
例え自分が、ずっと桜音のことを好きなままでも、それでも自分に出来ることは彼の幸せを祈ることぐらいしかないのだ。
豊海はそう思った。
「止せよ。そんな…、そんなこと言うなよ」
辛そうに桜音は言い、豊海から目を逸らした。
それを見て、自分の言葉が、感じる必要の無い罪悪感を桜音に与えてしまったのだと知り、豊海は後悔した。
「ご、ごめんっ。変なこと言って……。もう、ホントに気にしないで?俺のことなんか、気にしなくていいから……」
急いでそう言うと、豊海は立ち上がって逃げるように席を離れた。
このまま、桜音の傍に座っていたら、きっと、もっともっと泣いてしまうと思った。
「豊海ッ……」
後を追って、桜音が店を出て来た。
腕を掴まれた豊海は、腰を引くようにして桜音から離れようとした。
「離してッ……」
ギュッと腕を引き、豊海は言った。
「離して。そんな目で、そんな目で見ないでよ……ッ」
また涙を拭いながら、豊海は叫んだ。
「そんな、哀れむような目で見ないで………」
豊海の腕を掴む、桜音の手が離された。
豊海はサッと自分の手を引くと、その腕をもう一方で抱えるようにした。
「さよなら……。ありがとう……」
桜音の目を見て小さな声で言うと、豊海は踵を返して歩き出した。
どうしようもなく、桜音のことが好きだった。
好きで、好きで、堪らなく悲しいほどに好きだった。