shampoo
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「可愛いなぁ……」
感動したような声で桜音が言うのが聞こえた。
「何でこんなに可愛いんだろう…?」
その言葉の後で、頭の天辺に唇が落ちたのを感じ、豊海は驚いて顔を上げた。
すると、じっと自分を見つめる、桜音の視線に出会った。
「あの映画の話、覚えてる?髪を洗って、豊海もここで俺を待っていたんだって、そう思ったら自惚れ過ぎてる?」
じっと目を見つめたまま、豊海は首を振った。
「そんなの…、だって、奇跡みたいなこと……」
だが、その奇跡を確かに自分は信じていたのだ。
豊海の言葉に桜音は笑った。
「奇跡…?何だか大袈裟だな…」
そう言って、桜音は豊海の髪にまた手をやった。
「また、髪伸ばせよ。豊海の髪…、触るの好きなんだ」
桜音の優しい指が、何度も髪の間を滑っていく。
その感触が、豊海には酷く幸せに思えた。
「こんなに短くしちまって…。勿体無いなぁ……」
「そんなに似てるの?俺の髪……、美紅さんと…」
訊くと、桜音の指の動きが止まった。
触ってくれるのはいつでも髪だけだった。こうして抱きしめてくれていても、やはり桜音の興味は自分の髪だけなのだろうかと豊海は思った。
「そうだな……、真っ直ぐなところと艶のあるところは似てる。…でもこうして触ると、やっぱり違うよ。豊海の髪の方が細くて柔らかい」
短すぎて指に絡まなくなってしまったのが寂しいのか、桜音は名残惜しげに何度も豊海の髪を指で挟んだ。
「豊海の髪を洗うのが楽しみだった…。それは、最初は美紅のことを思い出したからだったけど、いつの間にか、ただ、豊海の髪に触りたくてそうしてたんだ……」
桜音の指が、いつの間にか髪から下りて豊海の頬に掛かった。
すっと顔が近付き、額に唇が降りると、豊海は驚いて桜音の身体を向こうへ押した。
「ごめん…。嫌だったか?」
桜音に訊かれて、豊海は首を振った。
「違う……。嬉しいけど…、でも、怖い……」
「どうして?」
「俺…、だって俺……、こんなことされたら、勘違いする……ッ。好かれてるのかと、勘違いするから……」
「豊海……」
桜音の手が、また豊海の頬を包んだ。
「勘違いなんかじゃないよ。…俺は、豊海のことが好きなんだ」
穏やかな目で、桜音は豊海を見つめた。
唇に浮かんだ優しい笑みを、豊海は幻を見るような目で見つめた。
「好き……?可哀想だから、そう言ってくれるの?」
豊海が訊くと、桜音は首を振った。
「そうじゃない。好きだから、好きだって言ってるだけだよ」
桜音の言葉に、今度は豊海が首を振った。
「違う……。桜音さんは今でも美紅さんを愛してる。……俺のことは、同情してるだけでしょ?俺が哀れだから、慰めようとしてくれてるんでしょ?」
再び、桜音は首を振った。
「違うよ。…そりゃ、美紅を想うのと同じ気持ちだとは言わない。今でも確かに、俺はまだ美紅のことを忘れられない。一生傍に居る相手だと思ってたから……。でも、美紅は死んだ。それを、俺はやっと受け入れられるようになったんだ。豊海が俺を好きになってくれたことが、本当に嬉しいんだよ。その気持ちを、大事にしたいって、そう思うんだ。心から……」
桜音の目を見上げていた豊海だったが、目を閉じるとそっと桜音の胸に額を預けた。
桜音の自分への感情が、恋愛感情だとは豊海には思えなかった。そこまで無邪気にはなれない。
でも、好きだと言ってくれた事が素直に嬉しい。
それが同情半分だったとしても、豊海は桜音の気持ちが嬉しかった。
「なら……、傍に居てもいい?少しだけ、甘えてもいい?」
桜音の気持ちに、少しだけ甘えさせてもらおうかと思った。
きっといつか、桜音も美紅のことを思い出にして新しい恋を見つけるだろう。
そうなるまでの間、桜音に好きな人が出来るまでの間、自分を傍に置いてくれたら嬉しいと思った。
「傍に居て欲しいのは俺の方だよ。……豊海、また、俺の傍に居て欲しい」
優しい桜音の言葉が、豊海の胸に染みた。
奇跡はちゃんと起きたのだ。
そう思って、豊海は桜音の身体に回した腕にそっと力を込めた。
髪を洗わなくても、豊海は休みの日になると屋上へ上がるのが習慣になった。
雨の日にも、時には傘を差して、それ以外は晴れた日も曇った日も、豊海は屋上へ昇った。
すると、いつもではないが、桜音がやってくるのが見える時がある。
豊海に気づいて、向こうから手を振ってくれる。その姿が見たくて、豊海は屋上へ行くのだ。
顔がはっきり見えなくても、桜音が笑っているのが豊海には分かる。
手を振って答えると、豊海は屋上から降りて部屋へ戻る。
そして今度は、桜音がドアをノックするのを待つのだ。
ドアを開けて、桜音が玄関に入ってくると豊海はその身体に抱きついて目を瞑った。
1週間に1度は、こうして会えるのに、それでも豊海は会う度に感動に似た感覚を味わった。
ギュッと抱きついて、目を閉じる。
桜音がここに居るのを確かめるように、幻ではないことを確認するように、豊海は桜音の感触を味わった。
「アイス買って来たんだよ。溶けちゃうぞ?」
笑いながらそう言い、それでも桜音は豊海が満足するまで抱きしめていてくれる。
「うん…」
と頷きながら、豊海はまだじっと桜音の胸にしがみ付いていた。
「……夜までずっと居るよ。だから、アイス食べよう?」
優しい言葉の後に、髪に唇が下りてきた。
豊海が不安に思っているのを、どこかで感じているのか桜音はその気持ちを慰めようとしているようだった。
「うん…」
今度は顔を上げ、豊海は桜音の身体から離れた。
「わ、凄い…。ハーゲンダッツだ」
渡された袋の中身を見て、豊海は嬉しそうに相好を崩した。
「抹茶が好きなんだよな?」
「うん。今、麦茶出すね…」
豊海はそう言って冷蔵庫から麦茶のポットを出すと、グラスと一緒にテーブルへ運んだ。
「頂きます」
嬉しそうにアイスクリームを食べ始めた豊海を見て、桜音は笑みを浮かべた。
「アイス1個でこんなに喜んでもらえるなんて、嬉しいよ」
「だって、これ、高いから…。滅多に食べないもん。…やっぱり美味しい」
「そうか。良かった…」
桜音はまた笑みを浮かべてそう言うと、自分もスプーンを取って食べ始めた。
「今日…、夜まで居てくれるの?忙しくない?何か用があったりしない?」
いつものように豊海が訊くと、桜音は手を止めて彼を見た。
「……ないよ。なんにも…」
「じゃあ、晩御飯作るね?何か食べたいものある?」
「いや…。何でもいいよ」
「ごめんね?レパートリー少ないから、いつも同じ様なものになっちゃって…。バイト先のメニューとか、今度、厨房担当のヤツに作り方訊こうかな」
「そんなことない。豊海の料理、美味しいよ」
「ホント?冷蔵庫に何があったかな?後で買い物行かなきゃ駄目かも…。あ、そうだ。仕事、どう?もう大分慣れた?この前、面白い先輩が居るって言ってたよね?あの…ッ」
ギュッと腕を掴まれて、豊海はビクッと身体を震わせると喋るのを止めた。
顔を上げると、桜音がじっとこちらを見ていた。
「どうしていつも、そんな風に必死で喋るの?前は、そんなじゃなかったろ?」
ゴクッと喉を鳴らして、豊海は唾液を飲み込んだ。
「ご…めん。煩かった……?ごめんなさい……」
不安げに謝った豊海に桜音は首を振った。
「そうじゃない。俺には豊海が何かを必死に隠しているように見えるんだよ。一体、何に怯えてる?」
訊かれて、豊海は急いで首を振った。
「な…、なんにも。怯えてなんか無いよ。…ごめん、変な気持ちにさせちゃって。あ、あ、そうだ。映画見る?この前借りて来たの、結構面白いと……」
「豊海ッ…」
グッと豊海の腕を引き、桜音は彼の身体を抱き寄せた。
「ここに居るだろ?」
ギュッと、豊海の身体を抱きしめて桜音は言った。
「ここに居る。傍に居るよ」
「……うん」
また、さっきのように目を瞑り、豊海は桜音の心音を確かめるようにして、耳を押し付けた。
「……もし……」
目を瞑ったまま、豊海は言った。
「もし、……好きな人が出来たら、黙って居なくならないでね?ちゃんと言って?……俺、邪魔したりしないから。ちゃんと言って?……お願い」
震える声で豊海が言うと、頭の上で桜音の溜め息が聞こえた。
「そうか。そんなこと考えてたんだ……」
顔を上げて、豊海は桜音を見上げた。
「だって俺、分かってるんだ…。桜音は……ッ」
チュッと唇が音を立てて落ち、豊海の言葉を途切れさせた。
突然のキスに驚き、豊海は片手で自分の口を塞いだ。
「何を分かってるの?」
じっと見つめられて、首を振ると豊海は桜音の身体から離れようとした。
初めての唇へのキスだった。
ほんの一瞬だったが、嬉しくて泣き出しそうだった。
そして、いけないと思った。
こんなことをされたら、どんどん自惚れてしまう。桜音を失った時、その辛さは激しくなるばかりだろう。
だが、離れようとした豊海を桜音は離さなかった。
「俺が、豊海をどんどん好きになってるって分かってる?会う度に、可愛くて堪らなくなってるって分かってる?……怖がらなくていい。怯えなくていいよ。俺は、ずっと傍に居るから。離したりしない。ほんとだよ……?」
「桜音……」
見上げた豊海の頬を桜音の両手が包んだ。
顔が近付き、またキスが落ちる。今度のキスは、一瞬ではなかった。
夢じゃないのだろうか………。
目を開けた時、まだそこには桜音が居た。
そして、溢れてきた豊海の涙を頬から拭ってくれた。
「いいの……?ほんとにいいの……?」
「豊海こそ、本当にいいの?」
悪戯っぽく笑いながら、桜音は言った。
「俺って案外、だらしないし、嫌なところもいっぱいあるし…。後悔しない?」
ブルブルと首を振り、豊海は桜音を見上げた。
「しない…。絶対しない」
「良かった……」
そう言うと、桜音はまた唇を近づけた。
アイスクリーム味の甘いキス。
不安はまだ、全部拭い去られた訳ではなかったが、豊海は全てを信じたいと思った。
奇跡はまだ、ずっとずっと続いている。
そして、このままずっと続くのかも知れないと、今はそう思えた。
「豊海の髪…、また洗いたいな…」
桜音の指が優しく髪を撫でた。
「うん……」
いい時も、悪い時も、髪を洗って………。
エスターのあの言葉が蘇る。
シャンプーの香りとともに、幸せがやってくる。
愛しい指が髪を撫でていくその感触を、豊海は目を閉じてじっと味わった。