shampoo-2-


奇跡のようなことが何遍も訪れ、豊海(とよみ)は憧れの桜音(おと)に振り向いてもらえた。
それは、本当に豊海にとっては信じられないようなことで、嬉しくて、幸せで、このまま死んでもいいとさえ思えるほどだった。
付き合うようになってもいつも遠慮ばかりしていたが、桜音が初めて唇にキスをしてくれたあの日から、豊海はやっと自分からも彼の携帯にメール出来るようになった。

“今週は木曜が休みだよ”

「だから、来て」
とは、まだ言えない。それでも祈るような気持ちでメールを送ると、桜音はすぐに、

“じゃあ、仕事が終わったら行くよ”

と返事をくれる。
それを見て、豊海は幸せに包まれるのだ。
相変わらず豊海は、桜音が来てくれる日はアパートの屋上に昇って待った。
夜でも街頭の灯りに照らされて桜音の姿が見えると、今度は急いで部屋に下りる。
余り心待ちにしているのを知られても重荷になってしまうのかと思う。だが、此方に向かって歩いて来る桜音の姿をどうしても見たいと思ってしまうのだ。
先週は、日曜日に初めて外で会った。
何を着て行こうか前の晩から迷いに迷い、少ないワードローブの中からあれもこれもと引っ張り出しては鏡の前で唸った。
どうせ、いつもお洒落していないことは知られているのだが、一緒に歩いてくれる桜音に恥ずかしい思いをさせたくないと思ったのだ。
靴は桜音にプレゼントされた、あの赤いスニーカーを初めて履いた。
ドキドキしながら豊海が行くと、待ち合わせ場所で会った途端に桜音は気付いてくれた。
「あ、それ…。やっと履いてくれたんだ?」
苦笑しながらそう言われ、豊海は頷いた。
「だって…、勿体無くて…」
「何言ってるの?履いて欲しくてあげたのに。もしかして、気に入らなかったのかなって、ずっと思ってたんだ」
その言葉に、豊海は必死で首を振った。
「ううんっ、ううんっ、そんなことないよ。ご、ごめん…、ホントに勿体無くて履けなかったんだ…」
豊海が言うと、桜音は笑いながら彼の頭を撫でた。
「全く…、可愛いことばっかり言うよ、豊海は…」
「そ…、そんなことないけど…」
嬉しそうな顔で頭を撫でられて、豊海は恥ずかしくなって目を伏せた。
その日は、映画を見て食事をして、それから目的も無くウィンドゥを眺めながら街を歩いた。
何をしていても、何を見ていても、豊海は心がふわふわと舞い上がっていくようで、嬉しくて堪らなかった。
(このまま、時間が止まってしまえばいいのに…)
そんな風に感じるほど、豊海は幸せだった。後からも、あの日のことを何度も何度も思い出し、幸せを噛み締めたのだ。
そして今日も、屋上で桜音の姿が見えるのを待ちながらあの時のことを思い出していた。
だが、いつもの時間になっても姿が見えない。
手すりに顎を乗せて、道の向こうを眺めていると、ポケットの中で携帯が鳴り出した。
ハッとして取り出し、携帯を開くと、メールは桜音からだった。

“ごめん。今日は行けなくなった。残業だって…。ごめんな?”

「え…?」
文面を見てドキリとする。
何故ならこれが、初めてではなかったからだ。
この前の休みには来てくれたが、その前の時にはやはり同じように“行けなくなった”とメールが来た。
豊海はさっきまでの幸せな気持ちが急に萎んでいくような気がした。
そして、急速に不安が押し寄せてきた。
「もしかして……」
もう、飽きられたのかも知れないと思った。
だが、すぐに勢い良く首を振ると自分に言い聞かせるように呟いた。
「ううん、違う。だって、残業だって書いてある…。仕事なんだよ。仕方ないじゃん」
そう言って笑みを浮かべると、豊海は桜音に返信を打った。

“分かった。残念だけど、仕方ないよね。また、メールするから。仕事、頑張ってね!”

桜音は同情じゃないと言ってくれた。好きだとも言ってくれた。
ずっと傍にいて、離したりしないとも。
その言葉を信じている。だから、不安に思う必要など無いのだ。
屋上のドアを開け、部屋へ戻る為に階段を下りながら、豊海は何度も何度もそう思おうとした。
だが、正直なところ、怖くて仕方なかったのだ。
桜音はゲイではない。自分を好きになってくれたのは、本当に奇跡のようなことだった。
だから、もし、桜音の傍に自分よりも魅力的な女性が現れたら、きっと彼はそちらに目を向けてしまうだろう。
振り払おうと思っても、いつも、そんな不安が豊海の心の隅にあった。
何故なら、付き合って3ヶ月になるが、桜音はキス以上のことをしてくれようとはしなかったのだ。
また髪を伸ばせと、また洗いたいと言ってくれたが、伸びてきた豊海の髪を優しく撫でてくれることはあっても、また一緒に風呂に入ろうとはしなかった。
キスしても、抱きしめてきた手を身体に這わせることも無い。多分、桜音は自分に性的な意味での魅力を感じてはいないのだろうと豊海は思った。
「やっぱり、恋人じゃないのかな…?」
桜音にとって、自分は“可愛い弟”くらいの存在なのではないだろうかと、豊海は感じることがあった。
確かに、自分で見ても魅力があるとは思えない。
以前、興味本位でバイト先の先輩が無理やり自分を抱こうとしたが、あれだって、彼女と上手くいかなくなったモヤモヤを、ぶつけようとしただけだと思っていた。
「ガリガリだし……。抱きたい訳無いよ、こんな身体…」
ハーッと溜め息をついて、豊海は鏡から目を逸らすとコップから歯ブラシを取って歯磨き粉をつけた。
桜音が来ないなら、もうご飯も食べる気がしなかった。作ってあったおかずを冷蔵庫に仕舞い、豊海は洗面台に向かった。
まだ7時にもならなかったが、何もする気が起きなくなってしまった。歯磨きだけして、横になってしまおうかと思ったのだ。
そんな風に思えるほど、豊海の生活は桜音が中心になってしまっていた。
布団を敷いて横になると、豊海は目を閉じた。まだ、眠れる訳は無かったが、それでも構わなかった。



翌朝、いつものように起きて、いつものように学校へ行き、そして夜はいつものようにアルバイト先へ向かった。
今日は早番で、同じシフトだった仲のいい志田とスタッフルームで顔を合わせた。
彼女が出来たらしく、志田は近頃、暇さえあればメールをしている。豊海がドアを開けると、着替えを終えてロッカーに寄り掛かり、またメールをしていた。
「お疲れー」
言いながらも、視線は携帯から離さない。豊海は少々苦笑しながら挨拶を返した。
自分のロッカーを開けて荷物を仕舞い、制服に着替えていると、メールを送信し終えた志田が言葉を掛けてきた。
「豊海さー、最近、桜音に会った?」
「え…?」
突然、桜音の名前を出されて豊海は少々慌てた。だが、すぐに笑みを浮かべると答えた。
「う、うん…。たまに会ってるよ……。なんで?」
「いや…、この前、友達と呑んだ時に見かけたんだ。あっちも会社帰りに呑んでたみたいで、ほら、前にここに来た女の子とさ、あともう1人男と、それから彼女かなぁって思ったんだけど、綺麗な女の子をもう1人連れてたよ」
「え……?」
前に来た子というのは美穂だろう。それは良かったが、豊海は志田の“彼女”という言葉にギクリとした。
「か、彼女……?」
聞き返すと、志田はまた携帯を開いて視線を落としながら頷いた。
「ああ。桜音から何も聞いてねえの?」
「う、うん…。別に…」
「ふぅん…。じゃあ、違うのかな?でも、ただの同僚にしてはちょっと違う感じだったけどなぁ…。ダブルデートかと思ったから遠慮して声掛けなかったのに。だったら、声掛ければ良かったかな。余計な気を回しちゃったよー」
「……そう」
頷くと、豊海は急いで着替えを終え、まだ携帯を離さない志田を置いて店に出た。
何も聞いていなかった。
だが、桜音はきっと会社帰りに同僚と呑んでいただけだ。だから言わなかったのだ。
(そうだよ。いちいち全部を俺に話してくれる訳じゃない。美穂さんと一緒だったって言うし、会社の人と呑みに行くことなんて、しょっちゅうあるんだから……)
無理やりそう自分を納得させると、豊海はわざと元気良く店のスタッフに挨拶をした。
お客が入ってくると、忙しくなって、豊海も余計なことを考えずに済んだ。
休憩時間も良く喋る女の子のスタッフと一緒だったので、お喋りしていて余り考えなかった。だが、バイトの時間が終わってスタッフルームへ引き上げてくると、途端に気分は落ち込んでいった。
自然と力が抜けて、思わずロッカーのドアに寄り掛かると、溜め息が口を突いて出た。
“彼女”なんかじゃない。
「だって、好きだって言ってくれた。同情じゃないって…、言ってくれたもん…」
そう呟いた後で豊海は自分の唇に触った。
「キスだって、何度も……」
以前、もし本当に好きな人が出来たら言って欲しいと言った時、そんな心配をする必要は無いと桜音ははっきりとそう言ったのだ。
身体を起こしロッカーの扉を開けると、豊海はさっさと着替えを済ませた。そして、鞄を肩に掛けて携帯電話を取り出すと、裏口から外へ出ながらメールを打ち始めた。

“もう、寝ちゃった?今夜は早番で、今、バイト終わったところなんだ”

送信して、携帯を握り締めたまま豊海は歩き続けた。すると、間も無く着信音が聞こえて、すぐにまた携帯を開いた。

“まだ起きてたよ。お疲れ様。”

その文面を見て、豊海はすぐにまた返信を打ち始めた。

“電話したら怒る?声、聞きたいんだ…。”

声を聞いて安心したい。
一緒に居た女性のことは訊けなくても、桜音と話せたら安心出来るような気がしたのだ。
送信して待つと、今度は 着メロが鳴り出した。
ハッとしてすぐに通話ボタンを押して耳に当てる。すると、桜音の声が聞こえてきた。
「もしもし?」
「桜音…。ご、ごめんね?急に……」
「いいよ。どうかした?何かあったとか…?」
心配そうな声だった。向こうには見えないのに、豊海は慌てて首を振った。
「ううん。何にも無いよ。ただ、声、聞きたくて…。我侭言ってごめんね?」
「いや、いいよ。こっちこそ、この前の休みに行けなくてごめん。急に上司に残業って言われて…。この所、結構仕事忙しいんだ」
「そうなんだ、大変だね。あ…、俺のことは気にしなくていいよ。…でも、あの…、日曜日は駄目?もし、都合良かったら会えないかなって…」
「え…?あ…、うん」
困惑したような桜音の声に、豊海はまた胸がズキンと痛むのを感じた。
「あ、無理だったらいいんだけど…。もし、ちょっとでも会えたら嬉しいなって思ったから…。ご飯…食べるだけでも……」
いけないと思いながらも声が少し震えてしまった。
気付かれたらまた、心配を掛ける。平気な振りをしていつもと同じように話さなければいけないのだ。
「この前さ、一緒に出掛けたの凄く楽しかった。…あ…、べ、別に外で会いたいって言ってる訳じゃないよ。いつもみたいにウチで会えるだけでいいし。あの…、ごめんッ、忙しかったらいいんだ。全然、その…」
普通に話そうと思って必死になればなるほど、豊海はなんと言えばいいのか分からなくなってしまった。
すると、僅かな沈黙の後に桜音の声が聞こえてきた。