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「ごめん…。日曜はちょっと予定が入ってて…」
「あ、うん」
酷く落胆してしまったが、それを声に表すまいとして豊海はわざと明るく答えた。すると、また桜音の済まなそうな声が聞こえた。
「来週、平日の休みは?残業じゃなかったら行けると思うから…」
「ほんと?多分水曜だと思う。あ、でも、シフトが変更になったらまたメールするよ」
「うん、分かった。…豊海、ホントにごめんな?…また、その内に何処かに行こう」
気の所為だとは思う。
でも、豊海にはそう言った桜音の声の調子が沈んでいるように感じてしまった。
「…ううん。声、聞けたから嬉しかった。…ありがと」
「いや…。じゃあ、おやすみ」
「うん…。おやすみ」
プツリ、と耳元で電話の切れる音がした。
いつも、桜音と電話している時は切るのが嫌で躊躇ってしまう。だから、豊海はいつも桜音の電話の切られる音を聞くことになるのだ。
慌てて自分も携帯を切り、ポケットへ仕舞った。虚しく響く、切れた電話の音を今日は特に聞きたくなかった。
“予定が入っている”と、桜音は言った。
普通だったら、付き合っている相手と会うことを1番先に考える。でも自分は桜音に、他の予定の次にしか考えてもらえないのだと知った。
(でも…、そういうことだってあるよ。大事な用なんだきっと…。何時も1番じゃなきゃ嫌だなんて我侭過ぎる。何考えてんだろ……?)
そう思おうとしたが、その傍から、自分だったら何を置いても桜音のことを1番に考えるのに、と思ってしまう。
そして、自分と桜音の相手を思う心には、随分と差があるのだと改めて感じてしまうのだった。
もしかすると、この前出掛けたことも、桜音はデートだなんて思っていなかったのかも知れない。自分ひとりが舞い上がっていただけなのだろうと豊海は思った。
最初は会いに来てくれるだけで嬉しかった。
一緒にご飯を食べて、テレビを見て、それだけで嬉しかった筈だった。夢のようだと思っていたのだ。
でも、いつの間にか、もっと沢山の幸せを自分は望んでいたのだろう。
「駄目だな…、俺……」
そう呟いて、鞄を背負い直すと豊海は歩き出した。
話しながら歩いていて、いつの間にか桜音と良く来たカフェの前まで来ていた。
その前を通り過ぎ、足早にアパートへ向かう。
1人きりでカフェでお茶を飲むような贅沢を、豊海は今までにしたことが無かった。それに、桜音が居ないのにひとりで入っても何をしていいか分からない。
ガラス窓の向こうを覗くことも無く、豊海は灯りの中から暗い歩道へと足を踏み入れた。

思い出して、またふと唇に触れる。

桜音がキスしてくれたことが、自分にとっては本当に頼りなのだと豊海は思った。
もっともっと、キスして欲しい。そしてずっと、あの腕の中に居たい。
もし、桜音が去っていったら、一体、自分はどうなってしまうのだろう。
前に失ったと思った時より、きっと、もっとずっと辛いだろう。
それを考えると怖くなる。
怖くて、足が竦んで、その場に立ち止まると豊海は両手で自分の腕を抱えた。
残業じゃなかったら来週の休みには来てくれると言った。でももし、また来られなくなったと言われたら、今度こそ泣いてしまうかも知れない。
志田のことをほんの少し憎らしく思った。あんな話を聞かなければ、これほど不安に思うことも無かっただろう。
一体、志田が彼女だと思った人はどんな人だったのだろうか。
知りたくないと思う反面、無性に顔を見てみたいと思った。
(明日…、行ってみようかな……)
桜音の会社にこっそりと行ってみようかと思った。
明日は遅番なので退社時間に行ってみても、アルバイトには間に合う筈だった。
会社に行っても志田の言っていた女性に会えると思っている訳ではなかった。だが、何かしなくては居られないほど、豊海の不安は大きくなり過ぎてしまっていた。
ギュッと、もう一度自分の腕を掴み、豊海は顔を上げて歩き出した。



会社の場所は、前に桜音から聞いていた。
分かり辛い所でもなく、駅からも近かったので豊海は迷わずに会社の前まで行く事が出来た。
下からビルを眺め、ほんの少しブルッと震えた。
丁度退社時間だったので、入り口から何人か社員が出て来始めた。見られないようにビルの端へ移動すると、豊海は隣のビルの入り口へ隠れるようにして立った。
その時、ビルのガラスに自分の姿が映るのを見た。
(…何やってんだろ……?)
なんと見っとも無いのだろうかと思った。
こそこそとこんな所へ来て、相手を盗み見ようだなんて、なんて醜い人間なのだろうか。そう思って、豊海は自分の姿から目を逸らした。
(こんなんだから駄目なんだ…。桜音だって、嫌になるよ…)
クッと顎を上げると、豊海はビルの陰から歩道へ出て駅に向かって歩き出した。
桜音は残業が無ければ水曜日には来てくれると言った。余計なことは考えず、それを信じて待てばいいのだ。
そう思った時、豊海を後ろから呼び止める人があった。
「豊海さん?」
ハッとして振り返ると、少し離れた所から足早に近づいて来る美穂の姿があった。
「あ…。こ、こんにちはっ」
慌てて頭を下げ、豊海は近づいて来る美穂を待った。
相変わらず綺麗な人だと思った。
この、綺麗な人とそっくりな双子の姉と、嘗て桜音は愛し合っていたのだ。
以前、桜音の手首にあった美紅からのプレゼントらしいブレスレットは、豊海と付き合うようになって暫くすると、いつの間にか手首から消えていた。
それは、豊海にとっては嬉しいことだったが、だからと言って桜音が美紅を忘れてくれたのだとは思っていなかった。
「桜音君に会いに来たの?」
訊かれて、豊海は慌てて首を振った。
「い、いえッ。ちょっと、用があって近くまで来て…、ただ、通り掛かっただけです」
「そうなの?…でも、今日は待ってたんだとしても駄目かも知れないわ。桜音君、多分、デートだと思うし…」
「え……?」
知らずに顔を強張らせ、豊海は美穂に聞き返していた。
「デート…ですか?」
すると、笑いながら頷いて美穂は歩き出しながら言った。
「私が(けしか)けたんだけどね、ウチの会社の後輩の子が、桜音君が入社してすぐに一目惚れしたらしくて…。私の仲良くしてる同期の子に相談してきたらしいの。で、私が橋渡しして、何度か呑みに行ったりしたんだけど、そしたら桜音君の方も満更でもなかったみたいで…」
楽しそうに説明する美穂と肩を並べ、豊海はただ、黙って歩いた。
「綺麗な子なのよ。美紅とはタイプが違うんだけど…。でも、桜音君にとってもいいことだと思うの。だって、何時までも美紅のことを引き摺ってて欲しくないんだもの」
「そう…ですよね」
豊海がそう言うと、美穂は頷いた。
「死んでからもあんなに想われて、美紅は幸せだと思うわ。…でも、桜音君だって幸せにならなきゃ。美紅は心配だと思うの…」
黙って頷き、豊海は美穂と一緒に駅前まで歩いた。
そのまま電車に乗ろうとする美穂と本屋へ寄るからと言って別れ、豊海は適当な店に入って商品を見るでもなく歩き回った。
(嘘だ…。デートだなんて……、嘘だ…)
桜音は何も言わなかった。
付き合いたい女性が居るなんて、一言も言わなかった。
自分に嘘をついて、他の相手と会っているなんて嘘に決まっていると思った。いや、そう思いたかったのだ。
思いたくて、豊海は必死になっていた。
「嘘…、嘘嘘嘘……」
呟いていることにも気付かず、傍を通った女性が気味悪そうに豊海を見た。だが、豊海はそれにも気付かなかった。
何かに躓いて、かくんと、膝が折れた。
そのままそこに倒れると、床に手を着いたまま豊海は動かなくなった。



なんとか気を取り直して、やっとアパートに帰って来ると、豊海はアルバイトに行く為に仕度を始めた。
遅番の時は軽く食事をしてから出掛けるのだが、今日は食べる気にはなれなかった。
桜音にメールしてみようかと何度も思ったが、怖くてそれも出来なかった。
洗ってあった制服を鞄に詰めようとして、自分の手がガタガタと震えていることに気付いた。
「あ…、あれ…?」
震える手が思うように動かず、鞄の中に服を入れられない。そして豊海は、手だけではなく自分の体中が震えていることに気付いたのだ。
「あ……」
焦って両手でギュッと身体を抱きしめた。だが、震えは止まらない。
それどころか、益々酷くなるばかりだった。
「な、なんだよ…ッ。し、仕事…行かなきゃ…。こ、これじゃ、行けないよ…っ」
小さく丸まり、豊海は何とか震えを止めようと必死になった。だが、どうにもならない。
「う…、うぅ…、う……」
遣る瀬無さに、涙が出た。
心の中の不安に、押し潰されそうになっている自分に気付いてしまった。
やっぱり桜音は行ってしまうのだろうか。
怖がっていた通り、新しい恋を見つけてしまったのだろうか。
だからもう、自分と別れたいと思っているのだろうか。
「最初から、そう言ったんじゃないか…。自分からそう言ったんじゃないか…」
好きな人が出来たら邪魔はしない。だから、黙っていなくならないでくれと、桜音に言ったのは自分なのだ。
だが、いざその時が来たのだと思ったら、こうして身動きさえ取れなくなってしまうのだ。 余りにも弱過ぎる自分に、豊海は嫌気がさした。
「い、行かなきゃ……」
こんなことでアルバイトは休めない。他の学生スタッフと違って豊海には生活が掛かっているのだ。
震える身体を励まし、何とか仕度を終えると部屋を出た。
アルバイト先も学校も歩くには少し遠いが、交通費を節約する為にいつも徒歩だった。
両手でギュッと自分の身体を抱きしめたまま、豊海は必死で足を動かした。
きっと、働いている内に落ち着いてくる筈だ。夢中で働いていれば、きっと悪い考えも何処かへ行ってしまう筈だ。
(大丈夫…。大丈夫だよ。すぐに忘れる…。忘れるから…)
だが、やっと店へ辿り着くと、豊海の顔を見た店長が驚いて言った。
「おい辛島、顔色が真っ青だぞ。大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
すぐに豊海は答えたが、店長の眉間に刻まれた皺は伸びなかった。
「具合悪いんだろ?無理するなよ。ウチは飲食店なんだから、病気の人間は無理しないで休んでもらわないと却って困るんだ。今日はいいから、家でゆっくり休めよ。な?」
「で、でも俺、病気じゃありませんからっ」
必死でそう言ったが店長は豊海の言葉を信じようとはしなかった。
「今は感じないのかも知れないけど、明らかにおまえ、病気だって。じゃなきゃ、そんな顔色してないよ。な?いいから、動ける内に帰れ。熱かなんかがドーっと出たら困るぞ」
店長の言葉に、豊海はこれ以上逆らうことも出来なかった。仕方なく頷くと、店を出てまたトボトボと帰途に着いた。
だが、ここまで歩いて来て、そして店長と短い間だけでも話せただけで、豊海はさっきよりも少し元気になっていた。
身体の震えもいつの間にか止まっていたし、ずっとスムーズに歩くことが出来た。
何度か桜音と来たことのあるカフェの前に差し掛かり、豊海は店に入った。
考えてみれば、食べていないのもそうだったが、学校で昼にペットボトルのジュースを飲んでから、何も飲んでいなかった。
大きいサイズのアイスティを買い、空いている席に座ると、豊海はすぐにアイスティに口をつけて一気に半分程を飲んでしまった。
そうすると、また少し落ち着くことが出来た。
鞄から携帯電話を取り出すと、豊海は思い切って桜音にメールを打った。