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“今日も残業?それとも、もう家かな…?”
暫く待ったが、返信は来なかった。
豊海はもう一度画面を開くとまたメールを打った。
“今日、急に休みになったんだ。気がついたら電話してくれたらなって…。会いたいけど、急には無理だよね?”
送信ボタンを押し、豊海は溜め息をひとつつくと携帯を閉じた。
桜音が、美穂の言ったように本当にデートしているのなら、今夜は返事が来ないだろう。
だが、もし今夜返事が来たら、豊海にもまだ望みはあるのかも知れない。
手に携帯を持ったままでストローを銜え、今度は少しずつアイスティを飲んだ。
部屋に帰るのが嫌だった。
一人ぼっちの部屋に帰って、来るかどうかも分からない桜音からの電話を待ち続ける自分を想像すると堪らなく嫌になった。
だがきっと、今夜自分は眠らずにずっと、桜音からの電話を待つに違いない。それを、豊海は分かっていたのだ。
だが、幾らゆっくり飲んでもいつかは飲み終えてしまう。
氷ばかりになったグラスを、豊海は悲しげに見つめた。
結局、その夜は桜音からの電話は来なかった。
そして、自分を嫌悪しながら、豊海はやはり桜音からの電話を待って眠れなかった。
真夜中を過ぎた頃になって、メールで返事が来た。
返事が遅れたことを謝る文章の後に、今夜は約束があって、マナーモードにしたまま携帯をチェックしなかったのだと打ってあった。
“電話しなくてごめん。でも、悪いけどもう眠りたいんだ。また明日、電話するよ。ごめんな?”
そう締め括って、メールは終わっていた。
「約束……」
やはり、美穂が言っていたように同じ会社の女性とデートしていたのだろうか。
彼女と会っていたから、誰にも邪魔されたくなかったから、携帯もマナーモードにしておいたのだろうか。
そして、その余韻を取っておく為に、自分の声を聞くのが嫌なのだろうか。
駄目だと分かっていても、豊海はどんどん悪い方へ考えてしまっていた。
そして結局、朝まで眠ることが出来なかった。
眠っていない所為で気分が悪く、ろくに食事を取らずにいた所為もあって胃も痛かった。
だが、今日は学校もアルバイトも休む訳にはいかない。
重い心と身体を励まして学校へ行く支度をすると、豊海は部屋を出た。
授業を終え、今日は早番だったのでそのままアルバイト先へ向かった。
店長に昨日のことを詫びると、却って心配されてしまった。だが、今日はもう大丈夫だからと言い、スタッフルームへ着替えに入った。
週末の所為もあって忙しく、働いている間は嫌なことも忘れていられた。
だが、仕事が終わるとスタッフルームで椅子に座り込んでしまった。
眠っていなかったので疲れが酷かったのだ。
このまま横になりたいと思ったが、まさかここで寝ていく訳にはいかない。豊海はのろのろと立ち上がると、なんとか着替えを終えて鞄を持った。
早く帰って横になりたかったが、外に出ても、疲れ過ぎていて余り速く歩くことが出来なかった。
重い足を引き摺るようにしてアパートへ戻ると、街灯に照らされて誰かがこちらを見ているのに気付いた。
(桜音……?)
すぐにそれが桜音だと気付くと、豊海は今までの疲れも忘れて弾かれたように駆け出した。
「桜音ッ…」
「お帰り。ごめん、急に来て…」
桜音の言葉に豊海は激しく首を振った。
「ううんッ。ううんッ、俺こそ待たせちゃってごめん。今日は忙しくて時間通りに上がれなくて…」
縋り付かんばかりに顔を見上げた豊海に今度は桜音が首を振った。
「いや…、俺が勝手に来たんだから…。それに、昨夜も電話出来なくてごめん」
「ううん…。そんなのいいよ。行こう?寒かったろ?すぐになんか、温かい物でも淹れるし…」
自分を見る桜音の顔が何だか暗い表情に見え、豊海は急に怖くなった。
来てくれた事が嬉しくて最初は弾むような気持ちになったが、もしかすると桜音は、ただ会いに来てくれただけではないのかも知れない。
「ご、ごめんね?俺があんなメールしたから、気になったんじゃない?あの、別に深い意味は無くて、ホントに昨日は急に休みになったから、もしかして会えたらな…って思っただけなんだ。疲れてるのに、ホントごめん…」
部屋に入ると灯りを点け、桜音を座らせると、豊海はすぐに台所に立って薬缶に水を入れ始めた。
そうしながら捲くし立てるようにして豊海が言うのに、桜音は首を振った。
「いや…。今日来たのは、ちょっと話があったからなんだ…」
その言葉と、そして声の調子に豊海はドキリとした。
やはり、桜音は自分の聞きたくない話をしに来たのだろうか。
だから、こんな時間にわざわざ待っていたのだろうか。
「も、もしかして、来週も駄目なの?だから今日来てくれたとか……?」
違うとは思ったが、豊海はわざとそう訊いた。
すると、桜音は一瞬躊躇った後で首を振った。
「いや……」
お湯が沸いて、豊海は火を止めると、カップにインスタントコーヒーを入れお湯を注いだ。
ふたつのカップをテーブルの上に置き、豊海はやっと上着を脱いで桜音の隣に座った。
そのカップに手を伸ばそうとはせず、桜音は豊海を見て言った。
「豊海…、昨日、会社へ来たんだって?」
咎めるような調子ではなかった。だが、豊海はハッとして桜音の顔を見た。
「ご…、ごめんなさい。別にあの…、桜音を待ってるつもりだったとかじゃなくて、ただ、近くまで行ったから前を通っただけなんだ。…ごめん、気を悪くした?ごめんなさい…」
「違うよ。謝ることなんかない。来たことはなんとも思ってないんだ。ただ…、今日、会社で美穂ちゃんから話を聞いたから…」
言葉を途切れさせると、桜音はカップに手を伸ばしてコーヒーを一口飲んだ。
「豊海こそ、吃驚したんじゃないかと思って…。だから昨夜、メールくれたんじゃないのか?」
「お…、俺……」
言葉を探して、豊海は目を泳がせた。
「俺、別になんとも思ってないよ。美穂さんは何か勘違いしてるんだろ?あんな話、信じてないし…。だから俺、気にしてなんかないから…」
「豊海……」
顔を上げて、豊海は桜音を見た。
「ね?そうだよね?」
望みを繋ぐように、豊海は訊いた。
だが、桜音は笑ってはくれなかった。
「豊海のことは本当に好きだよ。それは嘘じゃない。…可愛くて堪らなくて、大事にしたいと思った。傍に居たいと思った。だから、ただの友達じゃなく恋人になれると思ってたんだ……」
話し始めた桜音は酷く辛そうだった。
その言葉を聞きながら、豊海は段々に俯いてしまった。
「でも…、俺にとって、どうしても越えられない一線があった。……最初から分かっていた筈だった。今更って言われるのは分かってるんだ。でも…、幾ら豊海を可愛いと思っても、抱きしめる以上の欲望を感じることが出来なかった。…段々に、何も疑わずに俺を見つめる豊海を見ているのが辛くなった。健気なことを言われる度、どんどん罪悪感が増していった…」
豊海の手が膝の上にあった自分のシャツをギュッと掴んだ。
予想していたことが、今、現実になったのだと知った。
やはり自分は、桜音の特別にはなれなかったのだ。
言葉を発しようとすると、手が震えた。その、震える手を更にギュッと握り、豊海は唇を開いた。
「どうしても…、駄目なの?……俺…、なんでもするし、桜音の迷惑になるようなことは絶対にしないから…」
顔を上げ、涙のいっぱい溜まった目で豊海は桜音を見た。
「抱いてくれなくていいよ。嫌だったらキスもしてくれなくていい。…たまに会って、ご飯食べたり、話したり…、それだけでいいから…。それだけで…、いいから……」
ぼろぼろと、豊海の瞳から涙が溢れた。
「豊海……」
辛そうに名前を呼ぶと、桜音はゆっくりと豊海の身体を胸に抱いた。
「ごめん…。傍に居れば居るだけ、お互いに辛くなる。……ごめんな?豊海は最初から諦めてくれようとしてたのに、それなのに俺が中途半端なことをしたばっかりに、またこんなに傷つけた。謝ったって、許されないのは分かってるよ。取り返しのつかないことをしてしまった……。ごめん、豊海…、ごめん……」
ひくっ、と喉が鳴った。
桜音の胸に顔を押し付けたままで豊海は言った。
「好きなの…?美穂さんが言ってた人のこと、好きになったの?だから駄目なの……?」
桜音は答えなかった。
ただ、泣きじゃくる豊海の身体を、力を込めて抱きしめただけだった。
何度も何度も、気の毒になるくらい桜音は豊海に謝った。
やっと泣き止んだ豊海を置いて行くことを躊躇うように、何度も振り返り、だが、とうとう部屋から出て行った。
桜音が行ってしまった後で、豊海はまた泣いた。
そして、夜が明けた頃になって、まるで瘧が落ちたように豊海は泣き止んだ。
全て終わったのだと思った。
そして、自分は変わらなければいけないのだと思った。
男の癖に、こんな風にめそめそして、根暗で友達も居ないような人間を、桜音でなくても愛してくれる訳が無い。
今までの自分を変えたい。
もっとしっかりして、明るくなって、誰からも好かれるような人になりたかった。
そして、もう1度、会うことが出来たら、桜音に見直されるようになりたかった。
のろのろと立ち上がり、豊海は風呂場へ行くと湯船にお湯を入れた。
身体も髪も洗って、さっぱりと生まれ変わったようになろうと思った。少し眠って、それから学校へ行って、夜のアルバイトも休まずに行こう。
人と接して、話をして、此方から話しかけて友達も増やそう。
桜音にもう、心配されないように、1人でも大丈夫だと思ってもらえるように、自分を変えるのだ。
湯船にお湯が溜まるのを待って、豊海は風呂に入った。
泣き過ぎて頭がずきずき痛んだが、熱い湯に浸かり髪を洗うと少し気分が良くなった。
入浴でまた体力を使った所為か、出てくると眠くなり、布団も敷かずにクッションに濡れた頭を載せると、そのまま眠ってしまった。
目覚めたら、変わるのだ。
そう思いながら、豊海は眠りの淵に落ちて行った。