shampoo
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上がり時間が来て、豊海はスタッフルームへ入ると着替えをして外へ出た。
すると、さっきとは違ってラフな服装に着替えた桜音が、大きなペーパーバッグを持って店の入り口に立っていた。
「お疲れ」
にこやかにそう言って、桜音は豊海が近付いて来るのを待った。
「待った?ごめんね?」
「いや、大体時間は分かってたから合わせて来たんだ」
「そうなんだ…。でも、こんな時間にわざわざ来なくても良かったのに…」
そう言って豊海が目を逸らすと、桜音はちょっと苦笑した。
「いや…。あんな出て行き方しちゃったし、ずっと気になってて……。随分長い間世話になったのに、不義理な奴だと思ったろ?」
その言葉に、豊海は目を逸らしたまま首を振った。
「そんなことないよ。……ただ、俺……」
木下とのことを誤解して出て行ったのではないかと訊きたかったが、言い出せなかった。
豊海が口篭ると、桜音は彼の顔を覗き込む様にして言った。
「なあ、何処かに入ろうか?ファミレスとか……。豊海、腹減ってないか?だったら、なんか奢るし…」
言われて豊海はすぐに首を振った。
「ううん。…良かったら、ウチに来ない?お茶ぐらいは出すから……」
「そうか?じゃあ、そうするか…」
もしかして、部屋に自分と2人きりになるのが嫌で断られるのではないかと豊海は思った。だが、桜音は気にする様子も無くあっさりと承知して、豊海のアパートへ足を向けた。
「どうせ、始発が出るまで帰れないし、ちょっと居させてもらっていいかな?」
アパートに着いて豊海が鍵を開けると、桜音はそう言った。
「あ、うん。俺は全然…」
「豊海は寝ちゃっていいよ。俺は勝手に出て行くし」
「うん…」
頷いて豊海が部屋へ上がると、桜音も続いて上がって来た。
勝手知ったる、で、桜音は以前と同じように、何も言われなくても座卓の前に座った。
豊海は鞄を下ろすと、手を洗って冷蔵庫から麦茶を出した。
それをふたつのグラスに注ぎ、座卓の上に置くと自分も桜音の前に座った。
「ありがとう」
言われて、ちょっと頷いた豊海の前に、桜音は持って来たペーパーバッグを置いた。
「これ、受け取って?」
「……なに……?」
手を伸ばさず、ペーパーバッグを見つめたままで豊海は言った。
すると、手を出さない豊海の代わりに桜音が袋を掴んで中から箱を取り出した。
「スニーカーなんだ。何にしようか迷ったんだけどさ、豊海の履いてるの、結構年季が入ってたから……」
「え…?」
驚く豊海の前で、桜音は箱を開けると中から赤いスニーカーを取り出した。
見ると、結構、高いブランドのものでサイズもちゃんと合っている。差し出されて、豊海は迷いながらもそれを受け取った。
「こ、こんなに高いの……」
戸惑っていると、桜音は笑いながら言った。
「何言ってるんだ。俺なんか何ヶ月も世話になったのに…」
「だ、だって、ちゃんと食費貰ってたし…」
「いや、でも家賃も光熱費も入れてないし。豊海は自分のバイト代だけで暮らしてるのに、きつかったと思う。ホント、ありがとうな?」
言われて、豊海は首を振った。
桜音からのプレゼントが素直に嬉しい。手に持ったスニーカーを思わず抱きしめたくなり、豊海はそれをテーブルの上の箱に戻した。
「俺こそ、ありがとう…。凄く嬉しい。ホントに、………嬉しい」
「良かった。喜んでもらえて……。あ、それから……」
言いかけてポケットを探ると、桜音は名刺大のメモを取り出して、テーブルの上に滑らせるようにして豊海の前に置いた。
「俺の携帯の番号とメールアドレス。やっと買ったから、置いてくよ。何かあったら、連絡して?」
その言葉に驚き、豊海は目の前に置かれたメモを信じられない思いで見つめた。
きっと、これっきりで切られるのだろうとばかり思っていた。
けじめをつける為に礼に来たのであって、桜音と自分の関係はこれで終わりなのだと思っていた。まさか、連絡先を貰えるなんて思ってもいなかったのだ。
鼻の奥が熱くなり、豊海は目を閉じた。
すると、ホロリと涙が一粒、閉じた瞼から零れ落ちた。
「豊海……?」
それに気づくと、桜音は驚いて声を掛けた。
俯いたままで少し笑い、豊海は急いで涙を拭いた。
「ひとつ…、訊いていい?」
「え?…あ、うん、なに?」
何故豊海が泣くのか分からずに、桜音は戸惑ったままで答えた。
「なんで……、俺の髪を洗ったの……?」
目を上げて、豊海はやっと桜音を見た。
すると、一瞬、躊躇いを見せてから、桜音は口を開いた。
「最初…、豊海の素直な髪質が、美紅に似てると思った。意識が戻らずにいた何ヶ月かの間、俺は美紅の家族と一緒に交代で彼女の面倒を見ていたんだ。勿論、完全看護だから病院側が何でもやってくれたんだけど、でも家族の手が触れることで美紅の意識が戻るんじゃないかと思って…。その時、美紅の髪の手入れもしていた。……美紅の髪はいつも綺麗で、シャンプーのいい匂いがしていて……。でも、事故の後は風呂に入れてやることは出来なかったから、ちゃんとシャンプーで洗ってやれたら、美紅も喜ぶだろうって、いつも思ってたんだ……」
静かにそう話す桜音を見ながら、豊海はまた涙が滲むのを感じた。
自分の髪にだけ興味を示す桜音に、豊海はずっと寂しさを感じていた。そして、その理由を知って益々切なくなってしまったのだ。
桜音は美紅の思い出として触れていただけだった。洗ってやれなかった美紅の髪の代わりに、豊海の髪を洗いたかったのだろう。
美紅への思い残しを、桜音は豊海の髪で果たしたのだ。
「豊海の髪を洗ってみると、何だか楽しくて…。変な話だけど病み付きになった。嫌がられると思ったけど、豊海は許してくれたし…。それで……」
言い掛けて、桜音はまた豊海が泣いているのに気づくと言葉を止めた。
「ごめん…」
そう言って、豊海はまた涙を拭った。
「いや……。優しいな、豊海は。…でももう、忘れようと努力してる。だから、美紅の話をしても前のように辛くはなくなったんだ」
桜音は豊海の涙の理由を違う意味で捉えたらしい。
自分と美紅の為に泣いてくれたのだと思ったのだろう。
勿論、それを否定するつもりは豊海には無かった。
「髪…、また伸ばせよ。綺麗だったのに勿体無い」
笑みを浮かべてそう言った桜音に、豊海は頷くでもなくただ黙っていた。
髪を切ったのは桜音を思い出したくないからだった。髪の間を滑っていく、桜音の指を忘れたかったからだった。
でも、そんなことを言える訳など無かった。
「もうひとつだけ…、言っておきたいことがあるんだ……」
「うん?なに?」
軽い調子で桜音は答えたが、豊海は話し始める前に少し間を置いた。
泣くのを堪える為に、少しだけ時間が必要だったのだ。
「誤解…してると思うけど、俺…、違うから……。木下さんとはなんでも無いんだ。あの時は、無理やりキスされただけで、俺は…違う…違うんだ…」
「分かってるよ…」
宥めるように、桜音は言った。
「あの時は驚いてすぐにドアを閉めちまったけど、後でよく考えたら、きっと豊海は嫌がってたんだろうって思った。でも、あの時はすぐに家に帰らなきゃならなかったし、そのことを伝えられなかった。でも…、ちゃんと分かってる。豊海は違うって、分かってるよ」
耐えようとしても、もう無理だった。
豊海の目には再び涙が溢れ、そして今度は拭っても、拭っても後を絶たなかった。
「俺が好きなのは、木下さんじゃない……。俺が好きなのは…、好きなのは……ッ」
ヒクッと喉を鳴らして豊海は唇を噛んだ。
すると、テーブルを回って桜音が豊海の傍に来た。
「豊海……?どうしたんだ?」
心配そうにそう言って、桜音は躊躇いがちに豊海の肩に手を置いた。
その温かさを感じた途端、体が動いていた。
桜音にしがみ付き、豊海はその胸に顔を押し付けた。
「好き……。俺…ッ、桜音さんのことが好きッ……」
「と、豊海ッ……?」
驚き、そして戸惑い、桜音は胸に飛び込んできた豊海の身体をどうしていいのか分からない様子だった。
躊躇いがちに肩を掴んだが、力を入れる訳でもなく、ただ胸を貸しているだけだった。
「豊海…?あの…、それって……」
訊いたが、答えは分かっていたのだろう。それは、ただの確認に過ぎなかった。だから、豊海が答えられなくても、桜音はそれ以上問い正そうとはしなかった。
その代わりに、コクッと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「ごめん、豊海……。俺は……」
そこまで言って、言葉が見つからなかったのか桜音は黙った。
その沈黙の意味を、勿論、豊海は知っていた。
いや、桜音の気持ちは、聞かなくても分かっていたのだ。
自分が無理を言っているのだということも分かっていた。
そして、最初から、両想いになれると思って告白したのではなかった。
「ごめん…。俺が…、俺が誤解させるようなことしたから……」
済まなそうな桜音の言葉に、豊海の目に、また涙が溢れた。
「う……」
泣きながら、豊海は首を振った。
(桜音の所為じゃない…。好きになったのは…、勝手に好きになったのは俺なんだ……)
「ふっ…、う…ぅうっ……」
言おうとしても、それは言葉にならなかった。
言葉は全て嗚咽に代わり、豊海はそれを抑えようと唇を噛んだ。
「ごめん。ごめんな…?豊海……」
ギュッと、桜音の腕が豊海の身体を包んだ。
同情する優しい感情が、その腕に篭められる。
その切なさが、豊海の涙をさらに溢れさせた。
“ごめん”と、何度も謝りながら、桜音は豊海が泣き止むまで背中を撫でていてくれた。
そして、豊海が泣き止むと黙って帰って行った。
ひとりになった部屋で、泣き腫らした重い瞼を閉じ、豊海は布団も敷かずに横になった。
これで終わったのだと思った。
もう、桜音と関わることも無いだろう。
もう2度と会えない。
どんなに好きでも、桜音と自分の繋がりは終わってしまったのだ。
目を開いて、億劫そうに起き上がると、豊海は箱の中から桜音がくれたスニーカーを取り出した。
それを暫く眺めると、愛しげに胸に抱きしめ、また横になった。
新しいゴムの匂い。
それを抱きしめながら、豊海はまた目を閉じた。
明け方、風呂に入って髪を洗い、豊海はアパートの屋上に出た。
鍵が壊れていて、屋上は出入り自由だったが、何も無い散らかり放題の屋上に上がる者もいなかった。
日の出前でまだ風が冷たく肌寒かったが、豊海は気にしなかった。
手すりを両手で持ち、景色を見る。
美しいものは何も見えなかった。
家並み、細い路地、くすんだビル。
少し顎を逸らすと、豊海は目を閉じた。
洗い髪の間を風が通り抜けて冷たく感じた。
お陰で、少し、頭の中がすっきりしたように思えた。
桜音を困らせてしまった。
言うつもりなど無かったのに、感情の昂ぶりが思わず言わせてしまったのだろう。
だが、これで良かったのだと豊海は思った。
これで、終わりに出来る。
終わらせて、前へ進まなくては駄目なのだ。
そう言い聞かせて、豊海は瞼を開いた。