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-5-

翌日、バイト先へ行くと、やはり桜音は辞めたと聞かされた。
昨日は人手が足りなくて大変だったと、店長に軽い嫌味を言われ、豊海は休んだことを謝った。
木下は遅番らしく、まだ姿が見えなかった。豊海はホッとして仕事を始めた。
そしてこの日は、とうとう木下は現れず、他のスタッフに聞くと休みだという話だった。
会わずに済んで幾らか気持ちが軽くなり、豊海は帰途に着いた。
だが、相変わらず部屋へ帰ると、桜音の居ない空間が悲しくて遣り切れなかった。
溜息をつき、テレビのリモコンを取って電源を入れた。チャンネルを次々と変えてみたが、見たい番組はひとつも無かった。
もう1度、昨日借りた映画を見ようかと思い、入力を切り替えようとした時、玄関でチャイムの音がした。
「桜音ッ…?」
そんな筈は無いと心の何処かでは思いながら、それでも豊海は期待してドアへ駆け寄った。
だが、急いで開けたドアの向こうに居たのは桜音ではなかった。
「き、木下さ…」
「こんばんはー」
ニヤニヤ笑ってそう言い、木下はグイッとドアを押し開けて入って来た。
「な、なんでッ…?」
狭い玄関に押し入られ、豊海は後ずさってよろめいた。
「おおっと…」
その身体をがっちりと抱き留め、木下はニッと笑った。
「やっぱ、今日早番だったんだ?良かった。一緒に呑もうと思ってビール買ってきたんだぜ」
「あ、あのッ、困ります。帰って下さいッ」
木下の腕から逃れようとして、豊海は叫びながら身体を捻った。だが、益々腕の中に抱き寄せられてしまった。
「いいだろ?おまえ、桜音に出て行かれて寂しいんじゃねえ?俺も女に振られたばっかで寂しくてさぁ…。寂しい者同士、慰め合おうぜ。な?」
「いっ、嫌ッ……」
木下が何をしようとしているのか知って、豊海は驚くとともに恐怖に見舞われた。
逃げようとして、背を向けた豊海を捕まえ、木下はキッチンの床の上に押し倒した。
「嫌だッ、放せよッ…。いやっ…」
もがく豊海に馬乗りになり、木下はニヤニヤしながら彼を見下ろした。
「いいじゃねえ。仲良くしようぜ?」
「嫌だッ。俺ッ、俺、ホントにそんなんじゃないっ。桜音とはなんでもないんだッ……」
「嘘付け。毎晩一緒に風呂入ってんだろ?男同士でそんなことしてて、エッチしてねえ訳ねえじゃんか」
馬鹿にするようにそう言い、木下は無理やり豊海の服を脱がせ始めた。
「いやっ、いやぁッ……」
「大人しくしろよ。優しくしてやっからさ」
「嫌だぁッ……」
ズボンと下着を無理やり引き下げられ、豊海は悲鳴のような声を上げた。
このまま木下に犯されてしまうなんて酷過ぎる。
桜音にさえ触らせていない身体を、こんな男に自由にされるなんてあんまりだと思った。
床の上を這いずって逃げようともがいた。だが、大きな木下に圧し掛かられて数センチも動くことが出来ない。
豊海はもう、恐怖と悔しさで、泣き出す寸前だった。
(いやっ……。助けてッ、桜音っ…助けてッ………)
木下の手が好色な動きで豊海の臀部を弄った。
怖気と吐き気が豊海を襲い、絶望に目を閉じるしかなかった。
が、その時、木下のポケットで携帯の着信音が鳴り始めた。
ビクッと、豊海の身体が震え、木下の動きも止まった。
無視しようとしたらしかったが、しつこく鳴り止もうとしない。木下は“チッ”と舌打ちをすると、乱暴に片手で豊海の口を塞ぎポケットから携帯を取り出した。
携帯を開いて相手を確認すると、木下は驚いたらしく一瞬躊躇ってから、ボタンを押して携帯を耳に当てた。
「春菜……?なんだよ、おまえ……」
意外な人物からの電話だったのか、木下は驚きを隠せない様子だった。
一方、その電話に救われた豊海は幾らか落ち着きを取り戻し、木下に下げられた下着を必死で元に戻そうとした。
「な、何言ってんだッ、今更ッ……」
木下が怒鳴り声を上げ、豊海はビクッとしてギュッと目を瞑った。
だが、押さえつけていた木下の手の力が緩むのを感じ、恐る恐る目を開けると窺う様にして木下を見た。
すると、木下はチラリと豊海を見て、押さえつけていた手を離した。
そして、豊海の身体の上から立ち上がると電話に向かって言った。
「分かったよ。今すぐに、そっちへ行くから………」
電話を切ると、木下は振り返り、硬直したまま自分を見つめる豊海に向かってニヤリと笑った。
「ざーんねん。急用が出来ちまった。…じゃ、おやすみ」
最後にまたニヤリと笑うと、木下は部屋を出て行った。
ドアが閉まり、豊海はやっと息を吐いた。
ホッとした途端にガタガタと身体が震え出した。
震える手で下着と服を掻き寄せるようにして身を包むと、豊海は自分の身体を抱くようにして震えが止まるのを待った。
怖かった。
怖くて、悔しくて、どうにも出来ない自分が情けなかった。
どさくさ紛れに、桜音に助けを求めてしまったことが、堪らなく切なかった。
「う……」
とうとう涙を我慢出来なくなり、豊海は泣いた。
どうして、こんなに惨めな思いをしなければならないのだろう。
「寂しいよ……。寂しい……」
木下に言われた言葉を思い出して、豊海は呟いた。
桜音に出て行かれる前には気づかなかった、1人ぼっちの寂しさが、今、豊海を押し潰そうとしていた。



「おいっ…」
スタッフルームで顔を合わせると、志田は豊海の腕を掴んで顔を覗き込んだ。
「まさか、それ、木下さんか?」
昨夜、抵抗した時に出来た頬の擦り傷を指して志田が言った。
「え……?なんで?」
何故、彼が知っているのか分からず豊海が驚いて聞き返すと、志田は顔を歪めながら息を吐いた。
「ごめん…。まさかあの人、マジだとは思わなくてさ。もっとちゃんと止めるんだった。ごめんな?」
どうやら、志田は木下が何をしようとしていたのか聞いていたらしい。だが、冗談だと思ったのだろう。
「で?まさかおまえ……?」
心配そうな顔でそう言われ、豊海は慌てて首を振った。
「ううん、大丈夫だった。……危なかったけど、木下さんの携帯に電話が掛かってきて……」
躊躇ったが、豊海は本当のことを言った。
「え?もしかして元カノじゃねえ、それ」
「知らない。春菜って呼んでたけど……」
そう言うと、志田は頷いた。
「そうだ、元カノだわ。…じゃ、もしかして元の鞘に収まったのかもなぁ……」
そこまでは分からなかったが、その電話で豊海が救われたのは確かだった。
「実はあの人さ、その春菜って彼女が二股してんの知って、切れちまってさぁ。別れたのはいいけど、実は未練タラタラだったんじゃね?自棄んなって、おまえに目ぇつけたらしくてさ…」
苦笑気味の顔でそう言うと、志田は豊海の肩に手を置いた。
「あいつ、犯らしてくんねえかな、なんて言ってたけど、まさか、俺もマジだとは思わなかったんだよ。だって、幾らおまえが男っぽくないって言っても、男だもんなぁ…。ホント、俺がちゃんと止めてやれば良かったよ。ごめんな?やべえトコだったよな?」
真剣に謝られ、豊海は首を振った。
志田の言う通り、普通なら本気だとは思わないだろう。志田が冗談だと思っても仕方ないと思った。
「ううん。怖い思いはしたけど、結局は何もされなかったし、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
豊海が言うと、志田は頷いて彼の肩から手を下ろした。
「元カノと上手くいったんなら、もう大丈夫だとは思うけどな。でも、なんかあったら言えよ?俺も気をつけててやるし」
「うん、ありがとう」
心配されて、豊海は嬉しかった。志田とは同じ年だったが、タイプが違うので一緒に遊んだことも無かった。でも、こんな風に言ってもらえると何だか親しみが湧いてくる。
木下は今日も休みらしく、店長は少々腹を立てているみたいだった。だが、豊海はこのまま木下が辞めてくれたらいいと思った。
生活があるので、豊海には簡単にアルバイト先を変えられない事情がある。だから、少々嫌な思いをしても辞める訳にはいかなかった。
だが、また木下と顔を合わせてセクハラされるのは勿論嫌だった。
このまま、木下が辞めてくれれば、多分、もう変なことはされないのではないかと思う。昨日は家に来たが、アルバイト先という接点さえなくなれば、向こうだって忘れるだろう。
豊海はそう願いながら仕事を終えた。


帰り道、考えるのは桜音の事ばかりだった。
シフトが同じ日は、一緒に帰る道々、他愛のない話をしたり、コンビニに寄ったりした。
真夜中の静かな道を並んで歩いていると、まるでこの世の中に2人だけしか居ないような気にさえなった。そして、そんな思いが胸に甘い切なさを運んで来たりもしたのだ。
思えば豊海は、桜音の自宅の住所も、そして携帯の電話番号やメールアドレスさえ知らなかった。居なくなってしまった桜音に、連絡を取る術さえ持っていなかったのだ。
もしかすると、わざと自分には教えてくれなかったのかも知れない。そんな思いに囚われて、辛くてまた涙が滲んだ。
ずっと一緒に生活していたのだから、嫌われている訳が無いと思い続けていた。
だが、桜音が去ってしまった今は、きっと嫌われてしまったのだと思ってしまう。
昨夜来たのが木下ではなく桜音だったら、きっと自分は抵抗も無く抱かれていたに違いない。
いや、抱いてくれなくてもいい。せめて、両腕で抱きしめてくれるだけでも良かった。

もう1度、会いたい。

せめて、もう1度だけでも、豊海は桜音に会いたいと思った。
落ち着いたら改めて礼に来る、とメモには書いてあった。
だが、本当に来てくれるのだろうか。
木下にキスされているところを見られた所為で、桜音はきっと自分のことを誤解している。気持ちの悪い奴だと思ったに違いないのだ。
そんな自分のところへ、桜音は本当に来てくれるのだろうか。
絶望の中に身を置いている豊海にとって、桜音に再び合えることは奇跡のように思えて仕方が無かった。
ひとりぼっちの部屋へ帰り、そして、ただぼんやりと日を過し、惰性のように学校とアルバイトへ行く。
気分は全く浮上しないまま、豊海はただ、毎日桜音の事だけを考えていた。



1週間が過ぎ、やはり木下はアルバイトを辞めたらしく姿を見せなくなった。
豊海にとって、それは嬉しいことだったが、一方で、相変わらず桜音のことを忘れることが出来ずに辛い日々を過していた。
気がつくと溜め息をついてしまい、気を取り直そうとするが難しかった。
何かをしている時はいいが、ひとりの部屋に帰ると途端に駄目になる。食欲もなくなり、益々痩せてしまった。
桜音のことを思い出すのが嫌で、休みの日に、豊海は髪を切りに行った。
今までに無く短くなった豊海の髪を見て、学校の友達もバイト仲間も驚いた。中には、前の方が良かったのに、と言う者もあったが、豊海は苦笑いをしただけで答えなかった。
その日は遅番で、豊海が制服に着替えてスタッフルームから出てくると、ホールに居た志田が近付いて来て肩に手を置きながら口を耳元へ近づけてきた。
「桜音が来てるぞ。彼女と一緒に…」
「え?……嘘…」
驚いて、豊海は志田の顔を見た。
すると、志田は肩に置いた手を一瞬離し、ポンと叩いた。
「ホントだって。26番のボックスに居るよ。豊海は?って訊いてきたから遅番だって言ったんだ。そしたら、来るまで待ってるって…。ちょっと行ってみたら?待ってるぜ、きっと」
「そう…」
豊海は頷くと、ホールに出て言われたボックス席へ向かった。
すると、本当にそこには美穂と一緒に桜音が座っていた。
「豊海……」
豊海の姿を見て笑みを見せた桜音だったが、短くなった髪に気づくと、笑みを引っ込めてしまった。
「久し振り……。元気だった?」
美穂に頭を下げてから、豊海は躊躇いがちに桜音に言った。
「ああ、うん……。髪、切ったんだ?」
「うん……」
自分の髪を触りながら、豊海は頷いた。
「暑くなってきたし、面倒だから……」
「そうか……」
頷いた桜音は、それ以上は何も言わなかった。だが、豊海が髪を切ってしまったことを残念がっているように見えた。
「就職したの?」
桜音が初めて見るスーツ姿だったので豊海は訊いた。
「ああ、いや…。まだなんだ。今、就活中で…。今日は美穂ちゃんの紹介で、先輩の会社に面接に行った帰りなんだ」
「そうなんだ…」
もしかすると、わざわざ自分に会いに来てくれたのだろうかとも思ったが、それだったら美穂を連れて来たりしないだろう。
そして、やはり思った通り、桜音がここへ来たのはついでだったのだと分かった。
「あ、何か注文する?」
思い出して豊海はそう訊くと、ハンディターミナルを取り出した。だが、桜音は首を振った。
「いや、豊海が来るまで待ってたんだけど、もう帰るよ。美穂ちゃんを送っていかなきゃならないし…」
「そうなんだ…」
豊海が頷くと、桜音は笑みを見せながら言った。
「一旦、美穂ちゃんを送って、豊海が上がる頃にまた来るよ。ちょっと、渡したいものがあるし…」
「え…?」
豊海が驚くと、桜音は美穂を促して立ち上がった。
「じゃあ、後でまたな?」
「え?あ、うん、分かった…」
そのまま、桜音たちを会計所まで見送り、豊海はテーブルを片付ける為にもう1度戻った。一体、渡したいものとはなんだろうか。
もしかすると、世話になった礼にでも何かくれるつもりなのだろうか。
そうかも知れない。置手紙にも、落ち着いたら礼に来ると書いてあった。
だが、豊海にとっては礼なんかどうだって良かったのだ。
これで決まりをつけられて、そして、これっきり会えなくなってしまうのかと思うと、何も贈って欲しくなかった。