shampoo
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「ええ?二ノ宮の奴、まだおまえのトコにいるのか?」
居酒屋の先輩、木下が一緒に休憩に入った時、豊海の話を聞いて驚いて言った。
「はい。もう2ヶ月超えるかな…」
それを聞くと、木下は横を向いて顔を顰め、煙草の煙を吐き出した。
「ほんとか?そりゃ長過ぎるだろ。今までは幾ら長くても3週間止まりだよ、なあ?」
最後は後輩の志田の方を見てそう確認した。
志田も頷いて、少々顔を顰めながら言った。
「おまえもお人好し過ぎるぜ、いつまでも置いとく事ないのに」
「でも、別に邪魔でもないし」
豊海が肩を竦めると、2人同時に頷いた。
どちらも経験がある事なので桜音がそういう男だと良く分っているのだろう。
「そりゃそうなんだけどさ…。でも、よっぽどおまえのトコが居心地いいんだなぁ。ウチに来た時もそうだったけど、桜音はこっちが何も言わなくても自然に出て行くんだけどな…」
確かに、豊海にも自分の部屋の何がそんなに彼の気に入ったのか分らなかった。
広い訳でも特別綺麗な訳でも無い。どちらかと言えば汚い、築20年ほどの1Kのアパートだ。
「あの…、桜音さんって洗髪マニアとかそういうのです?」
豊海は気になっていた事を思い切って2人に訊ねてみた。
みんなも彼に居候された時、髪を洗われたのだろうかと思ったのだ。
「なんだ?それ。“せんぱつ”って野球のピッチャーのあれ?」
そう訊いた木下に豊海は笑って首を振った。
「違いますよ。髪を洗う洗髪」
「知らねえなあ、そんな話」
木下がそう答えると志田も首を振った。そして、少し眉を寄せて豊海を見た。
「なに?おまえ、あいつに髪を洗われたとか?」
豊海が答える前に木下がギョッとした様子で言った。
「え?マジ?それって一緒に風呂に入ったって事?」
どうやら、この反応から察するに2人には覚えが無いらしい。
豊海は少し焦った。まさか、殆ど毎晩、彼と一緒に風呂に入り、そして髪を洗ってもらっているとは言い辛い。
「いや、そう言う訳じゃ無いですけど…」
曖昧に笑って誤魔化そうとしたが、2人は興味深そうに身を乗り出した。
「おまえらまさか、ヤバイ事になってんの?」
小声で木下が言うのに、豊海は慌てて首を振った。
「ち、違いますよ。そんなんじゃないですって…」
志田はその答えにすぐに納得して笑った。
「そうだよな。桜音ってモテるし、女に不自由してないもんな。何も男に走る必要も無いよ」
だが、木下はニヤニヤ笑って豊海の顎を掴んだ。
「分んねえぜ、辛島なら。可愛い顔してるしさ」
そう言って木下は気が付いた様に視線を豊海の髪に移した。
「…そう言や、おまえの髪なら触りてえかもな。何しろ雑誌に載ったくらいだし」
豊海は1年ほど前、街を歩いていてヘアー雑誌の一般モデルにスカウトされた事があったのだ。
特別気を使っている訳でも無いが、癖の無いストレートで艶のある綺麗な髪をしている。それが目を惹いたのだろう。
「だからって洗いたいですか?普通。美容師でも無いのに」
少し呆れた様に志田が言い、木下も首を捻った。
「まあなぁ…。触りたいってのと、洗いたいってのは違うわな。普通は、人の髪の毛を洗いたいなんて思わねえわなぁ…」
顎を撫でながらそう言い、木下は豊海をじっと見た。
「んで?髪洗わせてくれって言われたんだ?二ノ宮に…」
「い、いえ…、あの……」
余計なことを言ったと、豊海は今更ながら後悔した。
どうやって誤魔化そうかと迷っていると、折り好く、志田が時計を見ながら言った。
「あ、ヤバい。休憩時間終わってますよ」
「お、やべ…ッ」
慌ててタバコを揉み消し、木下が立ち上がるのと同時に、志田と豊海も立ち上がった。
急いでスタッフルームを出ると、3人はバタバタと店へ向かった。
だが、あの時、豊海は木下たちに話したことを後悔し続けていた。
桜音と自分の仲を変に誤解させたらしいと言うだけではない。木下がどうも自分のことをおかしな目で見ているらしいことに気づいたのだ。
前はそんなことは無かったのだが、あの話をして以来、スタッフルームで一緒になったりすると、傍に寄って来ては豊海の身体に触ろうとする。
その触り方も、普通に肩を叩くとか背中を叩くとかいう類のものではなく、フッと気づくと後ろに居て髪をひと房摘んだり、肩を触るにしてもわざとゆっくりと撫でたりするのだ。
豊海は気味が悪くなり、木下を避けるようになった。
桜音に言おうかと思ったが、女の子でも無いのに、少し触られたぐらいで大騒ぎするのもおかしいのではないかと思い、言わなかった。
いや、自分の方が変だと思われはしないかと怖かったのだ。
と言うのも、木下の言ったことは強ち間違ってもいなかったのだ。
多分、いや絶対に桜音の方は何とも思っていないだろう。だが、豊海は違った。
最初から桜音が転がり込んで来たのを嬉しいと思っていたが、いつしか、それが彼に対する特別な感情の所為なのだと気づいたのだ。
自分は桜音のことが好きなのだと気が付いた。
だから、彼に家に来て欲しいと思ったし、来てくれたことが嬉しくて堪らなかったのだ。
そして、いつかは彼が出て行ってしまうのかと思うと、豊海は胸が締め付けられるような気持ちになった。
自分のところには特別長く居てくれている。でも、いつかは他の時と同じように出て行ってしまうのだ。
そう思うと、悲しかった。
髪を洗ってもらうことも、段々に特別な意味を持つようになった。
桜音が自分に触れてくれる唯一の時。
だがそれは、今や豊海にとっては苦痛にもなってしまった。意識しないように必死にならなければ、裸の風呂場では誤魔化しようが無い。
だが今更、桜音に一緒に風呂に入るのを止めてくれとは言えなかった。
そして、他には部屋の無い1Kのアパートで風呂まで一緒なのだから、当然、困ることがあった。トイレと風呂場しか独りきりになれる場所は無い。それなのに、風呂場でさえ独りになれないのだ。
当然、後はトイレしか残っていなかった。
だが、ドアひとつ隔てたすぐ向こうに桜音が居るのに、長々とトイレに篭る勇気は豊海にはなかった。
他の事を考えて気を逸らそうと努力したが、桜音のことを思ったり、触れられたりすると、身体が熱くなるのを止められなかった。
仕方なく、桜音がぐっすりと寝入るのを待って、豊海はシャワーを浴びながら自慰をするようになった。
事を終え、風呂場から出て脱衣所の小さな鏡に自分を映す。
雫の垂れる濡れた髪を見て、豊海はいつも溜息を漏らした。
「やっぱり……、髪の毛以外には興味無いのかな……」
休みが合ったりすると、狭い台所に一緒に立って食事を作ったりもする。何ヶ月も一緒に住んでいるのだから、当然、他の誰よりも親密な関係に思えないことも無かった。
でも、毎晩のように一緒に風呂にまで入っていながら、とうとう桜音は豊海の髪以外に触ることは無かった。
それが、ひどく寂しい。
寂しいのを通り越して、切なくて涙が出た。
「興味…持つ訳ないか…。こんな身体……」
痩せ細った、柔らか味も無い、ただ青白いだけの肌。
鏡に映った自分を見て、豊海は吐き気を覚えた。
「病人みたい……」
学校へ行って、遊びもせずに働いて、外へ出るのは学校の行き帰りと買い物ぐらいだった。
元々、ひ弱そうな印象だったが、この頃ではそれが以前にも増して感じられた。
身体が弱い訳でもないのに、バイト先の仲間にもよく、調子悪そうだな、と声を掛けられたりもした。
濡れていると、益々、惨めっぽく見える。
そう思って、豊海はタオルを掴むと鏡に背を向けた。
身体を拭いてパジャマ代わりのTシャツとスエットを身に着けると、豊海は部屋へ戻った。
2枚並んだ布団の片方で、桜音は静かな寝息を立てていた。
自分が今、何を考えてシャワーの下で自慰をしていたのかなど、この安らかな寝顔の主は知りもしないのだ。
そう思うと、豊海は切なかった。
ぺたりと、自分の布団の上に腰を下ろし、豊海はじっと桜音の寝顔を見下ろした。
半袖のTシャツから伸びた腕に、銀色のブレスレットが僅かな灯りに鈍く光っていた。
鎖と鎖の間にプレートのあるタイプで、小さくて良く読めなかったが、そこには何か英文が刻まれているようだった。
それは誰かの名前のように見え、豊海は前から気になっていた。だが、近付いて見る勇気も、桜音の腕に触れる勇気も無かった。
「俺のこと…、どんな風に思ってるんだろ……?」
そっと呟くと、豊海はゆっくりと手を伸ばして、銀のブレスレットに触れた。
「好き…って、言ったら……?」
言いながら、銀のプレートを指先でそっと撫でた。
本当は腕に触れたかった。
でも、桜音が起きてしまったらと思うと、それさえも出来なかった。
「言ったらきっと、もう口利いてもらえないよな…?」
プレートの上をなぞっただけで、腕には少しも触れなかった。
それなのに、聞こえないほどの呟きを感じたのか、桜音の腕がフッと動いた。
ハッとして手を引っ込めた豊海の前で、桜音がいきなり上半身を起こした。
そして、まるで庇うようにブレスレットをした腕をもう一方の腕で抱えた。
「豊海……?」
怪訝そうな顔で、桜音は豊海を凝視した。
「ごめ……」
片手を挙げ、手の甲で唇を隠すようにすると、豊海は泣きそうな顔になってそう言った。
桜音は気づいたのだと思った。
自分の邪な想いと、その行為に。
(どうしよう……ッ。嫌われるッ…)
今にも泣き出しそうになって、豊海は目を瞑った。
「い、いや…。俺こそごめん。驚かしちゃったな?」
その言葉に、豊海は目を開けて首を振った。
「なんか、変な夢見てさ……。ごめん、なんでもないから…。寝よう?」
桜音は自分のしたことに気づいた訳ではなかったらしい。そう思うと、豊海はホッとして頷いた。
横になると、桜音はすぐに豊海に背を向けた。
それを見て、豊海も桜音に背を向けて横になった。
同じ部屋に寝ていても、自分たちの間は遠く離れているのだな、と豊海は思った。そして、この距離がこれ以上縮まることはきっと無いのだろう。