shampoo
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その夜は、豊海が風呂に入っても桜音は来なかった。
きっともう、髪を洗ってくれることも無くなるのだろうと豊海は思った。
翌日、酷く落ち込み、食欲も無かったが、豊海は学校へ行く為に部屋を出た。
夜、豊海と同じように眠れなかったのだろう。桜音はまだ布団の中に居て起きる様子は無かった。
学校に行っても、授業に身が入らず、豊海は何度も深い溜息をついた。
今日は早番だったので、少し時間が早かったが学校から直接バイト先へ行った。
スタッフルームで着替えて掃除を始めていると、その内に他の従業員もやって来て全員で掃除を済ませた。
桜音は今夜は遅番だった。
来ても豊海に何か話し掛けてくる訳でもなく、普段と変わらずに仕事をし、他の仲間とも普通に接していたが、時折手が空くと、フッと暗い表情を見せて豊海を心配させた。
それに、豊海がもうひとつ心配していたのは木下のことだった。
今夜も、豊海の傍に誰も居ないのを見つけると、傍に寄って来て肩を抱いてきた。
「な、なんですか?」
振り払おうとするとグッと手に力を入れて豊海を抱えるようにした。
「今夜、早番だろ?俺も他のヤツとシフト代わってもらって早く上がるからさ。帰りにちょっと呑んでいかねえ?」
「お、俺、今日は用事が…」
「嘘つけ。桜音は遅番だろ?だったら、桜音が戻るまでに帰ればいいじゃん。な?行こうぜ」
「嘘じゃないです。本当に……ッ」
豊海が木下を押し退けようとした時、他のスタッフがやって来て木下はサッと豊海から離れて行った。
豊海はホッとして、その後は独りにならないように気をつけた。
仕事の上がり時間になり、スタッフルームで着替えていると、まだ上がり時間ではない筈の木下が部屋に入って来た。
豊海はハッとして、思わず持っていた服で身体を隠した。
「辛島、俺ももう上がれるんだ」
言いながら近付いて来た木下を豊海は恐怖に身体を強張らせて見つめた。
「俺のこと避けるなよ。な?今日、呑みに行こうぜ」
「お、俺…、本当に今日は都合が…」
すぐ傍まで近付き、木下は上からじっと、まるで舐めるように豊海を見つめている。そして、怯えて縮こまっている豊海の頬から顎の辺りに、指の甲を滑らせるようにして撫で始めた。
「おまえ、友達とかいねえじゃん?勿論、彼女も居ないしさ。桜音が一緒じゃないなら、何の用があるんだよ?」
馬鹿にするようにそう言われたが、豊海は言い返すことが出来なかった。すると、抵抗出来ないと思ったのか、木下はいきなり抱き寄せて唇を押し付けようとした。
「やっ……」
驚いて押し退けようとしたが、逞しい木下にとって痩せ細った豊海など敵ではなかった。
「んっぅッ……」
唇を奪われ、豊海は呻いた。
ぬるりとした、木下の唇の内側の滑りを感じて吐き気が襲う。
その時、いきなりドアが開くと同時に誰かの言葉が聞こえた。
「豊海―、俺、今夜…」
それが桜音の声だと豊海が気づいた時、
「ごめんッ」
と言う声と同時にまた扉が閉まった。
(うそッ……)
木下にキスされているのを桜音に見られてしまった。そして、桜音はどうやら誤解してしまったらしい。
サーッと、背筋が冷たくなり、それと同時に豊海に信じられない程の力が湧いた。
「嫌だッ…」
叫ぶなり、豊海は木下を突き飛ばした。
「俺っ、俺、そんなんじゃないですッ。違いますからッ……」
言葉を叩きつけ、豊海は荷物を掴むと着替え終わっていない服を手に持ったまま部屋を飛び出した。
悔しくて、唇を激しく擦りながら裏口から外へ出ると、素早く服を着てバッグを背負い、そしてまた唇をゴシゴシと拭った。
歩きながら、涙が滲んできて回りのネオンがぼやけて見えた。
(酷い…ッ。桜音の前で…。酷いッ……)
急に吐き気が込み上げ、豊海は急いで路地へ入り込むと側溝に向かって胃の中の物を戻した。
木下の唇の感触が蘇っただけではない。
桜音に見られたこと、そして、自分は男とキスするような人間なのだと思われてしまったこと。
桜音に軽蔑されるかも知れない、嫌われるかも知れない。そう思ったら、眩暈がしそうなほどに気分が悪くなってしまったのだ。
胃の中が空っぽになると、また涙が込み上げた。
泣きながらバッグを開け、持っていたお茶のペットボトルを出すと、口に含んで何度も漱いだ。
「う…、うぅう……」
落ち着くと、そこへぺたりと座り込み、豊海は声を堪えながら泣き出した。
その夜、桜音は帰らなかった。
さっき、スタッフルームへ来たのは豊海に帰らないことを告げる為だったのかも知れない。
「それとも……、あんなの見たから…俺のことが気持ち悪くなったのかも…」
呟いて、豊海は夜明けの薄明るい部屋で枕を抱えた。
そうだとしたら、きっともう桜音はここへ帰って来ないのかも知れない。
眠らずに、いや、眠れずにずっと待っていたが、桜音は帰って来なかった。
重い身体を起こし、豊海は布団も畳まずに歯を磨いて顔を洗うと、着替えて部屋を出た。
病気でもないのに学校は休めない。
重い足を引きずるようにして、豊海はアパートを出て駅へ向かった。
今夜は遅番だったので、豊海は学校から1度部屋へ戻った。
期待して玄関を開けたが、桜音の靴は無かった。
だが、部屋に入ると敷きっ放しだった筈の布団がきちんと片付けられていて、折りたたみテーブルの上にメモが置いてあった。
“豊海、長い間ありがとう。
突然、留守の間にいなくなってごめん。
本当は、会って礼を言いたかったんだけど、時間が無くなった。
昨夜、家に行って両親と色々と話して、帰ることに決めたんだ。
今日の午後、美紅の両親にも会う。
落ち着いたら、改めて礼に来るから。
本当に、色々ありがとう。“
「やっぱり……」
呟いて、豊海はその場にへたり込むようにして座った。
桜音は出て行った。
行ってしまった。
いつかこの日が来ることは知っていた。
いつまでも一緒に暮らせないことは分かっていた。
でも、もう少し、あと、もう少しでいいから、傍にいて欲しかった。
フッと顔を上げて、豊海は部屋の中を見た。
大して荷物は無かったが、桜音がいればそこにあっただろう、彼の持ち物が全部無くなっていた。
「こんなに……、広かったかな……」
8畳一間の、今までは狭いと思っても、広いと感じたことなど無かった部屋が、今は桜音が居ないだけで空しいぐらいに広く感じた。
美穂が来た時から帰ることは決めていたのかも知れない。だが、それを早めたのはきっと、昨日の出来事だろうと思えた。
風邪を引いたと嘘をついて、豊海はその夜アルバイトを休んだ。
部屋の真ん中に膝を抱えて座ったまま、何もする気が起きなかった。
やがて、疲れたようにゴロリと横になり、今度はただ天井を眺めた。
ぼんやりと、ただ時間が過ぎていくのだけを感じ、そして、桜音のことを思って涙を浮かべた。
そして、ふと、いつだったか自分の髪を弄りながら桜音が話してくれた映画のことを思い出した。
起き上がると、豊海はバッグを引き寄せて立ち上がった。
歩いて5分ほどの所に、余り大きくは無いが24時間やっているレンタルショップがある。
豊海は靴を履くと部屋を出て、その店へ向かった。
DVDプレイヤーは持っていない。だが、前に学校の友達が、要らなくなった古いゲーム機をくれた。それで観られる筈だった。
レンタルショップで名画のコーナーを探し、“スタア誕生”を借りた。
部屋に戻り、すぐにDVDをセットすると、豊海はテレビの前に膝を抱いて座った。
古い映画だったが、豊海はじっと目を逸らさずに画面を見つめた。
やがて、桜音の言っていたシーンになったが、彼の記憶は少し間違っていた。
エスターは、“嫌な事があると髪を洗う”と言うのでは無い。
“いい時も、悪い時も、髪を洗う”と言うのだ。そして彼女は、スターの道を約束したまま現れない男をずっと待つ。
相手は映画の大スターだ。ほんの気まぐれで自分に調子のいい事を言ったのかも知れない。だが、唯一自分の才能を認めてくれたその男をエスターは信じ、そしてバンドの仕事も辞めて男を待つのだ。
映画はカラーだったが、その部分は動画では無く白黒のスチール写真で構成されていて、彼女の感情が伝わり過ぎない所が却って悲しかった。
髪を洗い、エスターは来ない男を諦める。そして、自分の力で夢を掴もうと決心する。
だが、心の何処かではまだ男を待っているのかも知れなかった。
屋上で髪を洗うという所も違っていた。
髪を洗った後、屋上で風に吹かれている所に男がやっと現れるのだ。
それは、動画では無くスチール写真なのに、彼女の髪に吹きつける風の爽やかさを感じる場面だった。
ぼんやりと画面を眺めながら、豊海は自分の髪の一房を引っ張った。
「髪…、洗うかな…」
自分も髪を洗って忘れようか………。
桜音の事も、それから自分の叶わない哀れな恋も。
だがきっと、髪を洗えばまた桜音の指が恋しくなるに違いない。優しかったあの指を思い出して、泣きたくなるに違いなかった。
画面の中の潔いエスターと違って、なんて女々しいのだろうか。
そんな自分が、豊海は嫌で堪らなかった。