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-3-

その日は、桜音が早番で、豊海は遅番だった。
あと1時間ほどで桜音の上がり時間になるという頃、女性ばかり数人のグループが店に入って来た。
その客の1人が、出迎えた桜音を見て驚いた様子で前に出て来た。
「桜音くん……」
呼び掛けられて、桜音も驚いた様子だった。
「美穂ちゃん……」
そう言うなり絶句した桜音を、豊海は少し離れた場所で見ていた。
相手の女性は、自分と同じ年頃だろうか。OL風で綺麗な人だった。
桜音はすぐに気を取り直した様子で、怪訝そうに2人を見る女性客たちを席に案内する為に、先に立って歩き出した。
彼女たちを席へ案内すると、桜音は戻って来て豊海の袖を引いた。
「悪い…、今のお客、担当代わってくれないか?」
「え…?いいけど…」
豊海が答えると桜音は拝むような格好をして、奥へ行ってしまった。
一体、あの“美穂”と言う女性は、桜音の何なのだろうか。
豊海は奥へ入った桜音と、さっきの客たちが入った席を交互に見た。
桜音が友達の家を渡り歩いている理由が、もしかしたら彼女にあるのだろうか。そんな気がして、豊海は胸騒ぎを覚えた。
合図があって、注文を取りに行くと、さっきの女性は豊海を見て眉を寄せた。来ると思っていた桜音が来なかったからだろう。
女性客たちの注文を聞き、豊海が立ち上がって厨房へ戻ろうとすると、後ろから声を掛けられた。
振り向くと、“美穂”という女性が、慌ててボックスから出てきたところだった。
「なんでしょう…?」
豊海が訊くと、彼女は少し躊躇ったような表情を見せたが、近付いて来て口を開いた。
「あの…、さっき居た人、二ノ宮桜音さんは?」
「あ、はい…。他のボックスの担当なので、そちらに。…あの、彼に何かご用でしょうか?」
「ええ…、ちょっと…。あの、彼は何時にお仕事が終わるんでしょう?」
「はい…。今日は早番なので11時には上がりですけど…」
「そうですか……」
言いながら彼女は自分の腕時計を見た。
そして、顔を上げると躊躇いがちに言い出した。
「あの、こんなことお願いするのはご迷惑でしょうけど、もし、二ノ宮さんのお住まいをご存知でしたら教えて頂けませんか?」
「え……?」
躊躇ったが、彼女の必死の表情が気になって豊海は了解してしまった。
「実は今、彼は俺のアパートに居るんです」
「え?貴方の…?」
「はい。…あの、後で住所を書いて持って来ますので、ちょっと待ってて下さい」
「はい。済みません」
そう言うと、彼女は豊海に向かって深々と頭を下げた。
(誰なんだろう……?)
豊海の心は不安でいっぱいだった。
家族ではない。そうだったら、桜音の名前に“さん”をつけて呼んだりしないだろう。それに、2人の間の雰囲気からも家族だとは感じられなかった。
(彼女…かな…、やっぱり……)
そう思った途端に胸が苦しくなった。
でも、だとしたらどうして避けるのだろうか。
彼女と桜音の関係も、そして、桜音が彼女を避ける理由も知りたかった。だから豊海は、桜音には言わずに彼女に自分の部屋の住所を書いて手渡した。
「日曜日なら休みなので、部屋に居ると思います」
「ありがとう。助かります」
「いえ……」
桜音に知られたら怒られるかも知れないと思ったが、豊海は思いつめた様な彼女の様子が気になって、どうしても2人の関係を知りたかった。
彼女たちのグループは桜音が仕事を上がった後も帰らずに呑んでいた。
豊海は最後まで彼女たちの席を担当し、その後も何度も彼女の顔を見たが、もう彼女が豊海を気にする様子は無かった。
そして、12時を少し回った頃に、帰って行った。



その夜、豊海が3時過ぎに部屋に帰ると、桜音はもう布団の中に入っていた。
音を立てないように荷物を置き、パジャマと下着を出すと、豊海は風呂へ入った。
風呂から上がり、髪を拭きながら出てくると、豊海はそっと冷蔵庫を開けて中から麦茶のポットを出し、コップに注いで飲み干した。
流しを背にして、部屋の方を向くと、桜音が入っている布団の塊を眺めた。
自分が早番で、豊海が遅番の時でも、桜音はたまに帰りを待っていてくれることもあった。そういう時は、やはり一緒に風呂に入る。
狭い風呂なので、洗い場に2人は入れない。だからいつも、やはり狭い湯船に入った豊海が仰向けに首を出し、その髪を桜音が洗った。
1度、豊海は、やってもらうばかりじゃ悪いので、自分も洗ってやろうかと言ったことがあった。
だが、桜音は笑いながら断った。
(きっと……、俺に触られるのが嫌だったんだよな…)
この前も、ブレスレットを触っただけで、腕に触れた訳でもないのに飛び起きた。
「でも……」
呟いて、豊海はキュッと唇を結んだ。
桜音はもう2ヶ月半もここに居る。嫌われているのなら、一緒に暮らしている筈が無かった。
(それに、嫌いなヤツの髪なんか洗ったりしないよな……)
髪を洗ってくれる時だけしか触れてはくれないが、それでもいつも、髪を洗う桜音の手は優しかった。
優しくて、だからこそ、豊海には切なくもあったのだ。
「寝よ……」
なんだか空しくなって、豊海は呟くと、持っていたコップを流しに置いて部屋に入った。
常夜灯を消し、桜音が敷いておいてくれた布団に入り、横になる。背中を向けている桜音の方を向いて、真っ黒にしか見えない彼のシルエットを見つめた。
いつか………。
いつか、桜音が自分の方を振り向いてくれる可能性はあるのだろうか。
このまま一緒に暮らしていたら、もしかしたら、髪以外にも興味を持ってもらえる時が来るのだろうか。
そう思いながら、豊海は店に来た“美穂”という女性のことを頭に浮かべた。
明後日の日曜、彼女はここへ来るのだろうか。
そしたら、桜音と彼女の関係が分かるのだろうか。
そして、桜音の秘密も。
フッと溜息をつき、豊海は布団を引っ張ると、眠ろうとして目を閉じた。
日曜日に美穂が来るかも知れないことを、豊海はとうとう桜音に言えなかった。
彼女を避けていたのだから、アパートの住所を教えたと言えば、桜音は腹を立てるかも知れない。いや、それどころか、もしかしたら部屋を出て行ってしまうかも知れないと豊海は思った。
それに、教えたからといって美穂が訪ねてくるとは限らない。
そんな風にも思って、豊海は黙っていた。



だが、日曜の10時頃、豊海と桜音が遅い朝食を終えたばかりの時、ドアのチャイムが鳴った。
洗い物をしていた豊海は、ハッとして顔を上げると、目の前の窓を見た。
曇りガラスにシルエットが見え、豊海は急いで返事をすると、手を拭いてドアを開けた。
予想通り、立っていたのは美穂だった。
「済みません…。お言葉に甘えて来てしまいました」
「あ、はい…」
頭を下げられて、豊海はただそう言うのが精一杯だった。
身体を除けて美穂を玄関の中へ入るように促すと、豊海は振り返って部屋に居る桜音の方を見た。
桜音も来客が誰なのか気になっていたのだろう。美穂が入ってくるのをずっと見ていたらしい。その顔は、随分強張っていた。
「美穂ちゃん……、なんで…?」
そう言ってからすぐに気づいたらしく、桜音はハッとして豊海に視線を移した。
「豊海が……?」
豊海は桜音の顔を見られなかった。下を向いたままで、ただ黙って立っていた。
「そうか……」
ポツリとそう言うと、桜音は立ち上がって玄関に来た。
「あ…、お、俺、ちょっと出てくる…」
慌てて豊海がそう言うと、桜音がサッと腕を掴んだ。
「いいよ。居てくれ……。美穂ちゃん、上がって?」
「ありがとう。失礼します……」
そう言うと、豊海にもう1度頭を下げて美穂は靴を脱いだ。
揃えて上へ上がると、美穂は桜音に付いて部屋に入った。豊海は台所に残って冷蔵庫から麦茶のポットを出すと、美穂と桜音の分を注いで小さなトレイに載せて運んだ。
「こんな物しかなくて……」
恐縮しながら前へグラスを置くと、美穂は頭を下げた。
「いえ…。お構いなく」
「悪いな、豊海」
そう言った桜音に頷きながら、豊海はもうひとつのグラスを彼の前に置いた。
「おばさんに聞いたけど、電話もしてないそうね?桜音くん、もうどれぐらい帰ってないの?」
眉間に深い皺を刻み、綺麗に描かれた眉を寄せると、美穂は少し詰るような口調でそう言った。
「…さあ…、半年ぐらいかな……」
桜音が答えると、美穂は溜息を付いた。
「近所の何処を見ても美紅の思い出が蘇って辛いんでしょうけど……。でも、いつまでも逃げてたって仕方ないんじゃないの?……あなたがいつまでもそんな風じゃ、私たち家族だって遣り切れない。美紅のことを思い出にすることも出来ないのよ」
美穂の言葉を聞いても、桜音は何も答えなかった。
“美紅”とは誰なのか、豊海には分からなかった。だが、桜音が家を出て他人の家に世話になっている原因が、その人にあるらしいということだけは分かった。
「来週、美紅の三回忌よ」
美穂の言葉に桜音がビクッとして顔を上げた。
「出ないつもり?」
畳み掛けるように美穂が言った。
「……い、いや……」
桜音が言うと、美穂は少し彼の方へ身を乗り出した。
「これを機会に家に帰って。そして、立ち直る努力をして欲しいの。……それが、私たち家族の為でもあるし、そして、美紅の為でもあるわ」
真剣な顔で美穂が言い、桜音は目を閉じると切なげな顔で何度も頷いた。
豊海に礼を言って美穂が帰ると、桜音は疲れたようにその場に横になり、そして黙りこくったまま口も利かなかった。
「あの…、余計なことしてごめん……」
豊海が謝ると、桜音は首を振った。
「いや…」
そう言ったが、多分、桜音は自分に腹を立てているのだろうと豊海は思った。
余計なことをされて腹を立てて、そして、もしかしたらこの部屋を出て行ってしまうかも知れない。そう思うと悲しくなった。
美穂に対して、そして、桜音の過去に対して、余計な好奇心を持ったばかりに墓穴を掘った。そう思えた。
「誰か……亡くなったの?」
もう、半分自棄になって豊海は訊いた。嫌われついでに、せめて好奇心を満たそうと思ったのだ。
すると、桜音は頷いて、億劫そうに起き上がった。
「美穂ちゃんの双子の姉で、俺の婚約者だった……」
「え……?」
豊海が聞き返すと、桜音は寂しげに笑って座り直した。
「俺たちは幼馴染で、美紅の家とは家族ぐるみの付き合いだった。居るのが当たり前のような存在だったけど、でも俺も美紅も、多分他の誰かなんて考えられなかった。だから、高校生になった頃、俺たちはいずれ結婚しようと誓い合った。彼女が大学を卒業したら結婚する筈だったんだ。……でも、大学卒業まで後半年って時、美紅は交通事故で…、所謂植物人間になっちまった……」
悲しげにそう言うと、桜音はまた目を閉じて首を振った。
「そんな……」
豊海はそれ以上何も言えなかった。
すると、桜音は目を開けて、また口を開いた。
「いつかは目を覚ましてくれると信じて、俺も彼女の家族も介護を続けた。……けど、事故から5ヶ月目、とうとう彼女は天に召された……。それが、2年前のことだった」
それからずっと、桜音は放浪を続けているのだろうか。
そう思うと、豊海は胸が締め付けられるような気持ちがした。
彼女の思い出の場所が点在する自宅にも戻れず、彼女を思い出すまいとして放浪し続けているのだろうか。
「美穂ちゃんの言う通り、美紅を思い出すのが辛くて、俺は逃げてる。…1度はアパートも借りたんだが、夜、独りきりになると美紅のことばかり考えてしまって、遣り切れなくなった。仕事も手に付かなくなって、会社も辞めた。…そして、友達の家にやっかいになるようになったんだ」
誰かの家に居れば、1人でいなくても済む。だから桜音は、間借りを繰り返してきたのだろう。
すっと、桜音がブレスレットに指を掛け、それを指先で弄ぶように動かした。
あのブレスレットは、美紅からのプレゼントなのかも知れないと豊海は思った。そして、あのプレートに刻まれている言葉は美紅からの愛の言葉なのだろうか。
「呆れるだろ?……情けない人間なんだ、俺は…」
豊海は首を振っただけで何も言えなかった。
今の桜音にどんな言葉をかけても、それは白々しく聞こえるような気がしたのだ。
「ごめんな?豊海が何も言わないのをいいことに、こんなに長く居座って……。けど、豊海の傍に居ると、なんだか気が休まるような気がして……」
そう言って桜音はまた静かに笑った。
「居心地がいいっていうのかな…?辛いことも、少しずつ忘れていけるような気がしたんだ」
「お、俺は……ッ」
顔を上げて、豊海は言った。
「俺は構わないよ。桜音さんが居たいだけ居てくれたらいいんだ。全然、構わない。ホントだよ?」
「豊海……」
フッと笑い、桜音は頷いた。
「ありがとな?」
桜音は出て行ってしまうだろうか。
目を逸らしてテレビを付けた桜音を見ながら、豊海は思った。
ずっと居て欲しい。出て行かないで欲しい。
本当は、そう言ってしまいたかった。

ずっと傍に居て……。

そう言ってしまえたら、どんなにいいだろうか。
だが、拒絶されることを分かっていながら告白出来るほど、豊海は強くなかった。
2年経った今も、桜音は美紅が死んだ事実から逃げ続けている。いや、彼女が死んだことを、きっと認めたくないのだろう。
そんな桜音に、自分を見てくれといった所で叶う筈なんか無かった。
「……俺…、出て行って欲しくて美穂さんに教えたんじゃない……」
言った途端に涙が零れて、豊海はサッと両手で頬を拭った。
「分かってるよ。…そんな風に思ってない」
豊海の方を見ようともせず、桜音はテレビ画面から目を離さずに言った。
そんな彼の態度を見て、豊海は益々涙を我慢出来なくなった。
嗚咽を堪えようとして唇を噛んだが、ヒクッと喉が鳴った。
その音に気づき、やっと桜音は豊海を振り返った。
「と…、豊海……」
泣いているのに気づき、桜音は驚いて腰を浮かせるとすぐに豊海の傍に来た。
膝の上で拳を握り締め、豊海は声を堪えて泣き続けた。
躊躇いがちに、桜音がそっとその肩に手を置いた。
「豊海…、俺は、美穂ちゃんと話せて良かったと思ってる。…この前、彼女を避けてしまったけど、豊海のお陰で、もう1度考えるチャンスを貰えた。…ホントに良かったと思ってるよ」
桜音の手が肩から下りて、豊海の髪を撫でた。
「だから泣かないでくれ……。責めるつもりなんか無いんだ」
豊海は答えなかった。
ただ、涙が溢れて止まらない。
泣けるのは、抑えられないのは、桜音が行ってしまうのが分かっているからなのかも知れなかった。