shampoo
「“スタア誕生”って映画知ってる?」
並べて敷いた布団に横になり、まだ湿った豊海の髪を指で弄びながら桜音は言った。
「知らない…」
余り興味無さそうに答えた豊海の意識は、話の方ではなく、桜音の指にばかり向いていた。
湿り気を帯びた髪を、指先にくるり、くるり、と絡めてはすっと抜く。
引っ張られる度合いは緩くて、勿論痛くは無い。それどころか、刺激具合が、眠気を誘うくらいだった。
幾ら同居人だとは言え、男にこんなことをされたら、普通は“止めろ”と言って手を払うだろう。
だが、豊海は黙ってやらせておいた。
何故なら、手にさえ触れることが無い桜音が、唯一触れるのは豊海の髪だけだったからだ。
その動きを意識しながら、豊海は何も言わずに目の前にある桜音の顎だけを見ていた。
何故なら、目を上げて、彼の視線を捉えるほどの勇気は無かったのだ。
「俺も全部は良く覚えちゃいないんだけどさ、ジュディ・ガーランドが屋上で髪を洗うシーンが有って、そこんとこだけが何故か忘れられない。嫌な事があると髪を洗うんだって、そう言うんだ…」
話はそれで終わりだった。
豊海もそれ以上は訊ねなかったし、桜音も話そうとはしなかった。
ただ、話が終わった後も桜音は髪を弄り続け、やがて豊海はグルーミングのようなその感覚に眠気を誘われ、いつの間にか眠りに落ちていった。
二ノ宮桜音が豊海の部屋に転がり込んで来てもう2ヶ月になる。
出会ったのは半年前。
豊海が働いている居酒屋へ、新しくアルバイトとして入ってきたのが最初だった。
働きながら昼間は専門学校に通っている豊美とは違い、桜音はいい大学に親の金で行っている優雅な学生、という印象だった。
さり気無く見えるが、着ている物も持ち物も、良く見ると良い物ばかりだったし、第一、桜音には裕福な人間が持っている余裕のようなものが感じられた。
だが、後で知ったが桜音は大学生ではなかった。
ラフな格好しか見たことが無い所為か、大して年は違わないだろうと思っていたが、彼は豊海よりも5つ年上の25歳だった。
就職もせずにこんな居酒屋でアルバイトするようなタイプには見えなかったが、今は、就職しても会社が潰れたりすることもあるし、何か事情があるのだろうと思った。
気さくな性格なのか、拘りが無く、桜音は店長やその他の従業員たちにもすぐに馴染んでしまった。
見た目もいいので、女子のアルバイト達はこぞってアピールしたが、誰にでも愛想がいい割には個人の誘いを受けなかったので、きっと彼女が居るのだろうということになった。
どこが気に入ったのか、豊海には良く話し掛けてきたが、豊海は最初、それ以上親しくなれるとは思っていなかった。
一緒に働いているから話しかけて来るが、だからと言って個人的に自分に興味がある訳ではないだろうと思ったのだ。
自分は仲良くなったからといって得になる人間ではない。面白い訳でも、金がある訳でもないし、他の仲間もついでのように誘ってくれることはあっても、特に親しくなろうと近付いてくる人間は居なかった。
そして思った通り、桜音はバイトで一緒になると親しげに接しては来るが、だからと言って、仕事上がりや休日に豊海を遊びに誘ったりすることも無かった。
実を言うと、豊海はそれを少し寂しいと感じていたのだ。
何故か分からないが、豊海は桜音を見ているのが好きだった。
桜音の話し方が好きだったし、笑い方も好きだった。
声が心地良かったし、優しげな眼差しも好きだった。そして、その他にも沢山の魅力が、桜音にはあるような気がした。
だから、彼に話しかけられると、豊海はとても嬉しかったのだ。休憩などで一緒になると、おかしな話、少し胸が高鳴ったりもした。
だが、あまり人付き合いの巧い方ではない豊海は、自分から桜音を誘ったりすることも出来ず、結局はバイトの時間中だけ言葉を交わす間柄から先へ進むことも無かった。
此方に幾ら興味があっても、向こうには無い。その事実が、豊海にはかなり切なかったのだ。
話し掛けられれば会話する。
相変わらず、そんな関係が続いていたある日、豊海は桜音に妙な癖があることを知った。
「え?今はお前んちに居るの?」
休憩の時、先輩の1人が苦笑しながらアルバイトの1人に訊いた。
「はぁ…。1週間ばかり置いてくれって言うんで…」
「ああ、ウチにもそう言って10日ぐらい居たかなぁ…。まさか、家賃でも滞納して追い出されたのか?」
そう言って先輩は笑ったが、どうやら、そうではないらしかった。
段々に分かった事だが、桜音は家族と住んでいる立派な家が有りながら、友人達の間を渡り歩く様に間借りしているらしいのだ。
だからと言って、別段、家族と上手くいっていない訳でも無いらしい。それなのに、まるで放浪する様に一箇所に居られない。
(変なことするなぁ…)
豊海はそう思ったが、それでも桜音を嫌な人間だとは思わなかった。
それどころか、その謎めいた感じが更に豊海の心を惹きつけてしまった。
(ウチへも来ないかな…)
そんなことを考えて豊海は苦笑した。
1Kの襤褸
いアパートになんか、桜音が来る訳が無い。来たとしても、狭過ぎて居場所などなかった。
だが、来てくれたらどんなに嬉しいだろうか。
(もし来てくれたら、もっと色んな話が出来るのに…)
そう思って、豊海はそっと溜め息をついた。
その日は早番で、豊海は11時に仕事を終えるとスタッフルームへ引き上げた。
すると、そこには一足先に上がった桜音が居た。
「お疲れー」
いつもの愛想の良さで、桜音は笑みを見せながらそう言った。
「お疲れ様でした」
豊海も軽く顎を引きながら答えると、エプロンを外しながら自分のロッカーを開けた。
すると、桜音が傍へ寄って来て言った。
「今日からさ、豊海んちに厄介になっていい?」
突然そう言われ、豊海は驚いて目を見張ったまま返事も出来なかった。
他の誰の家に行くことがあっても、きっと自分のところにだけは来てくれない。豊海はすっかりそう思い込んでいた。
だから、桜音の言葉が信じられなかったのだ。
「あ、やっぱ、駄目?」
豊海が返事をしないので拒絶されると思ったのだろう。そう言って苦笑した桜音を見て、豊海は急いで首を振った。
「い、いやっ…、駄目じゃないけど…」
「ほんと?じゃあ、行っていい?」
「で、でも…、俺んち狭いよ?それに…、古いアパートで綺麗じゃないし…」
豊海が少し赤くなりながらそう言うと、桜音は笑いながら首を振った。
「ああ、そんなの全然気にしないから。泊めて貰えるだけで有難いし…。じゃ、悪いけど暫く置いてくれよ」
にっこりと笑いながらそう言われ、豊海はコクリと頷いた。
どうやら、最初からそのつもりだったらしく、桜音は店に大きなボストンバッグを持って来ていた。
そして、そのまま豊海に付いて彼のアパートまで来た。
「マジで狭いんだけど…、ホントにこんなトコでいいの?」
狭い玄関には2人が立っているのがやっとだった。中を示すと、却って豊海の方が恐縮してしまった。
「俺は全然…。でも、悪いな、でっかいのが居候して邪魔じゃない?」
「そんなことないよ。大丈夫…」
「そうか?じゃあ、悪いけど暫く世話になるよ。あ、食費とかはちゃんと払うから」
「うん、いいよ。こんなトコでいいなら、好きなだけ居て…」
桜音が来てくれたことが本当に嬉しくて、豊海は心からそう言った。
高校生の時は親しい友達も居たが、今は、家にまで遊びに来てくれるような友達も作れずにいる豊海だった。だから、一人暮らしを始めてから、この部屋に来たのは桜音が初めてだったのだ。
友達を作るのが苦手なくせに、本当は寂しがり屋だった。だから、今夜から桜音が傍に居てくれるのかと思うと、豊海は心が弾むようだった。
「古い作りの所為かな。こんな狭い部屋だけどお風呂はユニット式じゃないんだ」
部屋の中を一応案内しながら、豊海は桜音に説明した。
「ひとり立つのがやっとだけど、一応脱衣所が付いてる…」
「あ、ホントだ。珍しいな…」
今時のアパートは脱衣所が独立している形式は少ない。桜音も感心して風呂場を覗いた。
「これが気に入って、ここにしたんだ。それに…、家賃も安いし」
学校の授業料だけは親が払ってくれているが、生活費は自分のアルバイト代で賄っている。そんな豊海にとって、家賃の安さは大きな魅力だった。
贅沢は出来ない状況だったから、狭い所為だけではなく、家具類も少なかった。
必要最低限の物しかない部屋を見られるのは少し恥ずかしかったが、桜音はまったく気にしていないようだった。
「綺麗にしてるんだなぁ…。色んなヤツに世話になったけど、豊海んちが一番綺麗だ」
却って感心されてしまい、豊海は少し赤面した。
すぐに分かったが、桜音は同居人としては理想的だった。
煩く話し掛けてくる訳でもなく、かと言って退屈でもない。
自然と豊海の生活に馴染み、前から一緒に暮らしているような気さえした。
それに、桜音の傍に居るだけで豊海は何故か幸せな気分になれた。
何も話をしなくても、ただ2人でテレビを見ているだけでも、いつもと同じ番組が前よりも楽しかった。
そして、狭い部屋に並べて布団を敷いて横になる夜。隣に桜音が居るのだと思うと、その空間が愛しく思えるほどだった。
(なんでこんなに嬉しいんだろう…?)
自分でも不思議で堪らず、豊海は時々、自分が異常にさえ思えた。
弾むような気持ちで桜音と暮らし始めた豊海だったが、暫くして、桜音にはもうひとつ、おかしな癖があるのが分かった。
その夜は2人とも早番で連れ立って一緒に帰って来た。
夕食はいつもバイト先の賄いで済ませてくるので、豊海は部屋に帰ると、すぐにいつものように風呂場へ行き、湯船に湯を入れた。
桜音はテレビを見ながらコンビニで買ってきたビールを飲み始めていたので、豊海は先に風呂に入った。
だが、身体を洗い始めてすぐ、脱衣所に人の気配を感じた。
振り向いて見ていると、ガラリとガラス扉が開いて桜音が入って来た。
「な、なんだよ…っ?」
いきなり入って来た裸の桜音を見て豊海はギョッとした。
朝は学校へ行く豊海が先に起きて出掛けてしまうので、今まで桜音の着替えさえ見たことが無かった。店では制服に着替えたり、私服に着替えたりするのに出会ったこともあったが、それでもまじまじとその様子を見る訳でもない。だから、この時初めて、豊海は彼の裸をまともに見たのだ。
いい身体をしていると前から思っていたが、自分の身体を思わず隠したくなってしまうくらい、桜音は立派な体格をしていた。
マッチョという訳ではないが、程よく筋肉が付き引き締まっている。タオルで前は隠していたが、狭い洗い場で豊海は目のやり場に困ってしまった。
「一緒に入ろうよ」
だが、桜音の方は恥ずかしがる様子などまるで見せずに、当然のようにそう言った。
「な、なんで?」
下を向いたままで豊海が言うと、桜音は彼の後ろに膝を付きながら言った。
「髪、洗ってやるよ」
「え……?」
当然だが、豊海は面食らった。
小さな子供だったらまだしも、豊海はもう、二十歳を過ぎた大人だ。美容室以外で、他人に髪を洗ってもらったことなど無い。
「い、いいよっ、そんな…」
「なんで?髪の毛洗ってもらうの嫌いか?」
「いや…、そんなこと無いけど…」
戸惑う豊海に、桜音は笑って見せた。
「なら、いいだろ?洗わして?」
「桜音さんって、髪フェチとかなの?」
怪訝そうにそう訊くと、桜音はちょっと首を傾げた。
「うーん…、そうなのかな。でもまあ、誰でもいいって訳でもないけどな…」
結局、強く断ることも出来ず、豊海は言われるままに桜音に髪を洗ってもらった。
言うだけあって、桜音はなかなか上手だった。
美容室で髪を洗ってもらうのと然程変わらない感じで、豊海も気分が良かった。
そしてその後も、桜音は豊海が風呂に入ると必ず付いて入り、そして、彼の髪を洗うのだった。
(変なの…)
裸を見られるのは恥ずかしかったが、やがてそれにも慣れてしまい、豊海は嫌がることも無く桜音に髪を洗わせた。
それに、桜音に触れてもらえるのが嬉しくもあったのだ。
桜音の行為に疑問を持たなかった訳ではなかった。
もしかして、自分の身体に興味があるのだろうかとチラリとそう考えたこともあった。
モテるのに桜音は誰の誘いにも乗らなかったし、もしかしたらゲイなのだろうかと思ったりもした。
だが、桜音は髪を洗うだけで、豊海の身体に触れることは無かったし、それに彼が興奮している様子を見せることも無かった。
だから豊海は、彼が自分の髪を洗いたがるのには性的な意味は全く無いのだと思った。
(なにか…、理由があるんだろうな。やっぱり…)
そう思っていたが、結局は訊けなかった。
そうして、桜音に豊海の部屋を出て行く気配の無いまま、いつの間にか2ヶ月が経っていた。