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逃げるようにして部屋に帰り、豊海は玄関に入るとそのままそこへぺたりと腰を下ろした。
桜音が会いに来てくれた。
心配して、わざわざ来てくれた。
でも、桜音は間違いなく自分を哀れんでいた。
報われる筈も無いのに、自分に恋をしている豊海を哀れんでいたのだ。
同情は優しい感情だと思う。
だが、恋をしている相手に同情されるのは辛過ぎた。
トントン、と背後でノックの音がし、豊海はハッとして顔を上げた。
振り向くと、またノックの音がして、そして桜音の声が聞こえた。
「豊海…、開けてくれないか?もう少し、話がしたい。頼むよ……」
のろのろと立ち上がり、豊海はドアの前に立った。
「話……?」
ぼんやりとした声でそう言うと、すぐにまた桜音が答えた。
「うん。もう少し、話そう?」
豊海は黙っていた。
一体、どんな話をしようというのだろう。
自分の気持ちと桜音の気持ちは何処まで行ったって平行線だ。交わることなど無いのだ。
だったら、幾ら話しても何を話しても、自分はただ辛いだけだと分かっていた。
豊海がドアを開けないので、桜音はそのままドア越しに話し始めた。
「俺は…、豊海を哀れんでなんかいないよ?豊海が好きになってくれて本当に嬉しいよ。……ここに居た間に、俺は随分楽になれた。美紅のことも、思い出にして、先に進もうって思えるようになったのは豊海のお陰だと思ってる。……本当に感謝してるんだ」
桜音の言葉を、まるでその扉の向こうから温もりを感じようとするようにして、豊海はドアに身体をつけながら聞いた。
「…俺、何にもしてないよ……」
か細い声で豊海が答えると、ドアに少し近付いたのか、桜音の声がさっきよりも近くから聞こえた。
「いや……。豊海が傍にいてくれたことが、俺にとっては救いだったような気がするんだ。色んなヤツの色んな部屋に厄介になったけど、ずっと居たいと思ったのは豊海の傍だけだった。……そして、豊海の傍に居る間は美紅のことを少しずつ過去にしていけたような気がする。忘れるのとは違うし、勿論、忘れることなんか出来ないんだけど、それでも前とは違う。……今になって考えると、そう思えるんだよ」
ドアに額をつけ、豊海は黙って桜音の言葉を聞いていた。
桜音の気持ちは嬉しかった。
自分を大事に思ってくれているのが分かる、真摯な言葉だと思う。
だが、それは豊海の欲しい言葉とは違っていたのだ。
「……ありがとう……」
ぽつりとそう言うと、豊海は目を瞑った。
「桜音さんがそんな風に思ってくれたなら嬉しい……。嫌われても仕方ないのに、優しくしてくれてありがとう。……ありがと……桜音さ………」
最後は涙で掠れて、言葉は消えていった。
「豊海ッ……」
泣いているのが分かったらしく、桜音は手の平でドアを叩いた。
「豊海、泣くなよ…。なあ、ここを開けて?開けてくれよ…」
豊海は黙ったまま、何度も何度も首を振った。
本当は扉を開けて、桜音に抱きしめてもらいたかった。
だが、そんなことをしたら、きっともう離したくなくなってしまう。
だから豊海は、ドアを開けなかった。
あの後、何を言っても豊海がドアを開けようとはしなかったので、桜音は暫くすると諦めて帰って行った。
桜音のことを考えないようにしながら、豊海はあれから数週間を過していた。
だが、どうしても辛くなると、豊海は髪を洗いアパートの屋上へ上った。
相変わらず、綺麗なものは何も見えなかったが、それでもそこで風に吹かれていると、心が落ち着くような気がした。
そして、本当は待っていた。
あの映画の主人公のように、自分にも奇跡が訪れることを。
待ち望んでいた人が現れて、下から手を振ってくれるのではないかと何処かで願っていた。だが、それは起きる筈の無い奇跡だということも、本当は分かっていたのだ。
手摺を掴み、豊海は煤けた町並みを眺めた。
濡れた髪の間を風が抜けていく。
冷たくて、それは心地のいい感触だった。
桜音の愛した美紅は、どんな女性だったのだろう。
双子なのだから、顔は美穂に良く似ているのだろう。
性格は、どんなだったのだろうか。
明るくて、可愛い人だったのだろうか。
会った事もないのに、豊海はそんな風に思った。
桜音が好きになる人だ。きっと、魅力に溢れていたのだろう。
自分もそんな女性だったら、もしかして桜音に好きになってもらえたのだろうか。
そんなことを考えて、豊海はクスッと笑った。
有り得ないことばかりを自分は望んでいる。
奇跡なんて、起こる筈も無いのに、馬鹿みたいに待ち続けている。
映画みたいに、自分の人生が動く筈なんか無い。
手摺に腕を乗せ、豊海は頬をつけた。
もう、ここへ来るのは今日を最後にやめようと思った。
いつか、本当にいつか、桜音を忘れて他の誰かを好きになれるのかも知れない。
その時を、待つしかないのだと思う。
そう思ってふっと顔を上げた時、ポケットで携帯電話が鳴った。
見ると、それは知らない番号だった。
躊躇ったが、豊海はボタンを押すと耳に携帯を当てた。
「もしもし…?」
「もしもし?豊海…?」
「え……?」
それは、桜音の声だった。
「そんなところで、何してるんだ?」
「……え?」
見ると、下の通りで桜音は此方を見上げていた。
呆然として豊海が見下ろしていると、下に居る桜音が此方に手を振り、そして耳元で声が聞こえた。
「今、行くから待ってて?」
言葉の後に携帯の切れる音がして、豊海が見ていると桜音はアパートの中に入って来た。
暫くすると、屋上のドアが開き、桜音が姿を見せた。
「ふう…。ここまで一気に階段を上ってくると結構きついな……」
笑いながらそう言い、桜音は豊海に近付いて来た。
「な…、なんで……?」
まさか、本当に奇跡が起きたのだろうか。
そう思って、豊海は近付いて来る桜音を見ながら、ドキドキと鼓動を早めた。
「志田に無理言って、番号教えてもらったんだ。どうしても、豊海のことが気になって、忘れられないんだよ」
「桜音さん……」
傍に来ると、桜音は気がついて豊海のまだ濡れた髪に手を伸ばした。
「髪…、洗ったんだ?まだ濡れてる…」
「うん…」
「なんか、少し痩せたみたいだな…?それも、俺の所為なのかな…」
辛そうにそう言い、桜音は豊海の髪を撫でた。
そしてまた、豊海の中に桜音の指の感触が刻まれていった。
「この前はごめんなさい。折角優しくしてくれたのに、俺……、ちゃんと話も出来なくて…」
豊海が言うと、桜音は首を振って豊海の髪から手を離した。
「いや……。俺こそ、放って置いてくれって言われたのに、しつこくしてごめん…。でも俺、このまま豊海と疎遠になっちまうのが、どうしても嫌なんだ……」
顔を上げた豊海の目を、桜音はじっと見つめた。
「俺にとって、豊海はとても大事な存在だから、泣かせたくないと思う。寂しい思いもして欲しくないと思う。勝手かも知れないけど、早く豊海に元気になって欲しいんだ」
豊海はなんと答えていいのか分からなかった。
だが、自分がいつまでもめそめそしていることを桜音が気に病んでいるのなら、自分は例え虚勢を張ってでも笑わなければいけないのだと思った。
唇の両端を持ち上げて、豊海は桜音に笑顔を見せた。
「うん…。俺、もう大丈夫だよ?ちゃんと、忘れるし…。ちゃんと、ひとりでも、やっていけるから……。心配しないで?もう、心配しなくていいよ」
「豊海…」
奇跡ではない。
これは、桜音が目の前に居るのは、奇跡ではないのだ。
自分の告白は桜音にとって、思っていたよりもずっとずっと重荷だったのだと、豊海は今、やっと分かった。
「桜音さんと知り合えて、一緒に暮らせて良かった。楽しかった…。だから、俺、きっと後からいい思い出だったって感じられるようになるよ。……今はまだ、ちょっと辛いけど、でも桜音さんが味わった苦しみを思ったら、こんなのなんでもないから……」
笑みを浮かべているのはもう限界だった。でも、豊海は表情が強張らないように必死で耐えていた。
桜音に、これ以上辛い思いをして欲しくなかったから。
早く、重荷を下ろして欲しかったから。
豊海は必死で平静を装って嘘をつくしかなかったのだ。
「だから、もう平気。……ね?もう、俺のことは気にしないで?」
もう1度唇の両端を持ち上げ、豊海は桜音を見上げた。
「豊海……ッ」
辛そうに呟くと、桜音は両手で豊海の頬を包んだ。
「辛いくせに、そんなに無理して…ッ。何でそんなに健気なんだ……?みんな俺の為なんだって分かるから…、だから、放っておけない。放っておけないよ……」
頬から両手が離れ、そして今度は豊海の身体を桜音の腕が抱きしめた。
いけないと思いながら、豊海は桜音の身体に腕を回した。
本当は、こうして抱きしめて欲しかった。桜音が傍に居てくれるのなら、例えそれが同情からだけでも構わなかったのだ。
一生懸命頑張って、平静を装うとしたが、無理だったらしい。桜音の目には自分が無理をしていることがはっきりと映っていたのだろう。
「ごめんなさい……」
桜音の胸に顔を押し付けながら、小さな声で豊海は言った。
ちゃんと平静を装えなかったこと、そして、桜音の重荷を取り除いてやれなかったことを済まないと思ったのだ。
「でも嬉しくて……、拒めないんだ…。ごめん…、ごめんね?」
ずっと、髪以外にも触れて欲しいと思っていた。
抱きしめて欲しいと思っていた。
だから、桜音の腕の中に居るこの瞬間が、豊海にとってはまるで夢のようだった。
ギュッと、背中に回した手で桜音の服を掴む。
全ての感触を覚えておこうとして、触れている部分全部で豊海は桜音を感じようとした。
これが最後でも、忘れない。
そう思ってしがみ付く。
桜音の匂いも何もかも、豊海は覚えておきたいと思った。