便利屋銀次

第1話 先生と便利屋


「くぁぁー…っ」
2日掛りで合計16枚の襖を一人で張替える仕事を終え、些かげんなりした面持ちで伸びをすると、銀次は川沿いの土手を歩き始めた。
今日の仕事はこれで終わりでは無い。
あと、夕方に、いつもの犬の散歩が残っていた。
伊藤銀次が便利屋を始めてもう3年になるが、細々ながら自分ひとりが喰っていくには困らない仕事量が舞い込んできていた。
「俺も歳かなぁ…」
忌々しげに呟き、銀次はまた大きく伸びをした。
同じ姿勢が続くと、近頃、少々腰に来るようになった。厄年を過ぎて、余り無理の利かない年齢が近づいてきているのかも知れない。
(ん……?)
丁度、土手の中間辺りに、膝を抱えて座っている男を見つけ、銀次は眉を寄せた。
それは、アパートで銀次の部屋の隣に住む、高校教師の山鹿だった。
(なにしてんだ?あんなとこで…)
山鹿は背も高く良く見ると男前だったが、少々猫背でぼうっとした感じがする。
身なりも構わないし、如何にもお人好しらしい風貌で、良く言えばおっとりとした男だった。
「こんな、ぼんやり野郎が今時のガキを扱えんのかねえ…」
山鹿を見る度に、銀次はそう思ってしまう。
それほど、銀次から見ると山鹿は頼り無く見えたのだ。
その山鹿が、何やら思いつめた表情で目の前の川を眺めていた。
「おう、先生。どうした?」
土手の上から声を掛けると、山鹿は銀次を振り仰いだ。
「あ…、便利屋さん…」
(ちぇ、……懐っこい顔しやがる…)
その気の抜けそうな笑顔を見て、銀次は少々苦笑した。
「どうしたよ?こんなトコで黄昏てて」
「やぁ……、ははは…」
何やら曖昧に笑い、山鹿はまた川の方に目をやった。
もう夕方が近いが、まだ日は落ちていない。川風があるからいいようなものの、木陰も無い土手の上は少々暑かった。
「おい。そんなトコにいねえで、冷コーでも飲まねえ?」
「……は?何を飲むんですって?」
今や死語となった“冷コー”(アイスコーヒー)という言葉を聞き、山鹿は不思議そうに振り返った。
「“寺“にでも行かねえかって…。俺ぁ、次の仕事までに中途半端に空いてんだよ。奢ってやるぜ」
その言葉を聞いて、山鹿は急いで立ち上がった。
「あ、いや、いいですよ。僕が奢ります」
「ばぁか。ガキが生意気言うんじゃねえ」
まだ30にもならない山鹿は、厄年を過ぎた銀次から見れば子供ということになるらしい。
決め付けるようにそう言われて、山鹿は先に立って歩き出した銀次の後ろで苦笑した。


“寺”と言うのは、喫茶店の名前だった。
銀次と山鹿が住んでいるアパートの1階にあり、アパートの大家でもある榎田という50絡みの男が経営者だった。
妻は無く、やはりアパートの1階に年老いた母親と2人暮しだったが、その母親も何年か前に亡くなって、今は独り暮らしだった。
若い頃、宇宙飛行士に憧れていたとかで、店の中には天体の写真やら、スペースシャトルの模型やらが飾ってある。
それがどうも、ログハウス風の内装には、かなり不釣合いな装飾だった。
「あれ、銀ちゃん。襖貼り、終了かい?」
妙に色艶のいい顔に人の良さそうな笑顔を浮かべ、榎田は入って来た銀次に声を掛けた。
「おう。やっと終わったぜ」
疲れたと言わんばかりに、ボックス席のひとつにどっかりと腰を下ろすと、後から入って来た山鹿も榎田に頭を下げてから前の席に腰を下ろした。
「センセ、今日はお休みかい?」
それを聞いて、銀次は呆れたように榎田を見た。
「たりめえだ。今日は土曜だろうが」
すると今度は、榎田の方が呆れ顔になった。
「なに言ってんの、銀ちゃん。センセは吹奏楽部の顧問もやってるから、土曜日や日曜日もお休みとは限らないんだよ。ねえ?」
最後は山鹿に向かってそう言い、榎田はニッコリと笑った。
「へえー…」
興味も無さそうにそう言うと、銀次はテーブルの上に乗っていたスポーツ新聞を広げた。
「エノさん、冷コーふたつ」
新聞を見たまま、銀次は山鹿の希望も聞かずに勝手に注文した。
「はいよ」
榎田がカウンターの後ろに引っ込んでしまうと、山鹿は所在無げに新聞を読む銀次を眺めていた。 が、やがて何かに気付いて手を伸ばすと、銀次の右手首を掴んだ。
「銀次さん、血が出てる…」
「あ?ああ。カッターでちょいと切ったんだ。もう、固まってんだろ?」
「でも、絆創膏、貼っておいた方がいいですよ」
言いながら山鹿はポケットを探り絆創膏の包みを取り出した。
「用意がいいな…」
苦笑する銀次に山鹿も笑った。
「僕、そそっかしいんで、年中何処か怪我するんですよ」
「ふーん…」
頷いた銀次の指を取り、山鹿は切り傷に絆創膏を貼った。
黙ってそれを見ていた銀次はふと目線を上げて山鹿の顔を見た。
いつも屈託の無い表情でまるで子供みたいだと思っていたが、今日はなにやら胸に秘めてでもいるらしく、いつもとは違って陰がある。
他人事と割り切ればいいのだが、そこが銀次の悪い癖で、気になって放ってはおけない。つい、口を開いてしまった。
「なぁ、先生。何か心配事でもあったのか?」
「え…?…あ、いや…、別に大したことじゃ…」
口篭った山鹿から指を取り返し、銀次は煙草を出して1本銜えた。
「言いたくなきゃいいが…。らしくねえ表情かおしてっからさ」
「は…はは…」
それほど顔に出しているつもりも無かったのだろう。情け無さそうに笑いながら、山鹿は自分の顔を撫でた。
「実は…、教師を辞める事になるかも知れなくて…ですね」
銀次はそれを聞くと、顔を顰めて煙草の煙を吐き出した。
「おめえ、そりゃ大した事だろうが」
銀次が言うと、丁度アイスコーヒーを運んで来た榎田も目を丸くして言った。
「ええー?なんで?センセ。何かあったのー?」
「はあ…。少々、不始末を…」
「不始末…?」
銀次は言いながら、灰皿の中へ煙草を押し付けた。
顔を合わせれば言葉を交わす程度で、今まで銀次と山鹿はそれほど親しい付き合いがあった訳では無い。
大体が、銀次は余計な口を利かない性質だし、山鹿の方も愛想はいいが舌が滑る方でも無い。
だが、お互いに好印象は持っているし、相手に何か問題が起きたとなれば心配するぐらいの好意は抱いていた。
そんな訳で銀次も、山鹿の思いがけない言葉に表情を曇らせた。
「なんで?何をやらかしたよ?」
だが、山鹿は曖昧に笑うと首を振った。
「いや…。個人的な事なんで…」
そう言われてはしつこく訊く訳にもいかない。銀次も榎田もただ頷いただけで、それ以上は追求しなかった。
アイスコーヒーを飲み終えると、山鹿は奢ると言った銀次に礼を言って帰って行った。
そのグラスを片付けに出て来ると、榎田は山鹿が出て行ったドアの方を見て心配そうに言った。
「なんだろうねえ?銀ちゃん。教師を辞めるなんて、よっぽどの事だよ。ねえ?」
「さあな。本人が言いたくねえモンは、傍が気にしたって仕方ねえよ」
新聞を見たままで、銀次は冷たい台詞を吐いたが、内心では榎田以上に山鹿の事が気に掛かっていたのだ。



“寺”を出て、銀次は契約している各家を回り、5匹の犬を引き取るといつもの散歩コースを回った。
ゴールデンレトリーバーと、ダルメシアン、それにコーギーの番が1組と豆柴が1匹だ。
「こら、真由美ッ、また寄り道するんじゃねえッ」
飼い主のつけた立派な名前を無視し、銀次は犬を良く行く飲み屋の女性従業員の名前で呼んでいる。不思議なもので、毎日の事になると、犬の方でも銀次の呼び方に慣れてしまっていた。
「サユリ、おまえ今日はクソの垂れ過ぎだ」
公園の入り口で脱糞を終えたダルメシアンにうんざりとした顔でそう言うと、銀次は持参のビニール袋に糞を始末した。
ふと顔を上げると、薄闇の中に1組の男女が見えた。
どちらも私服だったが、女の方は高校生ぐらいの感じだった。
何を話しているのかは遠くて分からなかったが、余りいい雰囲気とは言えなかった。
女の方が何やら必死に訴えているのを、男の方は余り真剣に聞こうとしていない。
(別れ話の縺れか…?)
なんとなくそう感じたが別段心に留める訳でも無く、銀次は犬たちを急かせると、その場を離れた。