便利屋銀次
第2話 娘と便利屋
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その夜は、雪奈が寝ついて規則正しい寝息が聞こえてきても、銀次は眠る事が出来なかった。
夜明け近くになってやっとうとうとしたが、雪奈が眠っている内に起き出すと、ざっとシャワーを浴びて外へ出た。
何か朝食を買って来ようと思ったのだ。
すると、丁度隣のドアが開いて、山鹿が顔を出した。
「あ、おはようございます…」
「おはよう」
いつもの様ににっこりと笑い掛けられ、何故か銀次は後ろめたい気持ちになった。
「銀次さん、朝ご飯は?」
「ああ、いま、コンビニへでも行くかと思って…」
「なら、ちょっと待って下さい」
「え…?」
戸惑う銀次を残して山鹿は部屋へ戻ると、今度は両手に盆を持って戻って来た。
「大したもんじゃないけど、朝ご飯…。お嬢さんと2人で食べて下さい」
「先生…」
盆の上にはオムレツが二人前と、サラダ、それにスープが入っているらしい小さな鍋が載っていた。
「済まねえ…、いつも…」
「いえいえ。こんなことしか出来なくて…」
「ありがとう…」
頭を下げて受け取ると、銀次は山鹿にドアを開けてもらって部屋に戻った。
すると、雪奈は今起きたらしく、ボーっとした顔で座卓の前に座っていた。
昨夜の事もあって銀次は少し心配そうに顔を見たが、雪奈は銀次の運んで来た朝食を見て嬉しそうに言った。
「あれ?凄いじゃん…。下の榎田の小父さん?」
「いや…。隣の、…先生から」
迷ったが、銀次は本当の事を話した。
「へえ?隣の先生って、高校の先生なんだよね?ぼんやりした感じだけどさ、良く見ると結構いい男だよねー」
「…ああ。そうだな」
「お父さん、先生にご飯作ってもらったりしてんの?」
「まあ、たまに…。あっちも独りだし、一緒に食おうって言ってくれるからな」
「へえ?榎田の小父さんと言い、お父さんって面倒見てやりたくなるタイプなのかなぁ…。こぉーんなに、無愛想なのに」
「煩せえな…ッ。いいから、パンでも焼けよ」
「はいはい…」
雪奈は笑いながら立ち上がると、台所へ入って行った。
強がりかも知れなかったが、今朝の雪奈はもう、何時もの調子に戻っていた。
銀次は少しホッとして、盆の上からテーブルへと皿を移し始めた。
「ねえ、お父さん、今夜さぁ、私、なんか作るし。何時もお世話になってるお礼も兼ねて、先生の事呼んだらどう?」
「…って、おめえ、今晩も泊まって行くつもりか?」
銀次が眉を上げると、雪奈はムッとした顔をして言った。
「いいじゃないよッ。たまの事なんだからッ」
「ああ、まあ、そりゃ構わねえけどな。…先生は、…いいよ、呼ばなくて」
「なんでー?」
屈託のない顔でそう訊かれ、銀次は一瞬口篭った。
「そいうことすると、先生は却って余計な気ィ使うしよ。…そういう人だから…」
「ふーん…、そう」
納得したのか、雪奈は頷いて、また台所へ入って行った。
娘にも、そして山鹿にも、堂々と出来ない事が後ろめたかった。
(くそっ…。らしくねえなぁ…)
そう思うが、どうしても二人を会わせる勇気が出ない。
そんな自分が情けなくて、銀次は思わず溜息をついていた。
洗った食器を返して来いと雪奈に言われ、持たされた煎餅の袋を盆の上に載せると、銀次は山鹿の部屋のドアを叩いた。
「あ、そんなの後でも良かったのに…」
笑いながら言った山鹿に、銀次は苦笑して見せた。
「雪奈のヤツが、すぐに行ってこいって煩せえからよ。ごちそうさま、旨かったよ」
「そうですか?良かった…」
「あの、…先生、ちょっと、いいか?」
「え?…ああ、はい。どうぞ」
身体を避けるようにして、山鹿は銀次が通るスペースを作った。
銀次は雪駄を脱いで上がると、居間の方へ入って行った。
山鹿は台所へ盆を置くと、銀次の前へ座った。
「コーヒーでも淹れましょうか?」
「いや、すぐに帰るから…」
「そうですか?…あの、どうかしましたか?」
いつもと違う銀次の態度から何かを感じたのだろう。心配そうな山鹿の顔を見て、銀次は僅かに気後れするのを感じた。
だが、どうしても話しておかなければならない。
「あのな、先生…、実は、雪奈の母親が再婚するらしくてな…。それで喧嘩して飛び出してきたらしいんだが…。あいつ、昨夜、俺と暮らしてえなんていい出してさ。…まあ、そんなことは母親も許さねえだろうし無理とは思うが、もし、万が一、そういうことになったとしたら…」
そこで、とうとう銀次は口篭った。
これが自分の勝手な言い分だと十分に承知しているからだった。
だが、山鹿は腹を立てる事もなかった。
「分かりました…」
静かにそう言うのが聞こえ、銀次は顔を上げた。
酷く寂しげに、だが、山鹿は笑っていた。
「僕の事は気にしないで下さい。…元々、僕が勝手に好きになって、そんな気持ちを銀次さんに押し付けていただけです。触れさせてもらえるなんて思ってもいなかったのに、僕の腕の中に入って来てくれた。…それだけで、十分幸せです」
「先生…」
「銀次さんにとって、誰が1番大事なのかちゃんと分かってますから。僕の事は、もういいですよ。…今まで、ありがとうございました」
そこに手を突いて、山鹿は銀次に頭を下げた。
「よ…よしてくれっ…。俺ぁ…」
居たたまれなかった。
銀次はサッと立ち上がると、逃げるようにして山鹿の部屋を出た。
詰られた方が増しだった。
あんな事を言われたら、胸が苦しくて耐えられない。
そして、もうこれで山鹿との関係が終わってしまうのかと思うと、それが1番辛い。
そのことに、遅ればせながらやっと銀次は気付いたのだった。
午後から、雪奈が買い物に行くと言うので、銀次も一緒に付いて行った。
マーケットで夕飯の買い物をし、雪奈が本屋へ寄って行くと言うので、銀次は荷物を持って一足先にアパートへ戻った。
喉が渇いていたので、大家の榎田がやっている1階の喫茶店“寺”へ寄ると、何時も色艶のいい榎田が笑顔で迎えてくれた。
「雪ちゃん、来てるんだってね?」
「ああ、昨夜、急に来たんだよ」
「今晩も泊まってくのかい?」
銀次の持っていたマーケットの袋を見て榎田は言った。
「ああ。そうらしい」
そこに置いてあったスポーツ新聞を広げながら銀次が答えると、榎田は前に回ってテーブルの上に身を乗り出すようにして言った。
「ねえ、銀ちゃん、あんた、何か聞いてないかい?」
「なにが?」
気の無さそうに答えると、榎田は声を落として言った。
「さっき、山鹿センセが来てね、もしかしたら引っ越す事になるかも知れないからって言うのさ」
「…え?」
銀次は驚いて顔を上げた
「あたしゃ、センセのこと気に入ってんだよ。出来れば長く住んでもらいたいと思ってさ…。何か不都合でもありますかって訊いたんだけど、個人的な理由だからって…。ねえ?なんかウチに不満でもあるんかね?銀ちゃん、知らないかい?」
「…いや。…俺ぁ、なんにも…」
そう答えたが、銀次には勿論心当たりがあった。
山鹿は、自分に気を遣って出て行くつもりに違いなかった。
(先生…)
さっきの寂しげな顔を思い出して、銀次はギュッと目を瞑った。
(俺ぁ、何がしてえんだろ…?)
雪奈と暮らしたいのか、それとも、山鹿と別れたくないのか。
両方は取れないのだろうか。
それは、欲張りなことなのだろうか。
誰も傷つけずに、上手くやる事が、どうして自分には出来ないのだろうか。
(なんでこう、不器用なんだ。俺は…)
そんな自分が、酷くもどかしい。
そもそも、もっと器用だったら、雪絵との結婚生活も続いていたのかも知れなかった。
少なくとも、もうすでに、山鹿の事を傷つけてしまった。自分一人が悪いのだと、彼に言わせてしまった事が悔やまれてならなかった。
最初は流されたのかも知れない。
だが、2度目に抱かれたのは自分の意志だった。
求めたのは山鹿だけではない。確かに自分も、彼を欲しがっていたのだ。
「銀ちゃん、アイスコーヒーお待たせ」
「んッ?あ、…ああ」
テーブルの上に水滴のついた銅のマグが置かれ、銀次はハッとして顔を上げた。
「どうかした?」
怪訝そうに訊いてきた榎田に首を振ると、マグに手を伸ばしながら銀次は言った。
「いや…、なんでもねえよ」