ワルイアソビ


-10-

慣れている指だった。
お蔭で、痛みは余りない。
だが、気持ち良くもなかった。
映画館の中は辛うじて暖房が効いてたけど、やっぱりトイレは少し寒い。ケツを出してる所為もあって、俺は背筋に怖気を感じた。
そして、思い出した。
武我と駅のトイレでヤッた時は勿論暖房なんか無かったし、もっともっと寒かった。
けど、あの時の俺の身体は寒さなんか微塵も感じなかった。
体中が熱くて、終わった後は汗ばんでいたくらいだった。
でも今、幾ら敏感な部分を触られても、ちっとも熱っぽくなれない。興奮もしなければ、快感もなかった。
ただただ、身体も、そして心も冷めていく。
そして、胃のムカつきだけが矢鱈と激しくなっていった。
「いいかな?」
訊かれて、俺は頷いた。
もう、とっとと挿れて終わりやがれ。
ゴム付きのセイジのナニが、アナルに当った。
クッと先っちょが俺の中にめり込む。
途端に胃液が喉まで上がってきた。
「うぇッ…」
慌ててバッと便座の蓋を上げ、俺はそこへ嘔吐した。
「おっ、おいッ」
慌てるセイジの声が背後で聞こえたが、俺は構っちゃいられなかった。
昼飯も夕飯も碌に食ってなかったら、吐くのは殆ど液体だけだったが、俺は胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。
気がつくと、セイジの姿は無かった。
興醒めして、ずらかったんだろう。
俺にとっては都合が良かった。難癖をつけられなかっただけでも、助かったのかも知れない。
吐いた所為で汚れたマフラーをトイレのゴミ箱の中に捨てると、俺は水道で何度も口を漱ぎ、洗面台の中に頭を突っ込んで、汚れた髪もそこで洗った。
ざっと水気だけを切り、びしょびしょのまま構わず表へ出た。
酷く疲れて、そして寒くて、歩くのが億劫だった。
映画館の外まで出て、そこの壁に背中を押し付けると俺はその場にしゃがんでしまった。
寒風に晒されて、頭が、氷のように冷たくなった。
もう、人影も疎らだったが、数人が駅の方からチラホラと歩いて来る。
両手を口元に当てて息を吹き掛けながら、俺はそっちを眺めた。
その人影が誰なのか、俺は随分遠くから気がついていた。
暗いのと遠いので、表情までは分からない。
けど、そのシルエットだけでも俺には分かる。
ずっと、目を離さずに動きを追ったが、道を挟んで歩いて行く武我が俺に気付く筈も無かった。
その姿が段々大きくなり、そしてまた、段々小さくなるのを、俺は黙って見送った。
今頃帰って来たってことは、やっぱり琴音と一緒に居たんだろう。
この3日の間で、俺の事を、ほんの少しぐらいは考えてくれたんだろうか。
諦められない自分が、なんだか無性に悲しかった。
けど、こんな馬鹿げ行動に出て、尚更惨めになってどん底まできたくせに、それでも俺は、武我が好きで堪らない。
今すぐに、大声を上げて泣きたいほどに、俺は武我が好きだった。
頭から冷えが体中に伝わり、歯がガチガチと鳴り始めた。
幾ら何でも、もうそろそろ限界だ。
腰が重くて仕方なかったが、いつまでもここに座っちゃいられねえ。
顔を上げて、額に張り付いた髪を掻き上げようとすると、コンクリの上にザシュッと靴が滑る音がした。
見ると、見慣れた制服のズボンの柄が目に入った。
「武我…」
俺に気付いてたんだ。そう思うと、また泣きそうになった。
俺が武我を見つけたように、向こう側から俺を見つけ、武我は少し先の信号を渡ってこちら側に来てくれのだ。
「なに…、やってんだ?晶…」
酷く心配そうな表情で、武我は言った。
武我の方から近付いてきてくれた事が嬉しかった。そして、何故だか急に、俺は心細くて堪らなくなっていた。
「男…、拾ってみたんだけどよ。上手く、いかなかったわ……」
掠れた声でそう言い、笑おうとした。
けど多分、俺の唇は歪んだだけだっただろう。
「ゲロ吐いちまって、逃げられた。はは……っは…、上手くいかねえ…」
今度は笑えた。
そう思った。
けど、笑い声は途中から、なんだかおかしな調子に変わってしまった。
武我は何も言わなかった。
その代わりに、泣き出した俺の傍に来てしゃがんだ。
「アホか…」
低い声で小さくそう言うと、武我は俺の髪に触った。
「びしょびしょじゃねえ。風邪ひくぞ」
「いいんだ…。もう、帰って寝るし…」
俺が答えると、武我は立ち上がった。
ああ。
もう、行っちまうんだな、と思った。
途端にまた、涙が込み上げる。
「ほら…」
けど、武我は行かなかった。
差し出されたその手を、俺は馬鹿みたいにじっと見つめた。
「立てよ。行こう…」
「何処へ?」
とは、訊かなかった。
何処だっていい。
武我が、行こうと言ってくれるなら、何処でも行くよ。
俺は、武我の手を握ると、それを支えにして立ち上がった。
ずっと握っていたいと思った手はすぐに離されちまったけど、それでもいい。
それでも、俺は武我が手を差し伸べてくれた事が嬉しかった。
立ち上がった俺に、武我は自分の首からマフラーを外して掛けてくれた。
「頭、そんなんじゃ風邪引くって…」
怒ったように言ったのは照れ隠しらしい。
また泣きそうになって、俺はマフラーをグルグル巻くと、顔を隠した。
「サンキュ…」
マフラーの中で、くぐもった声でボソリと言う。すると、武我の手が戻って来て、また俺の手を掴んだ。
「行こう。風呂……入らねえと…」
そう言って歩き出した武我と手を繋いだまま、俺も一緒に歩き出した。
“風呂”って何処のだろう?
そう思っていたら、武我は俺を裏通りのホテル街へ連れて行った。
その内のひとつに入ると、1番安い部屋を選んで鍵を貰い、俺を促した。
途端に、俺の胸がドキドキと高鳴り始めた。
まさか、武我とラブホへ入る日が来るなんて、思ってもいなかった。
いや、それどころか、さっきまでは、もう2度と話も出来ないんじゃないかって思ってたくらいだ。
でも、まさか武我が、また俺とエッチしたくてここへ連れて来たなんて思っちゃいない。 俺だって、それほどお目出度くねえさ。
武我はきっと、俺の余りの惨めさに同情したんだろう。
可哀想になって、少しは暖かい場所へ連れて行ってやろうと思ったに違いなかった。
でも、それでもいい。
だって、俺の手はまだ武我の手と繋がれてるんだぜ。
それだけで、冷え切ってた俺の心は十分に温かくなっていた。
建物の中に入って、暖房が効いていたお蔭で俺の歯はやっと鳴らなくなった。
けど、芯から冷え切っていた俺の身体は、時々怖気に襲われてブルッと何度も震えた。
「大丈夫かよ?」
それ気付き、武我が眉間に皺を寄せて振り返った。
「うん、寒い…」
答えると、掴んでいた武我の手にギュッと力が篭った。
「もう、ちょっとだからな?」
「うん…」
ぶっきらぼうな調子は相変わらずだったが、でも、俺を励まそうとしてくれてるんだってちゃんと分かった。
ホントに、武我がこんなに優しくしてくれるなんて夢みたいだ。
エレベーターを降り、借りた部屋に着いて武我が鍵を開けた。
安いだけあって、部屋はシンプルだった。
けど、勿論設備なんてどうだっていい。
武我は、部屋に入るとすぐ顎を杓って風呂の方を示した。
「風呂入れよ。良く暖まった方がいいぜ」
「うん。ありがと…」
もしかしたら、俺が風呂に入ってる間に、武我は帰っちまう気なのかも知れない。
そう思ったが、俺は素直に頷いて、風呂へ向かった。
風呂は狭く、湯船は小さかった。脚がつっかえそうだが、その代わり、これならすぐに湯が溜まるだろう。
湯船の栓を閉め、俺は蛇口を捻ると、湯を入れた。
服を脱いで、まだ浅い湯の中へ入る。
そのまま膝を抱えるようにして座り、湯が増えて、身体を包んでいくのを待った。
風呂から出て、そこに武我の姿が無くてもがっかりするのはやめようと思った。
もう2度と、話も出来ないのかと思ってたのに、武我はこんなにも優しくしてくれた。
多分俺は、それだけで、随分救われたんだと思う。
じんわりと涙が滲み、俺はもう、隠す必要がなくなった涙を拭いもせずに流した。
明日から、ちゃんと学校に行こう。
武我とも笑って話せるように努力しよう。
元のようになるのは無理でも、せめてクラスメートとして残りの学校生活を過ごせるようになろう。
武我が許してくれるなら、俺はそうなれるように努力しようと思った。
もし、風呂から出てもまだ武我がそこに居てくれたら、俺はちゃんと自分の気持ちを話して、もう1度謝ろうと思った。
武我の事を諦めるのは、難し過ぎて出来そうもない。
こんなに好きになっちまったら、もう今更、忘れるなんて無理な話だ。
でも、顔を見て武我がムカつくような存在にはなりたくねえ。
静かに泣きながら、俺はそんな事を考えていた。
湯が溜まって、身体が少しずつ温まってくると、荒んでた気持ちも随分穏やかになってくるような気がした。
両手で湯を掬い、何度も顔を洗って、俺は涙と別れた。