イヌ・3


-2-

週末は隆哉が泊まりに来るのだと思うと、夏樹は嬉しくて何をしていても自然と顔が綻んでしまった。
今週はまた部活が始まったので、隆哉も忙しくなってしまったし、毎日会うという訳にもいかなくなった。だから余計に、泊まりに来てくれることが嬉しかったのだ。
だが、木曜日の晩に、母親が思いがけないことを言い出した。
「えっ?俺も一緒に行くの?」
驚いて聞き返した夏樹に、母親は当然というように頷いて見せた。
「そうよ。言ったでしょ?おばあちゃん、久しぶりに夏樹に会いたいって言ってるって。あんたが行かなかったらがっかりするじゃないの」
「そんな。だって、俺…」
「あー、友達と約束でもしたのね?でも、悪いけど、断りなさいよ。明日の午後には出発するからね」
「そんな…」
もう、何を言っても聞き入れてくれなさそうな母親の態度に、夏樹はがっくりと項垂れた。
折角、隆哉と一晩中一緒に居られると思っていたのに、顔を見ることさえ出来なくなってしまった。
夏樹はのろのろと立ち上がると、残念な知らせを携帯で隆哉に告げる為に自分の部屋へ行こうとした。
すると、その背中に追い討ちをかけるように母親が言った。
「ついでにお盆まで向こうに居ることになったから、荷物もそれ用に作っておきなさいよ」
「ええっ?」
それでは、1週間以上も帰って来られないではないか。
抗議しようと夏樹が口を開きかけると、母親は彼の方へ指を突き出した。
「去年は受験があるからって、夏休みもお正月も顔を出さなかったんだから、今年は駄目よ。おばあちゃんだって待ってるんだからね」
「分かった…」
そう言われては、夏樹も逆らえなかった。
何人も居る孫の中でも、祖母が特に自分を可愛がってくれているのは知っている。
しょんぼりと項垂れると、夏樹はのろのろと階段を上っていった。
ベッドに腰を下ろして携帯電話を取り上げると、ごろりと横になりながら夏樹は隆哉の番号に発信した。
「もしもし?夏樹?」
すぐに嬉しそうな隆哉の声が聞こえ、夏樹はツキンと胸が痛むのを感じた。
「リキ、ごめん…」
「うん?どうしたの?」
「週末、駄目になっちゃった。明日、俺も一緒にばあちゃんちへ行くことになっちゃって」
「え?」
隆哉が絶句するのが分かった。
「ごめん…」
夏樹は済まなそうにもう1度謝った。
言い辛かったが、仕方が無い。夏樹は渋々口を開くと言葉を続けた。
「そんで、10日ぐらいはあっちに居ることになっちゃったんだ」
「え……?そうか…」
隆哉は明らかに落胆した声でそう答えた。
だが、すぐに気を取り直して勤めて明るい声で話し出した。
「仕方ないよ。帰って来ればまた毎日会えるんだし、寂しいけどこれっきりって訳じゃないんだから。夏休みはまだまだあるし、帰ったらまた何処かへ遊びに行こうよ」
「うん…」
「毎日電話するから」
「うん…」
返事をする夏樹の声が段々元気を無くしていった。
「夏樹…」
心配になったのだろう。隆哉が呼びかけてきた。
「誰かと……」
「うん?なに?」
声が小さくて聞き取れなかったのだろう。隆哉はすぐに夏樹に聞き返した。
だが、夏樹はすぐに声の調子を変えると言った。
「ううん。なんでもない。じゃ、また電話するから」
「うん。気をつけて行っておいでよ?」
「うん。ありがと、じゃ…」
電話を切ると、夏樹はフッと溜息をついた。
自分が居ない間、隆哉が誰かと会ったり遊びに行ったりするのかと思うと嫌で堪らなかった。だが、それを言うのは、幾らなんでも我が侭過ぎると分かっていた。
「デートなんかしたら許さねえっ」
ばふん、と枕に顔を乗せると、夏樹は悔しげにそう言った。
そんなことは有り得ないと分かっていても、モテる隆哉だから、心配で堪らない。
隆哉の気持ちは信じていても、夏樹の不安は完全に拭い去れはしなかった。



翌日の午後、夏樹は母と一緒に父の運転する車で祖母の家へ向かった。
祖母の家は海の近くで、傍に海水浴場もあるし、子供の頃は夏休みに祖母の家へ行くのが楽しみだった。確か、お盆には夏祭りもある筈だった。
(リキが一緒に来れたらなぁ…)
後部座席で窓枠に肘を突き、夏樹は不機嫌な顔で外を見ながらそう思った。
隆哉さえ一緒なら、楽しみが沢山あった筈だった。祖母に頼んで隆哉を連れて行く許可を貰えば良かったと、夏樹は今頃になって後悔していた。
ポケットから携帯電話を取り出すと、夏樹は隆哉にメールを打とうとした。
だが、今は丁度部活の時間だと気づき、夏樹はまた溜息をつくと携帯電話と閉じてポケットへ仕舞った。


祖母の家に着いたのは夕飯の少し前だった。
久し振りに夏樹が来るというので、祖母は張り切って夏樹の好物ばかりを用意してくれていた。
そんな祖母に悪いと思い、夏樹は隆哉のことは忘れて祖母の好意を素直に喜んで見せた。
「そう言えば夏樹、子供の頃に良く遊んでくれた隣のお兄ちゃんのこと、覚えてる?」
祖母に言われて、夏樹は箸を伸ばす手を止めた。
「鉄ちゃんのこと?うん、覚えてるよ」
「そうそう。鉄ちゃんももう大学生になったんだよ。去年は、夏はアルバイトがあるとかで帰って来なかったんだけど、今年は帰って来ててね。夏樹が来るって言ったら、会いたいって言ってたよ」
「へえ。そっか、鉄ちゃん、帰って来てるんだ…」
祖母の家の隣に住む浅田鉄太は、確か、夏樹よりも5歳年上だった。
幼稚園から小学校低学年に掛けての頃、夏樹は祖母の家に来る度に鉄太に遊んでもらったのだ。
その頃、歳の離れた自分を可愛がってくれて、色々と面白い遊びを教えてくれる鉄太が 夏樹は大好きだった。
祖母の家に来ると鉄太に遊んでもらえるのが嬉しくて、半分はそれを目当てに来たものだった。
「明日にでも行ってみたらどう?」
母にもそう言われて夏樹は頷いた。
「うん、そうする」
懐かしい鉄太と会って話せば、隆哉に会えない寂しさも少しは紛れるかも知れない。 夏樹はそう思った。


翌日の朝食の後、早速夏樹は隣の家に出掛けて行った。
ガレージは空だったが、家の生垣の前に鉄太の車らしいステーションワゴンが停めてあった。
余り変わっていない家の正面や庭などを懐かしく眺めながら、夏樹は開け放しの門扉を通って玄関へ行った。
チャイムを押すと、出て来たのは丁度鉄太だった。
「おまえ、夏樹か?」
少し驚いた様子で、だが、鉄太はすぐにそう訊いた。
「うん。鉄ちゃん、久し振り」
笑って見せると、鉄太もすぐに相好を崩した。
「そうかー。夏樹かー。うん、でっかくなったなぁ」
嬉しそうにそう言いながら、鉄太はしみじみと夏樹を眺めた。
「嘘ばっかり。俺、でっかくなんてなってない。でっかいのは鉄ちゃんだろ?」
少し拗ねて口を尖らせた夏樹を見て、鉄太は苦笑した。
「いや。俺が知ってる夏樹は、こんなだったからさ」
そう言って、鉄太は自分の腹の辺りに片手を持っていった。
そんな鉄太も、いくらか面影はあったが夏樹が覚えている彼とは別人だった。
(すげえ…。鉄ちゃん、大人になってる…)
大学2年だから、もう年齢的にも成人している筈だったが、その外見も少年臭さは何処にも見えなかった。
身長は180以上あるだろうか。 隆哉と同じくらいはあるように見える。
中学の頃は水泳部だったが、まだ続けているのか、肩幅もがっちりとしてよく日に焼けている。そして、無精髭がやけに男臭かった。
なんだか眩しくて、夏樹は思わず少し目を細めた。
「夏樹、野球部にでも入ったのか?」
「え?ああ…」
すぐにそう訊かれた訳を知り、夏樹は苦笑した。
「別に、そういう訳じゃないよ。ただ、暑いから短くしてるだけ」
自分のゴワゴワした硬い髪が嫌で、自棄になってつい最近丸坊主にしてしまった。その所為か、前よりも余計に子供っぽく見えるようになってしまい夏樹はそれが嫌で堪らなかった。
だが、こんな髪になっても隆哉だけは夏樹を可愛いと言ってくれる。それを不意に思い出して夏樹は少し口元を緩めた。
「入れよ。時間あるんだろ?」
そんな夏樹を見て、鉄太が少し怪訝そうな顔をして言った。
「うん。じゃ、お邪魔します」
家の中は思ったよりもシンとしていた。
「誰も居ないの?」
夏樹が訊くと鉄太は頷いた。
「今日、姉貴が帰って来るんで親父とお袋で駅まで迎えに行ったんだ。ついでに、買い物してくるって」
そう言えば、さっき見た時にガレージが空だったのを思い出して夏樹は頷いた。
「ふうん。英恵さんだっけ?お姉さん。やっぱり大学生?」
「いや、姉貴はもう大学は終わってる。去年結婚してさ、孫が出来た訳よ」
どうやら、その孫が可愛くて両親は大変なのだろう。それが、鉄太の呆れたような口調から察することが出来た。
「へえ。じゃ、鉄ちゃん叔父さんじゃん」
気づいて夏樹が言うと、鉄太は振り返って嫌な顔をした。
「それを言うなって」
吹き出して笑った夏樹を自分の部屋に残し、鉄太はキッチンへ飲み物を調達に行った。
夏樹は、久し振りに入った鉄太の部屋を珍しそうに眺めた。
勿論、もう子供の頃の部屋とは雰囲気が大分変わってしまった。
間取りや家具はそれほど変わってはいなかったが、置いてあるものが昔とはまったく違う。アニメのポスターも、漫画の本も、鉄太の部屋には見当たらなかった。
その代わりに、大人っぽいブランドの服やノートパソコン、それに夏樹にはまったく分からない英語の本などが置いてあった。
だが、1番目に付いたのは大きなサーフボードだった。
(サーフィンか…)
どうやら鉄太の趣味はサーフィンらしい。
今年の夏は地元で波に乗ろうと思って帰って来たのかも知れなかった。
「夏樹―、コーラでいいか?」
「うん、なんでも。鉄ちゃん、サーフィンやってんだね?」
「ああ。2年ぐらい前から始めたんだ。面白いぜ、波乗り」
そう言うと、鉄太は持って来たコーラのペットボトルをテーブルの上に置き、立てかけてあったボードを壁から離すとパンパンと叩いた。
「そうだ。夏樹もやってみるか?どうせ、暇なんだろ?教えてやるぞ」
「え?うん、そうだなぁ…」
夏樹が少々躊躇っていると、鉄太はボードをまた壁に立てかけてテーブルの前に座った。
「ロングは難しいけど、ショートボードもあるから。ほら、北浜の磯の向こう側、あっちにいい波が立つんだよ」
「ふうん。じゃ、教えてもらおうかな。ホント、どうせ暇だし」
「ははは。じゃあ、明日の朝、誘いに行くから用意しとけよ。9時くらいな?」
「うん、分かった」
どうせ、隆哉にも会えないし、その寂しさをどうやって紛らわそうかと考えていたところだった。 鉄太の誘いはそんな夏樹にとって都合が良かったのだ。
(今夜、電話くれるかな?)
鉄太から受け取ったコーラのペットボトルに口を付けながら、夏樹はまた隆哉のことを思い出していた。


だが、その夜、隆哉は電話をくれなかった。
自分からしようかと思ったが、約束を忘れたことの無い隆哉が電話して来ないのには、何か余程の事情が有るのかも知れない。そう思って、夏樹は取り上げた携帯電話をまたテーブルの上に置いた。
「リキ、誰かと遊んでんじゃないだろうな?」
そう呟いて口を尖らせると、夏樹は時計を見た。
丁度9時を回ったところで、外で遊んでいたとしても、もう隆哉も家に帰っているだろう。電話をくれないのは、やはりなにか事情が有るのだ。
夏樹は諦めて風呂に入る為に立ち上がった。
来週は近くの神社で夏祭りがあり、その晩は、海岸で花火大会も開かれる。子供の頃はそんなイベントが嬉しくて、この家に来ると胸がワクワクしたものだった。
だが、今は少しも魅力を感じない。
隆哉が傍に居ないだけで、少しも楽しくなくなってしまった。
「鉄ちゃんでも誘ってみるかなぁ」
そう思ったが、鉄太だって地元だけに友達が沢山いるだろうし、もしかしたら彼女がいるかも知れない。だとしたら、自分なんか邪魔なだけだろう。
夏樹は溜め息をついて、熱い湯の中へ身体を沈めた。
「なにしてんのかなぁ、リキ…」
開け放した窓の外を見ると、立ち上る湯気の向こうに綺麗な月が見えた。
だが、夏樹の口からはただ溜め息だけしか出てこなかった。