イヌ・3


-4-

その夜、夏樹は隆哉の電話を待たずに自分から電話を掛けた。
祖母の許しが出た事を早く伝えたくて堪らなかったのだ。
きっと、隆哉だって喜んでくれる筈だ。明日にでも、こっちへ来ると言ってくれるかも知れない。
夏樹はワクワクと心を弾ませながら、隆哉が電話に出るのを待った。
「えっ?俺がそっちへ?」
最初、思った通り隆哉は、夏樹の提案を聞いてかなり驚いた様子だった。 だが、すぐに承知して喜んでくれるだろうと夏樹は思った。
しかし、隆哉の返事は夏樹の思いも寄らない言葉だった。
「そんな、急にそんな事言われても、無理だよ、夏樹…」
「え?なんで?」
すぐに来てくれると思っていたのに、夏樹はショックを受けて聞き返した。
「予定だって、少しは入ってるし。それに、お盆は俺も親父の方の実家へ墓参りに行くんだ。毎年のことだから、俺だけ行かないって訳には…」
困り切った口調で、隆哉は言い辛そうに理由を言った。
「ごめんな?折角誘ってくれたのに…」
余りの落胆に、夏樹は返事をする事が出来なかった。
その代わりに、自分でも信じられない事にヒクッと喉が鳴った。
吃驚して口を押さえると、その手の甲に零れ落ちた涙がツッと伝った。
「夏樹?」
驚いた様子の隆哉が呼びかけて来たが、夏樹は唇を開く事が出来なかった。
開いたら、泣いているのがばれてしまう。
嗚咽が漏れないように片手で口を押さえたまま、夏樹は携帯を耳に当てている方の手首で涙を拭った。
隆哉はきっと、自分が思っているほどには自分の事を好きではないのだ。
自分が思っているほどには、会いたいとは思っていないのだ。
自分だけが、こんなにも焦がれている。
泣き出すほどに、会いたいと思っているのだ。
「分かった…。無理言って、ごめん…」
やっとそう言うと、夏樹は電話を切った。
すぐに電源も切り、布団の上に投げ出すと、自分もゴロリと横になった。
ゴシゴシと瞼を擦りながら、はぁーっ、と溜息が自然に口から零れる。
隆哉が来たら、一緒に海へ行こうとか、お祭りにも連れて行こうとか、花火を見るのに恰好の場所があるのを教えてやろうとか、ボードに乗れるようになった自分を見てもらおうとか、それこそ夏樹は沢山の計画を思い描いては胸を弾ませていたのだ。
だが今は、その高揚した状態から、真っ逆さまに落ちて来たような気がした。
「リキの予定も考えないで、勝手に決めた俺が悪いんだよな…」
そう呟いて自分を戒めようとしたが、それでもやはり割り切れなかった。
隆哉と自分の想いは、やはり同じではないのだと、思い知らされたようで怖くなる。
いつも自分の言う事を聞いてくれる隆哉だったから、今度もそうに違いないと決めてかかっていた。
だが、隆哉には自分の知らない生活もちゃんとあるのだ。
知らない友達もいるのかも知れない。夏樹が知らないだけで、過去にも付き合っていた相手がいたのかも知れない。
そう言えば隆哉は、多分、自分が初めての相手ではなかったように思う。
キスもセックスも、何も知らない自分を、全部隆哉がリードしていったのだ。
夏休みで、そんな過去の相手と、また会う機会でもあったのではないだろうか。こんな不細工な自分より、過去の恋人の方が良く見えたのかも知れない。
唇を噛んで、夏樹は枕に顔を押し付けた。
また、どんどん悪い方へ考えがいってしまう。
隆哉に会いさえすれば、いつものように抱きしめてさえもらえば、きっと安心出来るのだ。 おかしな考えなど払拭出来るに違いないのだ。
「会いたいのに…。リキ、会いたいよぉ…」
くぐもった声でそう呟くと、夏樹は両手でぎゅっと枕を掴んだ。



翌朝、鉄太がまた迎えに来てくれて、夏樹は腫れぼったい顔のまま海へ出掛けた。
家に居ても、隆哉のことばかり考えてしまい、気分が滅入るだけだった。こんな時は、身体を動かしていた方が余計な事を考えなくても済む。
「どうした?昨夜、あんまり寝てないみたいだな?」
夏樹の顔を見て鉄太が心配そうに言ったが、夏樹は笑って首を振った。
「別になんでもないよ。ばあちゃんちの2階で古い漫画見つけて読み耽っちゃってさ、ちょっと寝不足なだけ」
「ああ、俺も昔、借りて読んだなぁ。あれ、夏樹の親父さんとか叔父さん達が読んでたヤツだろ?」
「うん、そうみたい。今読むと、却って新鮮だったりしてね」
夏樹の言葉に、鉄太も頷いた。
「うん。それにしても、ばあちゃん、綺麗に取ってあるよなぁ。200冊じゃきかない数だよな、あの本」
「そうだね」
「でも夏樹、寝不足の時は気をつけろよ。疲れたと思ったら、すぐに海から出た方がいいぞ」
「うん、分かった。無理はしないよ」
夏樹が素直に頷くと、鉄太も頷いてポンと夏樹の肩を叩いた。
今日はやはり調子が上がらず、夏樹は昨日のように上手くボードの上に立つ事が出来なかった。
何度やっても、すぐに水に落ちてしまい、とうとう諦めて早目に浜に上がってしまった。
ボードの上に寝転がって息をつくと、夏樹は目の上に腕を乗せた。
ジリジリとした太陽が肌を焼いているのが分かる。すぐに、身体に付いていた水滴が蒸発して乾いてしまった。
「駄目かー?夏樹…」
鉄太も浜に上がってきて、少し息を切らしながら声を掛けてきた。
「うん。今日はもうやめる。調子出ない」
「そっか…」
夏樹が答えると、鉄太もボードを置き、どっかりと夏樹の隣に腰を下ろした。
「身体も疲れてんのかもな。そう言う時は無理しない方がいいよ。今日はもう、上がろう」
「え?鉄ちゃんはもっとやってきなよ。俺は独りで帰るし」
鉄太には自分の他にも波乗りの仲間が居て、海岸へ来ると声を掛け合っているのを夏樹も見て知っていた。その仲間が、今日も2~3人海へ出ていた。
「いいよ。俺も今日はやめとく。そうだ、映画でも行かねえ?」
「え…?」
夏樹は起き上がって、鉄太の顔を見た。
「俺と?」
「うん。なんか見たいの無いのか?駅前の映画館、何の映画やってたっけかな…」
「なんで鉄ちゃん、そんなに俺に付き合ってくれんの?」
「うん?なんでって、別に理由はないけどなぁ。夏樹と居ると楽しいし?」
「ほんと?」
「ああ。なんで?」
却って不思議そうに聞き返され、夏樹は口篭った。
「だって、俺なんかガキだし、鉄ちゃん、退屈じゃないのかなって思って」
「はは…、そんなことねえって。言ったろ?また夏樹に会えて良かったよ」
「そ、そう?」
なんと答えていいのか分からず、夏樹は曖昧に笑って見せた。
「な?じゃ、映画行くか?」
「う、うん。行く」
「何やってたっけなぁ。行ってから決めるか?」
「うん。それでいいよ」
夏樹が答えると、鉄太は頷いて立ち上がり、身体に付いた砂を払った。
夏樹も立ち上がると、寝かせてあったボードを両手で起こした。
鉄太はもしかすると、何か気付いているのかも知れないと夏樹は思った。だから、自分を慰めてくれようとしているのではないだろうか。
(優しいんだな、鉄ちゃん…)
昔は幼くて気付かなかったが、考えてみれば、もう中学生にもなっていた鉄太が小学校低学年だった自分と嫌がらずに遊んでくれただけでも、優しい少年だったと言えるのではないだろうか。
家に帰り、それぞれ風呂に入って着替えると、また表で顔を合わせた。
「乗れよ、夏樹。すんげえ暑いと思うけどなー」
笑いながらそう言い、鉄太は自分の車のドアを開けた。
「うわぁっ、蒸し風呂だ、蒸し風呂っ」
助手席のドアを開けて、モワッと噴出してきた熱気に顔を顰めながら夏樹は言った。
すると、鉄太はすぐにエンジンを掛けて全部の窓を下ろしてから、エアコンのスイッチを入れた。
「冷えるまで乗れないよぉ」
「そうだな。シートで火傷するぜ」
言いながらハンドルを触り、鉄太はおどけた調子で手を振るとフーフーと吹いて見せた。
それを見て、夏樹は面白そうに声を立てて笑った。
やっと夏樹が笑った事が、鉄太は嬉しかったらしい。満足そうな顔を見せて自分も唇に笑みを浮かべた。
やがて、車内も少し冷え、2人は車に乗り込むと映画館へ向けて走り出した。
途中、ファーストフードのドライブスルーに寄り、夏樹は鉄太に昼食を買ってもらった。
映画館に着くと、2人が見たいと思ったアクション物の映画が丁度始まる所だった。
ハンバーガーは見ながら食べる事にして、2人は館内に入ってチケットを買った。
ハンバーガーやポテトを食べながら映画を見て、時折、鉄太と小声で話し、夏樹は少しの間だが隆哉の事を忘れられた。
だが、映画を見終わって外へ出ると、また昨夜の電話の事が思い出されてしまい、気分が落ち込んでいくのを止められなかった。
「どうする?夏樹。この後、どこか行くか?」
「どこかって?」
気のない返事をすると、鉄太が苦笑した。
「あーあ。また元気なくなっちまったなぁ…」
「鉄ちゃん…」
やはり鉄太は、何か気付いていたらしい。
だから、こうやって夏樹を映画に誘ってくれたのだろう。
「ゲーセンでも行ってみるか?」
訊かれたが、夏樹は首を振った。
「ううん。ありがと、鉄ちゃん。でも、もう帰るよ」
「そっか…」
鉄太は頷くと、先に立って駐車場の方へ歩き出した。
夏樹もそれに続き、2人は無言のまま、車に乗り込んだ。
「なんか、やなことあったか?」
運転しながら鉄太が訊いてきて、夏樹は首を振った。
「ううん。別に、やなことがあった訳じゃないんだ」
「けど、落ち込むような事があったんだろ?」
優しく鉄太に訊かれ、夏樹は僅かに頷いた。
「落ち込んだって、仕方ないんだけどね…」
口元を歪めた夏樹をチラリと見たが、鉄太はそれ以上訊こうとはしなかった。
そのまま黙って家まで帰り着くと、鉄太は車を降りようとした夏樹を引き止めた。
「なあ、覚えてるか?」
「え?なにを?」
怪訝そうに聞き返した夏樹を、鉄太は素早く引き寄せると、唇にチュッとキスをした。
「なっ…?」
吃驚してグイッと鉄太の胸を押すと、夏樹は手の甲で唇を拭った。
すると、楽しげな顔で鉄太はクスクスと笑った。
「なにッ?なんだよ?一体…」
いきなりの行為に面くらい、夏樹はカッと頬を染めて訊いた。
すると、鉄太は手を伸ばして夏樹の唇をむにゅっと摘んだ。
「おまえのファーストキスの相手、俺だぞ、夏樹」
「えッ?」
鉄太の手を振り払いながら、夏樹は目を丸くした。
ファーストキスの相手は、今の今まで隆哉だと思っていたからだ。
「うそ…」
「嘘じゃねえよ。ばあちゃんちで初めて会った時さ、あんまりこの尖がった唇が可愛いんで、ブチュッとさ」
そう言って、鉄太は苦笑いをした。
「やった後で、おまえも吃驚してたけど、俺も吃驚したよ。今でも、魔が差したとしか思えねえ。幾ら可愛いと思ったからって、なんで男の子相手にあんなことしたのかなって…」
言われても、夏樹の方には記憶が無かった。
だが、鉄太がそう言うのだから本当なのだろう。
「ま、あんなのファーストキスとは言えねえかもな。思い出したんで、つい、言っちまったけど、カウントする必要ないぜ」
ポンポンと夏樹の頭を軽く叩き、鉄太は車を降りた。
(俺のファーストキス、リキじゃなかった…)
ほんの子供の時の事だし、鉄太が嫌だと言う訳ではない。鉄太の言う通り、カウントする必要もないのかも知れない。
だが、ずっと隆哉がそうだと思っていたし、隆哉の方でもまた、夏樹のファーストキスの相手が自分だと知ってとても喜んでくれたのだ。
それを思うと、夏樹はかなりのショックを受けていた。
少し呆然としたが、車に鍵を掛ける為に鉄太が外で待っているのに気付き、夏樹は急いで車から降りた。
「明日はどうする?」
サーフィンに行くかどうか鉄太が訊いてきて、夏樹は頷いた。
「うん。今夜電話するよ。いい?」
「ああ、いいよ。じゃ、携帯の方にな」
「うん。鉄ちゃん、今日はありがと」
「ああ、じゃな?」
鉄太に頷いて、振り返って祖母の家の方を見ると、門の前に誰かが立っていた。
その姿を見て、夏樹はハッとした。
(え…?)
一瞬、目を疑ったが、間違い無い。夏樹は、すぐにそちらへ向かって駆け出した。