イヌ・3
-3-
その晩は、隆哉の電話を待っていて夏樹は余り眠れなかった。
そして、朝になってもとうとう隆哉は電話を掛けてこなかった。
夏樹の心に、またむくむくと不安が頭を擡げ始めた。
「リキ…」
たった1日電話が来なかっただけで不安になるなんて、自分でも馬鹿々しいと思う。だが、隆哉が自分には過ぎた男だと知っているだけに、コンプレックスを拭い切れない夏樹は自信を持つことが難しかった。
玄関の上がり框に座り、携帯電話を握り締めていると、約束通り鉄太が迎えに来た。
「夏樹―、行けるか?」
「あ、うん。大丈夫」
ここから海岸は目の前だ。夏樹は水泳パンツの上にTシャツを着ただけで、足にはビーチサンダルを履いていた。
鉄太を見ると、やはり同じような格好でサングラスを額の上に乗せていた。
「ボード、1個持てよ」
「あ、うん。こっちがショートだね?」
「そうそう。おまえのはそっちな」
「うん」
2人はそれぞれにボードの入ったバッグの紐を肩に掛けると海岸に向かって歩き出した。
ショートだとは言っても体の小さな夏樹が抱えるとボードは随分大きく見えた。
それが微笑ましく思えたのか、鉄太がクスリと笑うのが聞こえた。
「ん?」
夏樹が訝しげに見上げると、鉄太は笑みを浮かべた口元を誤魔化すようにして手を当てて擦った。
「いや…。夏樹、夏祭りの日までこっちに居るんだろ?」
「うん」
「じゃ、久し振りに一緒に行くか?」
「えっ?」
夏樹が驚くと、今度は鉄太が怪訝そうな顔をした。
「うん?なんかおかしいか?」
「ううん。鉄ちゃん、友達とか彼女とかと行くのかと思ってたから」
夏樹が正直に答えると鉄太は苦笑した。
「先月、喧嘩別れしちゃってさ。実は、それもあって帰って来たんだ。向こうに居ても予定も無くなったし。それに、地元の友達もみんな彼女と行くらしいしなぁ、邪魔する訳にもいかねえだろ?」
悔しげに言う鉄太を見て夏樹は笑った。
「ふうん、可愛そうになぁ。仕方ない、俺が特別に一緒に行ってやるよ」
「この、くそ餓鬼めっ」
生意気な口調でそう言った夏樹を鉄太がこつんと小突いた。
「痛てっ」
夏樹が頭を摩りながら口を尖らせて見上げると、鉄太は笑いながらその上唇をにゅっと摘んだ。
「やっ。何すんだよッ?」
吃驚して夏樹が思わず手を振り払うと、鉄太はまた笑いながら彼を見た。
「可愛いなぁ、夏樹の尖がった上唇。子供の時から全然変わんねえのな?」
「え…?」
大嫌いだった、自分のアヒルのように尖った上唇。
それを、可愛いと言っていつも隆哉はキスしてくれる。だから夏樹は、前より少しだけ自分の唇が好きになった。
だが、まさか、隆哉以外にも、こんな不恰好な唇を可愛いと言ってくれる人間が居たなんて信じられなかった。
「ま、また、からかって…」
思いがけない鉄太の言葉に、夏樹は少しだけどぎまぎしてしまった。
それを隠すように不機嫌に言うと、手の甲で唇をグイッと拭った。
「からかってねえって。ホントに、小さい頃から可愛いと思ってたんだ。変わってなくて嬉しいよ」
なんと答えていいか分からず、夏樹は不機嫌な表情を崩さないまま黙って頬を染めた。
多分、冗談半分だろうとは分かっていたが、それでも、面と向かって“可愛い”などと言われると気恥ずかしくて反応に困る。
すると、またクスッと笑い、鉄太は呟くように言った。
「久し振りに夏樹に会えたし、やっぱ帰って来て良かったなぁ」
「鉄ちゃん…」
本気かお世辞か分からなかったが、久し振りに会った鉄太の態度に夏樹は戸惑うばかりだった。
面影はあっても、中学生だった鉄太とここにいる彼は本当に別人のようだった。
幾らかふっくらしていた頬もすっかりこけて、精悍な風貌に変わってしまったし、日に焼けていることで余計にそう見える。
無精髭も、多分、分かっていてそうしているのだろうが、セクシーな印象を感じさせるのに役立っている。胸や腕の筋肉も張り詰めていて力強かった。
多分、彼女と別れたといっても、鉄太ならすぐに新しい彼女が出来るだろう。
(いいなぁ。俺も鉄ちゃんの年になったらこんな風になれるのかなぁ…)
不意にそう思って、夏樹はまじまじと鉄太を眺めた。
いつまでも中学生、いや、時には小学生にさえ間違えられてしまう自分の顔と身体が、夏樹には酷いコンプレックスだった。せめて年相応に見られるようになりたいと、いつも思っていたのだ。
顔立ちが不細工なのは仕方が無い。 だが、高校1年の平均身長くらいには成長したい。
(そしたらもっと、リキのこと信じられるのに…)
夏樹はまた少し、さっきの不安を思い出した。
何故、隆哉は電話してくれないのだろう。あんなに律儀な隆哉が、約束を破るなんて信じられなかった。
「どうかしたか?」
鉄太に訊かれて、夏樹はハッとして顔を上げた。
「う、ううん…」
見ると、鉄太は心配そうな表情を浮かべている。夏樹は無理に笑うとその視線から目を逸らした。
「なんでもない。ただ、俺も鉄ちゃんくらいでっかかったらいいのになぁ、と思っただけ」
鉄太は答えなかった。 その代わり、夏樹の頭に大きな掌が乗った。
その手を動かし、クリクリと撫でた後、鉄太は口を開いた。
「夏樹はいいよ、そのまんまで」
その言葉に夏樹は驚いた。
それも、以前に隆哉が自分に言ったのと同じだったからだ。
「や、やだよッ。鉄ちゃん、自分はでっかいからそんなこと言うんだ」
カーッと顔に血が上り、夏樹は自分の動揺を隠したくて強い口調で言った。
「でっかいからっていいってもんでもないだろ?夏樹は小さい方が夏樹らしい気がするしなぁ」
「な、なんだよ?それ…」
目を逸らしたままで夏樹が言うと、鉄太がクスッと笑うのが聞こえた。
「まあ、まだ諦めるのは早いだろ?高1なら、まだまだこれから伸びるしな?」
「慰めてくれなくてもいいよーだッ」
憎らしげにそう言うと、夏樹はボードの袋を肩に背負い直して足を速めた。
考えまいとしているのに、鉄太の言葉や態度が一々隆哉のことを思い出させてしまう。
(なんで、鉄ちゃん、リキみたいなことばっかり…)
一生懸命歩いても、脚の長い鉄太はすぐに夏樹に追い着いて来た。
「おおー、今日もいい波立ってるなぁ」
夏樹の心中の動揺など知らず、鉄太は目の前に広がる海を見て嬉しそうにそう言った。
鉄太は初めてボードに乗る夏樹を丁寧に指導してくれた。
そのお蔭もあって、もともとバランス感覚のいい夏樹は、ほんの短い間だったが、なんとかボードの上に立てるようになった。
そうなると、俄然面白くなってきて、昼だから一旦帰ろうという鉄太の言葉に中々“うん”と言わなかった。
「飯食って、また午後から入ろう?腹減って溺れたら困るぞ」
「うんー、分かった…」
夏樹が渋々頷くと、鉄太は彼の背中を叩いて自分のボードに跨り、岸へ向かって漕ぎ出した。
こうして海に入っている間は隆哉のことを思い出さなかった。だが、家に帰ったらきっとすぐに携帯のチェックをするだろう。
(着信、あったかなぁ…)
四六時中、隆哉のことばかり考えている自分が、夏樹は時折怖くなることがあった。
こんなにも好きになってしまったのに、隆哉が自分以外の誰かに目移りしたら、一体、どうすればいいのだろうか。
そう思いながら、夏樹は目の前を進んで行く鉄太の後姿を見た。
(俺のこと、可愛いだなんて…。慰めてくれたつもりなのかな?)
小さいだけで、自分がちっとも可愛くなんかないことは夏樹自信が1番良く知っている。だから夏樹は、隆哉の言葉だって最初は少しも信じられなかったのだ。
(鉄ちゃんだって、本気で言った訳ないよなぁ)
ふっと溜息をつき、夏樹は苦笑するように唇を歪めた。
家に帰ると、祖母は母達と買い物にでも出掛けたらしく、玄関に鍵が掛かっていてガレージには車が無かった。
「あれー?なんだよー。出掛けるなら、朝のうちに言ってくれればいいのに…」
夏樹が膨れっ面で玄関の扉をガチャガチャと鳴らしていると鉄太が声を掛けてきた。
「うちに来てろよ、夏樹。こっちで飯食えばいい」
「うん、ありがと…」
2人は庭に回ると、外の水道で砂を洗い落とした。
すると、庭に面した窓から鉄太の母が顔を出した。
午後からまた行くのかと訊かれて鉄太が答えると、それなら庭のガーデンテーブルで昼御飯を食べたらいいと言った。
確かに、どうせまた濡れるのだから、一々身体を拭いて着替えるのは面倒だった。
鉄太と2人で夏樹がビーチパラソルの下に広げられたテーブルに着いて待っていると、間も無く、大盛りの冷やし中華とジャグに入れた麦茶が庭に運ばれた。
「お、旨そう。いただきまーす」
鉄太の母に礼を言い、夏樹は喜んで箸を取った。
「いっぱい食えー」
「うん」
鉄太に言われて元気良く返事をすると、夏樹は麺と具を混ぜながらせっせと冷やし中華を口に運んだ。
休憩するのが惜しくて中々海から出ようとはしなかった夏樹だったが、こうして食べ物を目の前にすると、やはりかなり腹が減っていた。
鉄太も同じらしく、2人は麺を平らげるまで殆ど口を利かなかった。
「はあ、旨かった」
人心地ついて麦茶を飲み干し、夏樹がいっぱいになった腹を擦ると鉄太はそれを見て笑った。
「そんなに食えるんだから、大丈夫。すぐに夏樹もでっかくなるって」
「ほんと?そうかな…」
期待を込めて見上げられ、鉄太はまた口元に笑みを浮かべた。
「そんなにでっかくなりたいのか?」
「そりゃ、なりたいよっ」
勢い込んで夏樹が答えると、鉄太は少し眉を曇らせた。
「まさか、学校で苛められたりしてるんじゃないだろうな?」
心配そうに言った鉄太に夏樹は急いで首を振った。
「あ、違う。違うよ。そう言うことじゃないけど…」
「ないけど?なんだ?」
口篭った夏樹に、鉄太が訊いた。
夏樹は躊躇ったが、チラリと鉄太を見ると口を開いた。
「とも…だち、がさ、すげえカッコいいヤツなんだ。背が高くて、顔も良くて、勉強も出来て…」
「んで?夏樹のコト馬鹿にするとか?」
「ううんッ」
夏樹はまた、急いで首を振った。
「違う…。俺のコト、すげえ大事にしてくれんの。いいヤツなんだ、ホントに。優しくてさ、面倒見が良くてさ。でも、みんなが…」
「みんな?」
「うん。俺とそいつがあんまり違うから、釣り合わないって…」
「ふぅん…」
鉄太は持っていた麦茶のグラスをテーブルに置くと、顎を撫でた。
「そんなの気にすることねえだろ?夏樹とその友達がいいなら、なんで周りの言うことなんて気にする必要があるんだ?」
「そうだけど…」
「ふぅん」
俯いた夏樹を見て、鉄太はまた同じように顎を撫でた。
「釣り合わないとかって、1番思ってんのは夏樹なんだろ?」
鉄太の言葉に、夏樹はカッと頬を染めた。
「べ、別に俺は…」
「じゃ、友達に何か言われた訳でも、馬鹿にされた訳でもねえのに、何でそんなに気にするんだ?」
「それは…」
また夏樹が口篭ると、鉄太は身を乗り出すようにしてテーブルの上に肘を突き、掌へ顎を乗せた。
「普通さ、でっかくなりたいとかって、馬鹿にされるからとか、あとは女の子にモテたいからとか、そんなンが理由じゃねえ?夏樹の気にしてるような事は、俺には理解出来ねえけどなぁ」
「そ…だよね…」
夏樹が曖昧に笑って誤魔化そうとすると、鉄太はそれに被せるようにして言った。
「相手が彼女だってんなら分かるけどな」
ハッとして夏樹が顔を上げると、鉄太はじっと此方を見ていた。
「それとも、そうなのか?友達とか言ってるけど、ホントは彼女だったりして?」
「ちっ、ちがっ…。俺に彼女なんか出来る訳ないじゃん」
「じゃあ、彼氏とか?」
「てっ…」
絶句したまま言葉を失った夏樹をじっと見ると、鉄太はやがてニッと笑った。
「冗談だよ。じょ・う・だ・ん」
ぽんと頭を叩かれ、夏樹はやっと口を閉じて慌てて下を向いた。
「へ、変なコト言うなよッ」
「悪い、悪い」
そう言って、鉄太はもう一度夏樹の頭をポンポンと叩いた。
その口調には何の含みも感じられなかったが、それでも夏樹の胸はドキドキと鼓動を早め、息苦しいような状態になってしまった。
本当は、気付いているのではないだろうか。夏樹はそう思って顔を上げられなくなってしまった。
(か、彼氏…。リキは俺の彼氏なんだ…)
実は、気付かれたのではないかということも気になったが、改めて隆哉を“彼氏”だと言われたことも夏樹にはショックだったのだ。
恥ずかしさが込み上げ、カーッと身体が熱くなる。
どこか、“友達の延長”のように思っていたものが、はっきりと“恋人”なのだと意識すると、隆哉に対してまた違った感覚を覚えた。
(そうだよな。あんなことしてんだもん、恋人なんだよな、俺たち……)
思い出すと益々恥ずかしくなってしまったが、同時に夏樹は隆哉に会いたくて堪らなくなっていた。
「あ、ばあちゃん達、帰って来たみたいだぞ」
「え…?」
顔を上げると、確かに目の前の道を父の運転する車が通り過ぎて行った所だった。
「あ、お、俺っ…、やっぱり今日はもう帰る。鉄ちゃん、ありがと。小母さんにご馳走様って、伝えといてっ…」
「えっ?お、おい、夏樹ッ」
慌てて立ち上がって走り出した夏樹に、鉄太は驚いて声を掛けた。
だが、夏樹は振り向きもせずに鉄太の家の門を飛び出して行った。
(リキに電話するんだ…)
夏樹は急いで祖母の家まで走って行くと、まだガレージにいた母を急かして玄関を開けて貰った。
すぐに風呂に入るように言われて承知すると、下駄箱の上に置いてあった携帯電話を掴み、風呂場へ行った。
途中で隆哉の番号を押す。
脱衣所に入ると、携帯を耳に当てたまま、片手で海パンを脱ぎ始めた。
だが、隆哉が電話に出ないまま、呼び出し音が途切れてサービスのアナウンスに変わってしまった。
「リキ。何で出ないんだよっ」
悲しくなってその場にしゃがみ込むと、夏樹は膝を抱えるようにして項垂れた。
離れた途端、すっかり自分の事など忘れてしまったのだろうか。他の友達と楽しく遊んでいるのだろうか。
それとも、他にもっと好きな相手が現れたのだろうか。
こんなに短い間で、そんなことは有り得ないだろうと分かってはいても、夏樹はどんどん悪い方へ考えてしまうのを止められなかった。
立ち上がると、洗面台の鏡に自分の姿が映った。
やっぱり、何度見ても、チビでみすぼらしくて不細工だった。
「可愛くなんか無い。全然、可愛くなんか無いよ…」
見ているのが嫌になり、夏樹は鏡から目を逸らすと手に持った携帯に再び視線を戻した。
すると、メールの着信を知らせる表示が出ている事に気付いた。
「あっ…」
慌てて開くと、そこには待ち焦がれていた隆哉からのメールが入っていた。
「夏樹、昨夜は電話できなくてゴメン。叔父さんと従兄弟が泊まりに来て、飲まされちゃって。気付いたら爆睡してたんだ、ホントにゴメンな?お蔭で今朝は二日酔い気味で寝坊してさ、慌てて部活に行ったもんだから、時間無かったんだ。暑いのに、部活で扱かれて、マジ、吐きそうになったよ~。夏樹は?今日は何してた?何か楽しいコトあった?帰って来るのは、まだまだ先だって分かってるけど、早く会いたいよ。帰って来たら、いっぱい遊ぼうな?今日は今からオヤジの車の洗車。夏休み中は俺がやるって事で小遣い貰っちゃってるから仕方ないけど。実際、げんなりだよ~。じゃ、また、夜電話するよ」
その文面を読んで、夏樹はホッと息を吐いた。
「なんだ…。なんだ、そっか。良かった…」
電話をくれなかったのも、出られなかったのも、こうして理由が分かれば安心していられる。夏樹は嬉しそうに口元に笑みを浮かべて呟いた。
「あ、そうだッ」
慌ててタオルを掴んで腰に巻くと、夏樹は風呂場を飛び出して居間へ駆け込んだ。
「ばあちゃん、ばあちゃんッ。なぁ、こっちに友達呼んでもいい?」
「なあに?夏樹、そのかっこ」
呆れた顔で嗜めようとした母に構わず、夏樹は祖母の所へ行って腕を掴んで振った。
「な?いいだろ?夏祭りとか一緒に遊びたいんだ」
「ああ、別に構わないよ。部屋は空いてるし、夏樹の友達ならばあちゃんも会いたいしね」
ニコニコと笑ってそう言ってくれた祖母に、夏樹は顔を輝かせて頷いた。
「うんっ。ありがとっ」
隆哉を此方に呼べる。
もうすぐ会える。
そう思うと、夏樹は嬉しくて今にも踊りだしたい気分だった。