イヌ・3
-5-
「リ…リキッ」
何故、隆哉がここに居るのだろう。
驚きと、だが、それ以上の喜びで夏樹の心臓は口から飛び出しそうなほどに鼓動を早めた。
嬉しくて、外だと言う事も忘れて抱き付きそうになったが、すぐに隆哉の表情の硬さに気付き、夏樹は腕を引っ込めた。
「今の、誰?」
それは、初めて見る、酷く険しい表情だった。
「誰って、隣の鉄ちゃん。小さい時、ここへ来ると良く遊んでくれたんだ。……なあ、リキ…」
夏樹は、何故ここに居るのだと訊こうとしたが、その前に隆哉が口を開いた。
「さっき、キスしてた」
信じられないと言う風に、隆哉は夏樹を見た。
「あ……」
まさか、見られていたなんて思わなかった。
隆哉の言葉に、夏樹の顔が見る見る内に強張っていった。
「あ、あれはっ…、あれはただ、ふざけてッ…」
慌てて腕を掴もうとした夏樹の手を、隆哉は素早く避けた。
「リキ…」
冷たい態度に、夏樹は困惑して隆哉を見上げた。
それは、いつでも優しい隆哉が初めて見せた、夏樹を拒絶するような振る舞いだった。
泣きそうになって、夏樹がもう一度、腕を伸ばして身体に触れようとした時、玄関の扉が開いて母親が顔を出した。
「夏樹、帰ったの?ああ…、力丸君、着いたのね」
隆哉の顔を見て、すぐに相好を崩すと、母親は扉を大きく開けた。
「迎えに行かなくて大丈夫だった?迷わなかった?」
「あ、はい。駅からバスに乗って。バス停からは教えてもらった通りに来られました」
「そう。良かった。何してるの?夏樹、早く入ってもらいなさいよ」
「あ、うん。リキ、中に…」
「ありがとう」
母親が出て来たお蔭で、隆哉の態度も少し柔らかくなった。
夏樹が促すと素直に玄関に入って来て、靴を脱ぐと中に入った。
どうやら、母親と隆哉の会話から察するに、2人は夏樹の知らない所で話をしていたらしい。一体、どうして急に隆哉が姿を見せたのか、夏樹はそれを聞きたかった。
だが、先ずは居間にいた祖母に隆哉を紹介した。
祖母は座って礼儀正しく挨拶をした隆哉に相好を崩し、とても気に入った様子だった。
「良く来てくれたねえ。今年は従兄弟達もみんな来られないし、夏樹も退屈だろうと思ってたんだよ。ほんと、お友達が来てくれて良かったねえ」
嬉しそうにそう言った祖母に、夏樹も頷いた。
「昨夜遅くに、力丸君から電話があってね」
居間の坐宅の前にきちんと座った隆哉に冷たい麦茶を出した後で、母親はやっと夏樹に説明を始めた。
「ほら、出掛ける前に、家電に掛かってきた電話を私の携帯に転送するようにしてきたでしょ?だから、携帯の方にね」
最後は隆哉に同意を求め、隆哉も母親に頷いて見せた。
「夏樹、怒って電源を切っちゃっただろ?だから、一応念の為に家の方へ掛けてみたんだ。そしたら、小母さんの携帯に繋がったから」
「お、怒った訳じゃないよ」
どうやら隆哉は、電話を切った時の夏樹の様子を気にしてくれていたらしい。
夏樹は母親や祖母の手前、少々困った顔で言い訳をした。
「親父に聞いてみたら、もう高校生だし、墓参りは行っても行かなくてもどっちでもいいって言うから、小母さんに頼んで、ここまでの来方を教えてもらったんだ」
「そうだったのか…」
隆哉に頷いてから、夏樹は母親の方を見た。
「なんで、教えてくれなかったんだよ?」
少々恨みがましい口調で言うと、母親は涼しい顔で麦茶を飲んでから言った。
「だって、驚かしたかったんだもん」
「信じらんね。ガキかよ?まったく…」
夏樹が呆れた口調でそう言うと、母親はぺロッと舌を出した。
「ほら、2階の海側の部屋を使ってもらう事にしたから、力丸君に教えてあげなさいよ」
「うん。リキ、こっち…」
夏樹が立ち上がりながら言うと、隆哉も立ち上がって、祖母や母親にぺこりと頭を下げた。
「お世話になります」
夏樹は隆哉を案内して2階へ上がると、言われた通り海側の部屋に連れて行った。
そこは、丁度夏樹が使っている部屋の隣になり、窓を開けると、海が見渡せる部屋だった。
だが、そんな眺望を楽しもうともせず、隆哉は持っていた荷物をそこへ置くと、すぐに夏樹の腕を掴んだ。
「俺が来られないって言ったから?それで、腹を立ててアイツと?」
“アイツ”とは、勿論鉄太の事だろう。 夏樹は必死で首を振ると隆哉を見上げた。
「ちっ、ちがッ…。鉄ちゃんとは何でもない。ホントに、ふざけただけだってッ」
「男同士で、ふざけてキスするなんてあり得ないッ」
「な、なんでッ。あっ、いやッ…」
いつも穏やかで優しい隆哉が、こんな風に怒りを露にするのを見るのは、初めてだと言っても良かった。
ギュッと腕を引かれて畳みの上に転がされ、夏樹は恐怖に目を見開いて圧し掛かってきた隆哉を見上げた。
「や、止めろよッ。下にみんな居る…」
「当てつけるなんて、酷いよ、夏樹」
「違うッ、違う…、違うッ」
その言葉にカーッとなって、夏樹は必死で首を振ると訴えるように隆哉を見た。
「酷いのはリキだッ…」
叫んだ拍子に、夏樹の目からは涙が溢れて目尻から零れた。
「俺、すげえ会いたくて、毎日、リキのことばっか考えて、来てくれたら、なにしようって、何処へ連れて行こうって。リキに会う事ばっかり考えてたのにッ」
ヒクッと喉が鳴り、夏樹の言葉が詰まった。
「夏樹…」
夏樹の涙と言葉に驚き、隆哉は慌てて押さえつけていた彼の肩を離した。
「ごめッ…」
夏樹の目尻から両手で涙を拭い、隆哉はすぐにその頬に唇を押し付けた。
「いやっ…」
階下に祖母や母が居る事を気にして、夏樹は隆哉を押し退けようとした。
だが、隆哉の手は夏樹を離さなかった。
「ぅむぅ……んっ」
すぐに唇を捉えられ、夏樹は呻くと目を瞑った。
会いたくて、会いたくて、泣きたいほど会いたかった相手だった。そのキスを待ち望んでいた夏樹には隆哉を押し退けることなど出来はしなかった。
すぐに夏樹の両腕は隆哉の首に絡み付いた。
(リキ…、来てくれたんだ。会いに来てくれたんだっ…)
今まで、驚きや隆哉の誤解に対する困惑などで実感が湧かなかったが、抱きしめられた事でやっとこれが現実になったのか、夏樹は急に感動で胸がいっぱいになった。
「会いたかったよ、夏樹」
唇を離して隆哉が言うと、夏樹はまだ不安げな目をして彼を見上げた。
「ほんと?」
「え?ほんとだよ。何でそんな事訊くの?」
聞き返されて夏樹はカッと頬を染めると目を逸らした。
「べ、別にッ。……ただ、他の予定があるとか言ってたし、もしかしたら、俺なんかよりも遊びたい相手が居るんじゃないかと思ってさ」
「夏樹…、やっぱりまだ怒ってるんだ?」
悲しげに訊かれ、夏樹は隆哉を見上げながら首を振った。
「ちがッ…。怒ってなんかない」
隆哉の顔が降りて来て、夏樹の額に額が押し付けられた。
「あの時…、電話の向こうで夏樹が泣いたの、分かったんだ」
「なっ…」
「電話が切られてから、すごく慌てて、ものすごく後悔した。何とか連絡を取りたくて、何度も何度も携帯に電話したけど、電源は切られたままだったし。ほんとに、どうしたらいいか分からなかったよ。……ごめんな?夏樹」
「ばっ、ばっかじゃねえ?」
泣き出した事がばれていたと知って、夏樹は恥ずかしくて真っ赤になった。そして、ついつい、素直じゃない夏樹の口は強がりを言ってしまうのだ。
「泣いてなんかないっ。泣く訳ないだろ?そんなの、リキの思い違いだッ」
だが、そんな夏樹の精一杯の強がりも隆哉には通じなかった。
「夏樹以上に会いたい相手なんかいない。夏樹が一番だよ。一番大事だ」
「リ、リキ…」
「寂しい思いさせてごめんな?泣かせてごめん…」
その言葉に、夏樹の瞳にはまた涙の幕が下りた。
自分を泣かせたと思って、隆哉は予定を放ってまでわざわざこうして来てくれたのだ。その気持ちが、夏樹にはとても嬉しかったのだ。
「俺たちが帰る時まで居られんのかよ?」
また涙ぐんでしまった事が恥ずかしくて、それを誤魔化そうと、唇を尖らせて夏樹は怒ったように言った。
「うん、大丈夫。ウチにはちゃんと夏樹たちと一緒に帰るって言って来たから」
「ふぅん…。じゃ、海とかお祭りとか一緒に行けるな?」
「うん。連れてってよ、夏樹」
「分かった…」
早速、明日は海へ行こうと言おうとした夏樹の唇を、隆哉が指で塞いだ。
「さっきの、ほんとにふざけただけだね?」
じっと見つめられ、夏樹はその視線から目を逸らさずに頷いた。
「ほんとだって。大体、鉄ちゃんが本気で俺なんか相手にする訳ないだろ?俺なんかに本気になるような物好きリキだけだもん……」
最後は恥ずかしくて言葉が弱くなり、夏樹は俯いてしまった。
「そんなことない。夏樹は分かってない」
少々腹立たしげに言われ、夏樹は驚いてまた隆哉を見上げた。
「夏樹は自分が思ってるよりずっと魅力があるんだよ。夏樹を好きになる人間が、俺だけだなんてことはないよ。だから、たとえふざけてでも他の男とあんな風にして欲しくない。嫌だよ。嫌だ……」
「リキ…」
真剣な顔で言われ、夏樹はなんだか胸が熱くなった。
「うん。分かった。ごめん、リキ…」
隆哉は鉄太に嫉妬してくれたのだ。それが嬉しくて、胸の中にどんどん熱い物が込み上げる。
「もっと、チューして…?」
夏樹は目を閉じると、キスを促して少しだけ顎を上げた。
階下の事を気にしながら、それでも夏樹はたっぷりと隆哉にキスしてもらい些かぼうっとなってしまった。
身体を離した後も火照りが引かない。 本当はこのまま抱いて欲しいと思った。
だがまさか、真っ昼間、しかも階下には父母や祖母が居るというのに行為に及ぶ訳にはいかない。隆哉だって勿論、それを分かっているからこそ、名残惜しげにだが夏樹の身体を腕から離したのだ。
「う、海まで行ってみる?」
開け放した窓からの風で頬を冷やそうと、夏樹は窓辺に立って海の方を指差した。
「うん、行きたい。行こうよ」
隆哉も嬉しそうにそう言って、夏樹の隣に立つと海を眺めた。
まだ、日が暮れるまでには間があるし、2人は海まで散歩する事にして家を出た。
隆哉の隣を歩きながら、目の前の地面に伸びた2人並んだ影を見て、夏樹はまた嬉しさを噛み締めていた。
(居られるんだ。ずっと一緒に。朝から晩までずっと、リキと一緒なんだ…)
見上げると、隆哉もすぐに夏樹を見て微笑んだ。
そして、手を繋ぎたそうにして躊躇っているのが分かった。
しかし、まだ海水浴客が大勢居る浜の近くで、男同士で手を繋いで歩く訳にはいかない。隆哉は諦めて苦笑すると、僅かに夏樹の手に触れただけで、すぐに手を引っ込めた。
途端に、夏樹の頬はまた火照り始めてしまった。
それが恥ずかしくてサッと隆哉から目を逸らすと、海岸の方へ目をやった。
丁度そこは、海水浴場の方へ伸びる道と夏樹が鉄太と一緒にサーフィンをしていた北浜へ伸びる道が別れている場所だった。
「こっちへ行くと海水浴場。ちゃっちいけど、海の家とかもあるよ」
夏樹が説明すると、隆哉は頷きながらそちらを見た。
ここまで来ると車は入る事が出来ない細い道路になっていて、その道筋には海水浴客目当ての商店が幾つか並んでいる。
「あっちは北浜って言って波が荒いんだけど、今はその波を目当てにサーファーが集まるようになってるんだ。俺も、鉄ちゃんにボード習ったんだぜ」
言いながら夏樹が北浜へ伸びる道を指すと、隆哉の動きがぴたりと止まった。
ハッとして見上げると、隆哉はさっきまでとはガラリと変わって、少し険しい顔をしていた。
「あ…。な、習ったって言っても、まだちゃんとは乗れないけど…」
「また、教えてもらうつもり?」
乾いた声で、隆哉は夏樹の方を見ずに言うと、北浜へ向けて歩き出した。それを追いながら、夏樹はその背中に言った。
「う、ううん…。何にもすることなくて暇だったから、鉄ちゃんが誘ってくれたんだ。でも、リキが来たから、もう俺……」
夏樹の言葉が途切れると、隆哉は足を止めて振り返り彼を見下ろした。
「リキと遊べるなら、その方がいいに決まってるだろ?」
照れ隠しに夏樹が膨れながらそう言うと、隆哉は嬉しそうな顔をした。
「ほんと?」
「ほんとだよ」
怒ったようにそう言うと、夏樹は隆哉を追い越し、北浜へ向かってずんずんと歩き出した。
隆哉は余程、鉄太の事が気になるらしい。
自分が隆哉以外の男に目を向けるなんて有り得ないのに、と夏樹は思ったが、彼の嫉妬が嬉しくもあった。
嫉妬するほどに自分の事を想っていてくれるのかと思うと、心の中の不安がどんどん影を潜めていくのが分かった。少しだが、夏樹も自分に自信が持てるような気がしたのだ。
「まだ、みんなやってるなぁ」
サーファーの姿がチラホラと波間に見える場所まで来ると、夏樹はそう言いながら足を速めた。
「あ、鉄ちゃんもいる…」
砂浜の上に駆け降りた夏樹が鉄太の姿を見つけてそう言うと、隆哉がすぐに追いかけて来て身体を寄せてきた。
「どの人がそう?」
「ほら、磯の向こう側、…今、波に乗った白いボードの…」
「ああ…」
額に手を翳して、隆哉がじっと波に乗る鉄太を見つめた。
「凄いな。上手い…」
「うん。鉄ちゃん、海育ちで波に慣れてるし、それに運動神経もいいんだよな」
「ふうん…」
さすがの隆哉も鉄太のボードテクニックに感心したらしく、器用に板を操って波の上を滑って来る姿を感心するように眺めた。
「やっぱカッコいいなぁ…、鉄ちゃん」
呟くように夏樹が言うと、隆哉の身体が少し強張った。だが、鉄太を目で追っていた夏樹はそれに気づかなかった。
ボードから降りた鉄太が夏樹に気付いたらしく、海の中から手を振った。
夏樹がそれに応えて手を上げると、鉄太はボードに腹這いに乗り、こちらに向かって漕ぎ始めた。
「もう、上がるのかな?」
言いながら、夏樹は鉄太の方へ向かって歩き出した。
やがて、鉄太がボードを抱えて砂浜へ上がって来た。そして、夏樹と隆哉が並んでいる前に立つと、少し息を切らしながら笑みを見せた。
「よ…。こっちは?友達か?」
訊かれて夏樹は頷いた。
「うん、遊びに来たんだ。さっき着いたトコ」
「こんちは。俺は浅田鉄太。夏樹のばーちゃんちの隣に住んでるんだ。まあ、夏樹とは幼馴染みたいな感じか?」
笑いながらそう言うと、鉄太は濡れた手を隆哉の方へ差し出した。
「はじめまして。力丸隆哉です。夏樹とは高校で同じクラスなんです」
ぎこちなかったが、それでも隆哉は相手に合わせて笑みを見せると鉄太の手を握った。
「ふうん…」
何故かニヤニヤ笑うと、鉄太は夏樹の腕を引いてその耳元に口を寄せてきた。
「これが例の友達だろ?」
言われて、カッと夏樹の頬が染まった。
「う…うん。まあ…」
「なるほどな…」
意味あり気に笑われ、夏樹の頬が益々赤くなった。
その顔を隠そうとして、夏樹は無意識に隆哉に背を向けた。
「鉄ちゃん、もう上がるの?」
「ああ。今日はもうお仕舞いだな。夕凪で波が穏やかになって来てるし。おまえらは?泳ぎに来た訳じゃないんだろ?」
夏樹たちの恰好を見て判断したのか、鉄太は言った。
「うん。ちょっと散歩。少し海岸線を歩いてから帰る」
「そっか。じゃ、またな」
そう言った鉄太に、隆哉はぺこりと頭を下げた。
家に帰る鉄太と別れて、夏樹は隆哉と一緒に砂浜の上を歩き始めたが、見上げた彼の顔が少し強張っているのにやっと気が付いた。
「なんだよ?また、怒ってんのか?」
呆れたように夏樹が言うと、隆哉は彼を見ようともせずに答えた。
「別に…」
「だから、俺と鉄ちゃんは何でも無いって」
夏樹が腕を掴むと、隆哉はその手を振り解いて掴み直した。
「やっ…」
手を繋がれて、夏樹は驚いて振り払うと急いで回りを見回した。
「や、やめろよ。こんなとこで…」
疎らになってきたとは言え、まだ海岸には人がいる。見られたら変に思われるに違いなかった。
「も…、もう、帰ろ」
夏樹は回れ右をすると、元来た道を戻り始めた。
勿論、隆哉と歩くのが嫌になったのではない。その逆で、人目の無い処で2人きりになりたくなってしまったのだ。
だが、そんな夏樹の気持ちは隆哉には伝わらなかったのだろう。少々強張った表情で、前を行く夏樹を見つめていた。