イヌ・4
-13-
買い物をしてから帰ると言った美雪とファミリーレストランの前で別れると、夏樹は1人で家の傍まで帰って来た。
小高のマンションの近くのコンビニエンスストアに寄り、スナック菓子と清涼飲料水を買って表へ出た。
なんとなく気になって、小高のマンションン方へ足を向けると、近くまで行って上を見上げた。
小高の部屋は6階だと聞いている。もしかすると、まだ隆哉は彼と一緒にこの中にいるのかも知れない。
フッと溜め息を漏らし、夏樹は視線を外すと踵を返して歩き始めた。
こんな所で見ていたって、隆哉に会える訳ではない。増してや、彼が自分の所へ戻って来てくれる訳でもなかった。
家に帰って自分の部屋へ上がると、夏樹はエアコンを付けて買って来たペットボトルの蓋を開けた。
部屋の中はまだ蒸し暑く、すぐにじっとりと汗が滲んできた。風があった分だけ、まだ表の方が涼しかったくらいだ。
エアコンが効くのを待ちながら、夏樹は飲み物を喉へ流し込んだ。
すると、まだバッグに入っていた携帯が鳴り出した。
ペットボトルを持ったまま、空いている方の手で携帯を取り出すと、メールの相手は驚いた事に小高だった。
「夏樹、今日は心配掛けてゴメン。ちょっと気分が悪くなっただけで、もうすっかり元気だから」
そう始まった文章を夏樹はゆっくりと読み進めた。
小高の文には、顔文字も絵文字も使われていなかった。それが、何だか不吉な気がして夏樹は少し鼓動を早めた。
「俺、夏樹に謝らなきゃって思ってたんだ。リキの事、さっき夏樹は否定してくれたけど、でもやっぱり、俺が2人の間に割りこんで気拙くさせたのは確かだと思う。ごめんな…?」
夏樹の胸が更に激しく鳴り始めた。
一体、小高は何を言おうとしているのだろうか。それは、映画館で言い掛けたことなのだろうか。
あの時の小高の表情を思い出し、夏樹は更に不安に駆られた。
「夏樹とリキが親友同士なのはみんな知ってるし、最近、2人が一緒にいないのを不思議がってリキに訊いてくるヤツもいる。みんなも俺が邪魔してるんだろうって、きっと思ってるよな。
ホントにそうなのかもって思う。邪魔してるつもりはなくても、結果的にはそうなってるんだよな?ごめん…。
でも、許して欲しい。
俺は、夏樹とは違うんだ。こんなこと、メールで言うのは卑怯だと思うし、言うべきじゃないけど、でも、面と向かって話す勇気が無いから許してな?」
何を許せばいいのだろうか。そして本当に、許して欲しいと思っているのだろうか。
携帯を持つ夏樹の手が僅かに震え出した。
「俺は友達としてじゃなく、リキが好きなんだ。
前に、好きな人がいるのかって夏樹に訊かれたけど、あの時答えた相手はリキのことなんだ。
だから、ごめん。
俺がリキの傍にいる事を許して欲しい。それから、俺の事は構わないけど、リキの事を変な目で見ないでやって欲しいんだ。
嫌われるかもって思ったけど、でも、どうしても夏樹にだけは本当の事を言っておかなくちゃ駄目だと思って…。
突然、こんなメールを送ってごめん。
混乱させたかも知れないよな?本当に心から謝ります」
小高のメールはそれで終わりだった。
もう、夏樹には分かっている事だったが、それでもこうして本人から事実を突き付けられると辛かった。
「夏樹とは違う」
と、小高は言ったが、何処も少しも違ってなどいない。
ただ違うのは、隆哉が選んだのは小高だったというだけだ。
「ごめん…って、何が…?」
憎みたくないと思っても、もうどうしようもなかった。
口惜しくて、腹立たしくて、込み上げて来る苦い思いを消すことが出来ない。
幾ら知らないからと言っても、何故こんな仕打ちを受けなければならないのだろうか。
「リキに好かれてごめんって…?」
呟いて、益々空しさに襲われると、夏樹はベッドの上に横になった。
「もう…、学校、行きたくない…ッ」
叫んで、夏樹は涙を吸わせる為に枕を抱えた。
翌日、眠れずに泣いていた所為で腫れ上がった顔のまま夏樹がシャワーを浴びていると、扉の外で母親の呼ぶ声がした。
シャワーを出したまま、夏樹が構わずに顔を覗かせると母親はちょっと眉を寄せて、出しっ放しのお湯を見てから言った。
「学校の先輩だって子が来てるわよ」
「先輩…?誰?」
怪訝そうに夏樹が聞くと、母親は何故か目を輝かせた。
「吉岡君って子。凄く綺麗な子ねえ…。美少年だわ、正しく」
「え…?吉岡さんが…?」
何故、吉岡が自分の所へ来たのだろう。
夏樹は、その理由が分からずに戸惑った。
「どうする?下で待っててもらう?それとも、部屋に上がってもらっちゃっていい?」
「あ、うん。部屋で待っててもらって。すぐに出るから」
「分かった。早くなさいよ。あんまり待たせたら悪いからね」
「うん」
夏樹は返事をしてドアを閉めると身体についていた泡を急いで流して、その後、お湯を止めて水を出すと顔に掛けた。浮腫んだ顔を少しでも戻したかったからだ。
だが、その程度では余り効果は無く、バスルームを出て鏡を見ると相変わらず冴えない顔だった。
だが、いつまでも吉岡を待たせている訳にはいかない。
一体、自分に何の用があるのか分からなかったが、吉岡と自分の間に共通してあるものは隆哉以外にはない。
だから多分、吉岡は隆哉の事を話したくて来たのだろうと夏樹は思った。
もしかすると、あの後も自分と隆哉の事を心配してくれていたのかも知れない。
夏樹は急いで体と頭を拭くと、服を着て自分の部屋へ向かった。
「済みません。待たせちゃって…」
部屋に入りながらそう言うと、吉岡は夏樹の机の椅子に座って、母が持ってきたらしいジュースを飲んでいた。
「あ、いや…。俺こそ、急に来ちゃってごめん」
吉岡は持っていたジュースのコップを机の上に置いてそう言った。
「いえ…。あの、俺に何か…?」
ベッドの上に腰を下ろしながら夏樹が訊くと吉岡は頷いた。
「うん…。石橋君、今日、暇?だったら、今から詠慈の家まで一緒に来て欲しいんだけど…」
「えっ?市川先輩の家へですか…?」
夏樹が驚くと、吉岡は神妙な顔で頷いた。
「うん…。いきなりで吃驚したと思うけど、詠慈がどうしても石橋君と話がしたいって言うんだ」
夏樹はコクッと喉を鳴らすと、膝の上に置いた拳を握り締めた。
「それは…、リキのことですか…?」
当然、それ以外無いと思ったが夏樹は訊いた。
そして、吉岡は予想通り頷いた。
「うん…。余計なお節介だとは思ったんだけど、でも俺も詠慈も君達2人の事を放っておけなくて…。この前、石橋君の様子から、2人が別れたみたいだって思ったんだ。でも、前に詠慈から聞いてたことから考えると、どうしても信じられなくてな」
苦笑しながらそう言った吉岡から夏樹はなんとなく目を逸らした。
夏樹自身だって、今でも信じられないのだ。
ほんの1週間前まで、隆哉は自分のものだった。
隆哉の隣には、小高ではなく、何時だって自分が居た。その場所は、いつでも自分の為に空けられていた筈だった。
「リキの方が君を嫌うなんて絶対に有り得ないって詠慈も言ってる。だから、石橋君から話を聞きたいんだよ」
吉岡が話し終えても、夏樹は顔を上げなかった。
2人に聞いてもらった所で、今更何かが変わる訳では無いと思う。隆哉の心が、自分の所へ戻って来る事はないのだ。
「もう…、いいんです。心配して貰って有難いけど、でも、もう終わったことだから…」
言いながら、また悲しくなって夏樹は唇を噛んだ。
もう終わったこと…。
認めたくはないが、それが事実だった。
「そうかな…?」
吉岡の言葉に、夏樹はやっと顔を上げた。
すると、その勝気で聡明そうな美しい瞳がじっと自分を見ていた。
「俺はそうは思わない。毎日リキを見ているから分かるんだ。リキはずっと、何か悩んでる」
「え…?」
「剣は精神状態が深く影響する。だから、俺たちには分かる。リキの心には何か大きな悩みがあるんだ」
コクッと喉を鳴らし、夏樹はじっと吉岡を見た。
夏樹には剣道の事は分からない。だが、吉岡と市川がそう感じるのなら、きっと間違い無いのだろう。
もう1度誘われて、夏樹は吉岡と一緒に市川に会いに行く事を承諾した。
話を聞いて貰っても、隆哉の心が変わる訳ではないと思う。だが、もし隆哉の心に辛い何かがあるのなら、それを知りたいと夏樹は思った。
そして、もし自分が取り除いてやれるのなら力になりたいと思った。
隆哉の方が、例え、自分を邪魔な存在だとしか思えなくなっていたとしても、夏樹の気持ちはまだ変わってなどいない。隆哉の為に何か出来るのなら、今度は自分が少しでも彼に返したかった。
市川の家は、夏樹の家からバスで20分ほどの所だった。
着くまで、吉岡は余り喋らなかったし、夏樹の方でも何を言っていいのか分からず、黙ったまま並んでバスに揺られていた。
「こっちだよ」
バスから降りると、先に立って歩き出した吉岡に付いて夏樹も歩き出した。
バス停からは5分ほど歩いただけで市川の家に着いた。
すると、吉岡はチャイムも押さずに玄関のドアを開けた。そして、玄関に並んだ靴を確認すると夏樹を促して上がるように言った。
その靴を見て、夏樹は気が付いた。
待っているのは市川だけではないらしい。
(これ、リキのだ…)
きちんと揃えられた靴は、夏樹の見慣れた隆哉の靴だった。
「あ…、あの、俺…」
尻ごみをした夏樹を見て、吉岡はそれに気付いたらしい。サッと夏樹の手を掴むと、軽く引きながらじっと目を見つめた。
「悪いようにはしないから、上がって?」
「で、でも…」
今、隆哉と顔を合わせるのは辛過ぎる。
夏樹は掴まれた手を取り戻そうとして手前に引っ張った。
「リキとは顔を合わせないようにする。詠慈がリキと話をするから、石橋君に聞いて欲しいんだ」
「え…?」
それは、どういうことなのだろう。
夏樹が躊躇っていると、吉岡はさっきよりも強く夏樹の手を引いた。
「さ…。来て」
まだ良く意味が分からなかったが、夏樹は覚悟を決めると、靴を脱いで上へ上がった。
吉岡は唇に指を当てて振り返ると、夏樹を誘導するようにして2階へ上がって行った。そして、ひとつの部屋の前を通り過ぎると、その先のドアをそっと開けて、また唇に人差し指を当てた。
夏樹は頷いて、音を立てないように彼の後に付いて部屋へ入った。
部屋の中は無人で、普段は使っていないのか奥の方に古い机があり、衣装ケースなどが積み上げられていた。
吉岡は閉じた襖の前に座ると、夏樹を手招きした。
どうやら、襖を開けるとさっき通り過ぎた部屋に通じているらしく、その向こうに市川と隆哉が居るらしかった。
夏樹はコクッと喉を鳴らすと、吉岡の隣にゆっくりと座った。