イヌ・4
-15-
断ったが、送って行くと言われて夏樹は隆哉と一緒に夜道を歩いた。
隆哉を責める気持ちも無かったし、これ以上、何かを言うつもりもなかった。
だが、隆哉の方では夏樹と話したいとずっと思っていたのだろう。口を開くと、ポツポツと自分の気持ちを語り出した。
「沖名さんに、全部聞いた。夏樹が、どんなに嫌な目に合っていたか…。俺、気付いてやれなくて…、今度こそ、ちゃんと夏樹の事守りたかったのに…」
「そんなのいいよ。リキが悪い訳じゃないんだから…」
「ううん、そうじゃない。沖名さんが言った事が正しいよ。俺がちゃんと気をつけて、そしてもっと毅然とした態度を取るべきだった。だって、沖名さんは知ってたのに、俺が気付かなかったのがおかしいんだ。ホントに、夏樹には申し訳無いと思ってる…」
「リキ…」
「多分、俺は…、夏樹を好きでいる資格なんか無いんだと思う。夏樹を自分のものにしておく資格も無いんだと思う。…今度の事で、つくづくそれを悟ったよ…」
項垂れる隆哉を見て、夏樹はキュッと唇を結んだ。
「リキは勘違いしてる」
「え…?」
「俺はそりゃ、チビだし、リキに比べたら力も無いし弱いし…。けど俺、これでも男なんだぞ。自分の事ぐらい自分で守れる。リキに守って貰おうなんて考えてない」
「夏樹…」
顔を上げて自分を見た隆哉に夏樹は真っ直ぐな視線を返した。
「俺を見くびるなよな?俺、そんなに弱くないから」
「ち、違うッ…。俺は夏樹を弱いなんて思って無いよ。そうじゃない…」
「分かってるよ」
そう言うと夏樹は笑った。
「リキが俺を守ってくれようとする気持ちは分かる。それはリキの優しさだと思うし、やっぱり、リキが男だからだと思う。でも、俺を守れなかったからって、それを負い目に感じて欲しくない。だって、俺が本当に辛いのは、そんな事じゃないから」
夏樹はそう言うと立ち止まって隆哉を見上げた。
「リキが基との約束を守ったのは仕方無いと思う。ううん、それでいいんだと思う。だけど、言って欲しかった…。待ってて欲しいって、ひと言でいいから…。そしたら、俺…ッ」
言葉に詰まって、夏樹は下を向いた。
「リキに嫌われるのが1番辛い。リキが離れて行っちゃうのが1番辛いんだ。…他の事なんか全部我慢出来るよ。女子の嫌がらせなんて、ホントに平気なんだよッ。けど…、なんで黙って離れて行くんだ?それが1番不安なんだ。…なんで?なんでそんなこと、分かんないんだよ…ッ」
「夏樹…」
隆哉の手が再び夏樹を抱き寄せた。
夜で人通りも無かったが、此処が道端だという事を、もう2人は全く気にしていなかった。
「事情を話してくれなくてもいい。ただ…、別れるつもりは無いって、待っててくれって言ってくれれば良かったんだ。それだけで良かったのに…」
夏樹の背中に回された隆哉の手がゆっくりと撫でていった。
その動きだけで、夏樹には隆哉の後悔がはっきりと分かった。
「全部、話そうと思ったんだ…。夏樹に“さよなら”って言われた時、全部話して許して貰おうと思った。……でも、沖名さんと一緒にいる夏樹を見た時、それが自然なのかも知れないって思った。俺と付き合って、これからも夏樹に嫌な思いをさせるより、普通に女の子と付き合った方が夏樹だって楽しいんじゃないかって…。急に怖気づいた」
バッと顔を上げて、夏樹は怒りを込めた眼で隆哉を見た。
「なら、俺の気持ちはッ?どうでもいいのかよッ?俺はリキが好きなのに、他の誰かといて俺が満足出来るとでも思うのか?俺の気持ちはどうなるんだッ…」
夏樹の言葉に、隆哉は済まなそうに目を伏せた。
「うん…。夏樹の気持ちを疑った訳じゃないんだ。けど…、夏樹は俺が初めてで、だから、俺に流されてる所があるんじゃないかって、心の何処かで何時も不安だった。もし、夏樹が冷静になって考えたら、やっぱり男の俺じゃなく女の子と付き合いたいって思うんじゃないかって…。そして、夏樹がそれを悟るのを俺が邪魔してるんだとしたら、俺はきっと夏樹から離れるべきなんだろうって思ったんだ」
「リキ…」
夏樹は驚いて隆哉を見上げた。
隆哉と付き合うようになってから、今まで、1度だって考えた事など無かった。隆哉以外の誰かのことなど気にした事もなかった。
確かに自分は、全て隆哉が初めてで、彼にリードされるままにキスもセックスも覚えた。それに溺れて、流されていると言うのだろうか。
そんな事はあり得ないと夏樹は思った。
快楽を得たいが為にだけ、自分は隆哉を求めているのではない。
夏樹は1歩後ろに下がると隆哉の体から離れた。
「俺…、リキが基を選んだんだって思った時、一晩中泣いたよ…?」
震える声で夏樹は話し始めた。
「2人が一緒に居るのを見るのが辛くて、死んじゃいたいと思ったよ?」
「夏樹…」
伸びて来た隆哉の手を夏樹は振り払った。
「リキは勝手だ。何で、独りで全部決めちゃうんだよ?何で俺に話してくれないんだ…?ただ流されてるだけだったら、好きじゃなかったら、とっくに諦めてる。いつまでも未練たらしく待ってたりしないよッ…」
夏樹の叫びに、隆哉は言葉もなく項垂れるだけだった。
「リキ…」
隆哉に近付き、夏樹はその手を取った。
「俺、リキが考えろっていうならちゃんと考える。もう1回、自分の気持ちを確かめてみるよ」
「夏樹……」
顔を上げた隆哉の目を夏樹はじっと見上げた。
「でも、幾ら考えたってきっと変わらないから…。俺にはリキしかいない。それは、絶対に変わらないよ」
隆哉は何も言わなかった。
夏樹もただ、黙って彼に抱き締められたまま、その胸に顔を埋めた。
翌朝、約束していなかったが夏樹が学校へ行く為に外へ出ると、そこに隆哉の姿があった。
「リキ…」
「おはよう…」
照れ臭そうに笑った隆哉に、夏樹も笑みを見せた。
「走る時間、増やすんじゃなかったのか?」
皮肉っぽくそう言うと、隆哉はばつの悪そうな顔をして笑った。
「もう、必要なくなったから…。急に色んな事があって、どうしていいか分からなかったんだ。それもこれも、独りで抱え込んだ所為なんだけど…。ただ、闇雲に走っていたかった。そんなの、何の解決にもならないって分かってた癖にな」
その言葉に夏樹は頷いた。
大人っぽく見えても、隆哉だって自分と同じ16歳なのだ。
そんな自分達にとって、今度の事は余りにも大き過ぎる問題だったのかも知れない。
昨夜、家に帰ってから夏樹は隆哉に言った通り、自分の気持ちを冷静に振り返ろうとした。
だが、隆哉を好きだという気持ち以外、何も出ては来なかった。
そして、自分がもし、隆哉と立場が逆だったらと考えてみた。
もし、小高が隆哉ではなく自分を求めて来たとしたら、夏樹は自分もまた、一人では解決出来ずに、正しい選択がどれなのかも分からずにいただろうと思った。
小高は隆哉に自分を“卑怯だ”と言ったらしい。
そうなのかも知れないと思う。
だが、夏樹はそれを許せないとは思わなかった。
割り切れない事は沢山ある。そして、全てを割り切ってしまえないから、人間なのだと思う。
隆哉は自分の選択が間違っているのかも知れない、と言った。
だが結局、夏樹にはそれが間違っているのかいないのか、判断は出来なかった。
「夏樹…、本当なら、俺は基に事実を告げるべきなんだと思うんだ」
隆哉の言葉に夏樹は顔を上げて彼を見た。
「基には友達として傍にいるからって、そう言べきなんだと思う。どう考えたって無理があるのは分かってるんだ…。このままじゃきっと、基自身だって辛い筈だし、俺との事がいい思い出になるとも思えない。俺は、基に出来るだけの事はしてやりたいし、求めてくれるなら傍にもいてやりたい。けど、それは偽の恋人としてじゃなく、友達として出来る範囲でするべきなんだと思う」
隆哉は言葉を切ると、顔を上げて夏樹を見た。
「俺が基の事を拒絶出来なかったのは、優しさとか同情とか、そんなんじゃないんだ…」
「え…?」
フッと視線を外し、隆哉はまた前を見た。
「俺は…、ただ、怖かった。…俺にとって死なんて他人事で、身近な人の死なんて90過ぎて大往生したひい爺ちゃんぐらいだ。…だから、自分と同じ年で死を覚悟するって事がどういうことなのか俺には良く分からない。…基の本当の気持ちなんて、分かる訳が無いんだ」
隆哉の言葉に、夏樹も黙って頷いた。
昨夜、夏樹は夏樹なりに小高の気持ちを考えてみたのだ。でも、結局、自分の想像でしかないそんなものは、全てが間違いだとしか思えなかった。
「俺が基と付き合ったからって基の運命が変わる訳じゃない。けど、断る事は怖くて出来なかった。俺の腕を掴んで、好きだって言った基の顔が忘れられない…。可哀想だなんて思った訳じゃないんだ。あの時は…、本当に怖くて…、断ったら何かが終わってしまうような気持ちになった…」
辛そうに言い終えた隆哉の腕を、夏樹はそっと掴んだ。
隆哉の恐怖の意味を、完全に理解出来た訳ではない。体験したのは隆哉で自分ではないからだ。
だが、隆哉の苦しみを少しは分かったような気がした。
自分の選択が、余りにも大きな意味を持つのだと知ったら、きっと自分も怖いだろうと思った。だから勿論、隆哉を臆病だなどと思えない。
小高の病気を知って、隆哉は優しさから付き合うつもりになったのだと夏樹も思っていた。だが、そうじゃなかったのだと知って、小高には悪いが夏樹は少しホッとした。
自分が同情に負けた訳ではないのだと感じたからだ。
キュッと力を込めると、その夏樹の手を、隆哉がもう一方の手で掴んだ。
「俺は…、間違ってるって分かってる。夏樹を苦しめたことも、本当に済まなかったと思ってる。いや…、何より自分自身を軽蔑したよ…」
「リキ…」
立ち止まった隆哉を、夏樹も正面から見上げた。
「俺も、リキに正直になってなかったと思う。不安な気持ちを、ちゃんとリキに伝えてたら、もっと早く分かり合えたんじゃないかって……。だから、もういいんだ」
「夏樹…」
隆哉の手が伸びて、夏樹の肩を掴んだ。
「昨夜、俺しかいないって言ってくれたの、凄く嬉しかった。ホントに、ホントに嬉しかったよ。ありがとう…」
隆哉の言葉を聞いて、夏樹は忽ちカッと頬を赤らめた。
「お、俺…、そんなこと言ったっけ?」
隆哉から目を逸らすと、夏樹は歩き出した。
「言ったよ。ちゃんと聞いた」
「そうかな?聞き違いだろ?俺、覚えてない」
改めて言われると照れ臭くて、夏樹は逃げるように脚を早めた。
「言ったって…ッ」
「知らないよっ」
「夏樹…っ」
腕を捕まれそうになってそれを避けると、夏樹はダッと走り出した。
「あっ、待てよッ」
どうせすぐに追い付かれて捕まってしまうと分かっていたが、それでも夏樹は逃げた。
こんな他愛の無いじゃれ合いが、酷く嬉しく感じる。
元通りになったように見えても、そうではないのだと夏樹には分かっていたからだ。
そして、多分隆哉もそうだろうと思う。
2人の間に小高の存在がある限り、隆哉も、そして夏樹も頭の中から彼を消す事は出来なかった。