イヌ・4


-14-

すると、襖の向こうから2人の話し声が聞こえてきた。
「おい、リキ…、おまえ、ホントに石橋と別れたのか?」
そう訊いた市川の言葉に、夏樹の胸がドキンと鳴った。
隆哉は自分と別れたと、はっきりと市川に言ったのだろうか。
サッと吉岡が自分の顔を見るのが分かったが、夏樹は身動ぎもせずに襖の向こうに耳を澄ました。
すると、苦しげな隆哉の声が聞こえてきた。
「俺は…、別れたつもりはありません…」
その言葉に、今度は夏樹もハッとして顔を上げた。
別れたつもりはない。
隆哉は自分と別れたつもりは無いと言うのか。
「だが、石橋はおまえの方が別れたがったんだって言ってたぞ。違うんか?」
「違いますッ…。俺は…、俺は、夏樹と別れたくなんかない。けど…、今は傍に居る訳にはいかないんです」
夏樹の膝の上で、ギュッと拳が握られた。
辛そうな隆哉の声に胸が詰まる。
市川や吉岡が思っているように、本当に隆哉は胸に何かを抱えているらしかった。
一体、それは何なのだろう。夏樹は早く知りたいと思った。
「いいか?リキ、俺と顧問の佐藤先生は勿論小高の事情は聞いてる。何かあったら拙いし、それに、部に在籍する期間が、期間だからな。だから、俺には隠さなくていい。…おまえは小高の病気に同情してるだけなんだろ?」
「主将…」
小高はやはり病気らしい。だから、部活も思うように出来なかったのだろう。
だが、その事を、小高はクラスメートや部員たちにも隠しているらしかった。
「だがな、それはおかしいと俺は思う。幾ら、小高を可哀想だと思っても、石橋を傷つけてまで付き合う必要はないだろう。もし、小高の傍に居てやりたいと思うなら、その事情を石橋にだけはちゃんと話すべきだ。誤解させたままで、放っておくのはおかしいんじゃないか?」
「…主将…、多分、主将が知っている事は全部じゃ無いと思います」
「…え?」
隆哉の言葉を聞いて、隣の吉岡が身を乗り出すのが分かった。
小高が病気らしいという事は夏樹にも分かっていたが、それはもしかすると、夏樹が思っているよりもずっと深刻なものなのだろうか。
「基が入部した初日、帰りに何か食べていこうって誘われて気軽に承知したんです。部活へ行く前に夏樹にも声を掛けられて、本当なら何時もみたいに待っててもらって、3人で行っても良かった。…けど、あの前日、俺はまた夏樹を傷つけるような事をしてしまった…」
隆哉の言葉に夏樹はハッとした。
バスルームで強引に自分をを抱こうとした事を、隆哉は思ったよりも気にしていたらしい。あの時、彼の態度がおかしかったのは基が原因ではなかったのだ。
「少し前に、同じ1年の女子から夏樹が俺の所為で嫌な目に合ってるって聞いて…、前にも女の子達に嫌がらせされた事があったけど、でも、俺が止めるように言った後はもう何も無いと思ってた。でも、そうじゃ無いって分かって…。多分、夏樹は俺に心配させまいとして隠してたんだと思うんですけど、でも、それに気付いてやれなかった自分が情けなくて…。大事にしたいのに、ちっともそう出来ない。俺が傍にいることが夏樹にとっては良くない事なんじゃないかって考えてしまった。…どうしたらいいのか、悶々としてる時、基から誘われたのをいいことに、俺は、少し夏樹と距離を置こうとしたんです」
やはり、美雪に言われた事を隆哉は酷く気に病んでいたらしかった。
(リキ…)
隆哉の気持ちを自分はまるで分かっていなかったのだと夏樹は思った。
彼の気持ちを信じずに、嫉妬の所為で原因は基なのだと思い込んでしまったのだ。
「だから、石橋を連れずに小高と2人で行ったのか?」
市川の言葉に、隆哉は頷いたらしかった。
「基は最初、誰にも自分の病気の事を打ち明ける気はなかったんです。その時が来るまで、誰にも言わずに黙っているつもりだった。でも…、マックを出て帰ろうとした時、偶然、会社から帰る途中の基のお父さんに会ってしまって…」
「それで、病気の事を聞いたのか?」
「はい…。聞いたというか、基が剣道部に入ったって聞いて、お父さんが怒ったんです。病気の事があるんで両親は部活は反対していた。それを破って、基が勝手に入部してしまったので…」
「そうか…」
「頑として言う事を利かない基に困って、お父さんは俺に頼んできた。絶対に無理をさせないように基を見てやってくれって…。俺は、まさか基が病気だなんてちっとも知らなかった。それもあんな深刻な病気だなんて…」
口篭った隆哉に、夏樹は思わず隣に居た吉岡と顔を見合わせた。
どうやら、その表情から察するに、吉岡も基の病気の事は良く知らなかったらしい。
「確かに難病だが、今度の治療で回復するって聞いてるぞ。だから、引っ越してきたんだろ?こっちの大学病院に権威が居るって…。違うのか…?」
怪訝そうな市川の声がそう訊いた。
「はい、学校側にはそう言っているらしいです。通学するのは入院するまでの短期間だが、戻ったらまた普通に生活出来るからって。…でも、本当は治療が上手くいくかどうか保証はないらしくて…」
「え…?それじゃ…?」
「はい…。無理を承知で基が入部したのは、それを知っているからなんです。やりたい事を、少しでも多くやっておきたいんだって、基はお父さんにそう言った。…そしたらもう、お父さんも何も言えなくなってしまって…」
「…そうだったのか…」
暫くの間、隣の部屋は沈黙した。
夏樹はじっと襖を見つめながら、複雑な思いに囚われていた。
こんな事情を知ったら、優しい隆哉が放って置ける訳がない。隆哉は自分の出来る限り、精一杯、小高を守ってやろうとするだろう。
そして、そうしたのだ。
部室の裏で小高が先輩達に責められていた時の事、そして、映画館で小高の具合が悪くなった時の事を夏樹は思い出した。
「誰にも言わないで欲しいと基は言いました。もう、誰にも同情されたくないんだって。…みんなにも普通に接して欲しい。気遣われるのも、不必要な興味を持たれるのも、もう嫌なんだって…。夏樹にも言わないでくれって、そう言われた。俺は、約束したんです。だから、夏樹に言えなかった…」
「リキ…」
辛そうな隆哉の声に、夏樹の胸が詰まった。本当は、何度も言い掛けたのを知っている。
そうだ、あの時、隆哉はきっと自分に打ち明けてしまいたかったのだろう。
「小高に、好きだって言われたのか…?」
「はい…」
隆哉の返事を聞いて、夏樹は顔を上げた。
「真似事でいいんだって、基は言いました。誰にも同情されたくないって言いながら、卑怯だよなって…。でも、初めての恋なんだって…そう言った。…だから、入院するまでのほんの短い間でいいから、付き合って欲しいって…」
「…そうだったのか…」
「こんなの間違ってるのかも知れない。俺には夏樹が居て、基には友達以上の感情は持てない。しかも、期限付きで付き合うなんて…。でも、断れなかった。嫌だって言えなかった。…俺には、そんなの間違ってるって、基に言う事は出来なかったんです…」
そこまで聞いて、夏樹は立ち上がった。
ハッとして見上げた吉岡に頭を下げると、夏樹はそっと部屋を出て階段を下りた。
市川の家を出ると、夏樹は歩き続けた。

静かに涙が出た。
そして、それは止まらなかった。

何度も、何度も頬を拭い、夏樹は歩き続けた。小高の想いも、そして、それを受け止めた隆哉の思いも、どちらも辛かった。
小高も隆哉も、どちらも責める事は出来ない。そして自分は、黙って見守るしかないのだと思った。



その夜、夕食の後で夏樹はそっと家を出た。
家に帰った後で、吉岡から電話があった。
心配してくれたが、夏樹は自分の想いを告げて、心配ないからと言った。
吉岡も納得してくれたようで、もう何も言わないと言ってくれた。
あの後、隆哉と市川の間には話は無かったらしい。きっと、市川も何も言えなかったのだろう。
小高は強い、と夏樹は思った。
同じ立場になった時、きっと自分はあんな風に笑う事は出来ないだろう。
小高から来たメールはもう消してしまった。だが、その文面を思い出し、夏樹は切なくて堪らなくなった。
あれを、どんな思いで打ったのだろうか。
隆哉の心が本当は自分にはないと知っていながら、どんな思いでデートしていたのだろうか。
もし、自分と隆哉の本当の関係を知っていながら、それでもあのメールを寄越したのだとしても、夏樹はもう、彼を恨んだり憎んだりする事は出来なかった。
あの文面の裏に、夏樹は小高の祈るような気持ちを感じてしまった。
“許して欲しい”という、あの言葉の本当の意味を、今やっと知る事が出来たと夏樹は思った。

チャイムを押すと、インターフォンから隆哉の母親の声がした。
それに向かって名前を告げると、間も無く、息を切らせた隆哉が玄関のドアを開けた。
「夏樹…」
「こんばんは。遅くに、ごめん…」
「い、いや…。入って」
その言葉に、夏樹は首を振った。
「ううん。すぐ帰るから、ここでいいよ」
「え…?」
不安げな隆哉を見上げ、夏樹は笑みを見せた。
「リキ…、俺、待ってられるよ?」
「え…?」
「俺、ちゃんと待ってる。リキのこと…。だから、だから…リキッ…」
言葉が続けられず、夏樹は両手で隆哉のシャツを掴むと下を向いてしまった。
“ちゃんと戻って来て欲しい” そう言うつもりだった。
だが、込み上げる想いで夏樹の言葉は途切れてしまった。
「夏樹ッ…」
隆哉の両腕がギュッと夏樹を抱き寄せた。
それは、夏樹の息が止まるほどに力強い抱擁だった。
「ごめんっ…ごめん、ごめんッ…、夏樹ッ…」
「リキッ…」
夏樹が全てを知った事を、この一瞬で隆哉も知ったのだ。
そして、彼もまた溢れ出る想いで何も言えなくなってしまった。
ただ、じっと抱き合い、2人はお互いの存在をしっかりと確かめ合った。